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第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。⑨






 何も覚えていない。


 あの日、どうやって家まで帰ったのか。アルベルトはどうしたのか。腕の傷を何と説明したのか。

 本当に、何も覚えていない。


 ふと意識が浮上すると、すっかり一日が経って、しかもとっぷり夜も更けていた。

 窓の外に目を遣るといつの間にか降り出していた雪はすっかり街を白く染め上げ、それでも尚勢い止まらず視界を塞いでいた。

 これは随分深く積もるだろうと察せられた。


 そっと階下に降りるとまだ母親がいて、温かいホットミルクを出してくれた。

 今日一日何か変わったことはなかったか訊くと、特に何もと答えが返ってきた。レナが危惧していた人狼狩りは始まっていないらしかった。

 この雪のせいかもしれない。これでは森からも街からもお互いの領分を侵すのは難しい。深い雪は、自然のバリケードだ。

 けれど、ハタと当たり前のことに気付く。

 母は"人狼"の一言も口にしなかった。人狼狩りが雪で保留になろうと、人狼という単語が一つも出てこないのはおかしい。カイルのことはあるけれど、だからといって我が家で"人狼"というワードが禁止されている訳でもない。森と寄り添って生きていく以上、その単語を避けてはやっていけない。


 なのに、出てこない。

 まさかアルベルトが何も言っていないのか。ーーーーそんなまさか。


「レナ?」

「え?」

「大丈夫なの。顔色が悪いわよ。また大きな傷を作って……痛むんじゃないの」

 不安に揺れる母の顔を見ると、また別の痛みが胸に広がる。要らぬ心労をかけている。

「女の子なんだから……いつか取り返しのつかないような傷を顔に負ったりしそうで怖いわ。いえ、顔じゃなければいいって話じゃないし、男の子だろうと子どもにはどんな危ないこともしてほしくない訳だけど」

「母さん……ごめんね」

 潮時なのだろうか、とぼんやりと思う。森に出入りするのも、もう。

 でも、森と距離を置いて暮らす自分を、どうしても想像できない。

「違うわ、レナのしてることを否定したいんじゃないの。手放しで賛成はできないけれど、でも、母さんも父さんもレナほど真っ直ぐに自分達の不幸の渦巻くそこ()と対峙できなかった。…………カイルのことを悼みはするけれど、森で起こる不幸は避けようがないのだと、自然災害だとどこかで思おうとしてる。でも、レナはそれに真っ正面から対峙するの。柔な子にはできないことだわ」

 母は優しい。父も、また。

 危ないことがある世界に子どもが身を置くことを、理解しようと耐えようとしてくれる。

「無茶はしてほしくない。危ないことはしてほしくない。他に楽に生きれる道があるなら、それを選びなさい。ーーーーでも、今までのレナには、きっとハンターとしての生き方が必要だったと、母さんそう思うの」

 レナは、恵まれている。

「心配してるけど、でも親が子どもを心配するのは当然で、もう仕事や病気みたいなもんだわ。したくなくてもしてしまうものなの。だからそれを気に病むのはやめなさい」

 そっとレナの頬を包んだ母が、何か気付いたような顔をした。

「ね、レナ、あなた熱があるんじゃない。熱いわ。ほらほら、今日も冷えてるんだから早くベッドに入りなさい。明日の朝もその調子だったら、薬よ」

 言われてみれば少し頭がぼうっとする気もした。言われた通り横になろうと席を立つと柔らかい声がかけられる。

「おやすみ、レナ」

「おやすみなさい」

 こんな些細なやりとりが胸に染みる。これを大切にしたい。

 でも、ノアは今日も一人きり、誰もいないあの家で冷たい夜を過ごすのだ。

 どんな言葉も交わすことなく。






 それから、レナは三日ほど風邪で寝込んだ。

 その間も人狼のことが騒ぎになっている様子はなく、四日目、ようやくいつもの調子を取り戻してきたところで、訪問者はやって来た。ーーーーーーーーアルベルトだ。


 きちんと雪掻きがされている大通りは馬車も通れるが、レナの家の通りは人が歩ける幅しか整えていない。アルベルトは悪い足場の中、杖をつきながらやって来た。

 会いたくはなかったが、会わない訳にも行かない。両親も弟達も出払っていたのは都合が良かった。アルベルトも、それを見計らって来たのかもしれない。

「…………風邪だったって聞いたが」

「丁度落ち着いたところ」

 アルベルトの方もいつもの軽薄なノリは鳴りを潜め、硬い声しか出さない。

「そっちの足の具合は」

「確実に良くなってるよ」

 重苦しい空気。

 湯気をくゆらせる紅茶を出して、レナもテーブルにつく。

「…………お前、やっぱり元々知り合いだっただろう」

 ノアのことだ。

 以前ノアの棲み家でも疑われたことがあった。あの時は即座に否定した。

 でも、もうそんな誤魔化しは効かない。

「…………森の中で、何度か助けられたことが」

 でも、とレナは続ける。

「進んで馴れ合ったことはないわ。ただ、どうしても、鉢合わせることが、多くて」

 こんなはずではなかった。

「信用しようなんて、思わなかったわよ。していい存在じゃない。でも、命を救われれば、本当にそこに謀りがなければ、あれが人間を害さないと分かれば、人狼狩りとして差し出すには」

 心が咎めた。

 アルベルトにも分からないだろうか。ノアの正体が明らかになるまで、アルベルトだって恩人と感謝していたはずだ。だから森から生還した時、アルベルトは記憶が曖昧ではっきりしないの一点張りで決してあの棲み家でのことを語らないでいてくれたのだ。


「あれは、お前に惚れているのか」

 その問いかけに、肩が震える。

「お前も、あれが好きなのか」

「やめて!」

 次の問いかけには、悲鳴じみた声が出た。

「やめてよ! 人狼なのよ! 人狼なの!」

 肯定なんて、できる訳がない。それは人間社会に対する反逆行為だ。

「そうだ、人狼だ。あれは人狼だろ、間違いなく人狼だろ」

 対するアルベルトは、言い聞かせるように言った。ーーーーレナに? いや、もしかすると自分自身に。

 アルベルトの中に、何か迷いのようなものが見えるのは気のせいか。

「…………アル、あんた何をしに来たの」

 責められると、問い質されると、詰られてもおかしくないと思っていた。でも、ちょっと様子が違う。

「何の話をしに来たの」

 肯定的な空気は何一つないが、頭ごなしの否定もないのだ。

「…………俺にも分からん。人狼が人間を助けるなんて、理解の範疇を超えてる。正直、信じたくない」

 その気持ちはレナも分かる。

 アルベルトはボソリと言った。

「俺は……確かめに来たのかもしれない」

「…………確かめに?」

「レナの、心を」

「……………………」

 どこにあるのか。誰に傾けているのか。どう処理していくのか。

「ーーーーねぇ、アル」

 紅茶で喉を潤して、レナは勇気をもって言葉を取り出す。

「ん?」

「今までのあれ、本気だった?」

 繰り返されてきた求婚。断るところまでがセットの寸劇じみたお決まりの、あのやりとり。

「嘘だったことなんて一度もない」

 でもアルベルトはレナの目を見てきっぱりと肯定した。それは本当に真剣な眼差しだった。

「……そう」

 自分は贅沢者だ。そして浪費家だ。

 沢山の気持ちを差し出されて、でもそのどれもを無駄にして踏みつけて行く。自分の口からは、いつも否定の言葉しか出てこない。

「私を森から引き離せるって、本当に思ってた? そんな私を想像できた?」

 浮かべられたのは皮肉げな笑み。

「今こうなって、もっと無理矢理にでも引き離しておくべくだったって後悔してるよ。それがレナの意思を無視した、どれだけ傲慢な行為でも、多分、俺はそうするべきだった」

 アルベルトはもうレナの答えを知っている。

「でないと俺は、俺達は永遠にレナを失ってしまう」

 胸が痛んだ。ノアのせいなのかアルベルトのせいなのか、カイルへの申し訳なさなのか分からなかったが、とにかく胸が痛くて堪らなかった。


「アルベルト」

 向かいの席に座る幼馴染の男に、レナは言う。

「ごめん。ごめんなさい」

 多分お互い初めてまともに、真剣に、お互いの気持ちと向き合っている。

「私はアルの気持ちを受け取れない。アルは私の大切な幼馴染だけど、大切の意味合いはそこで止まっているの。私は森を捨てられないし、カイルを忘れられないし、自分の痛みを鈍らせたくない。アルの望む、危険なことから遠ざかった、普通の女の子にはなれない。ごめん」

 これがレナの素直な心だった。

 レナはまだ今の自分を捨てられない。変えられない。女のハンターなんて、そこらを行く普通の女の子が手にする幸せとは無縁かもしれないけど、レナはもうそれでいいのだ。

「……それであの人狼の気持ちなら受け入れられるのか」

 アルベルトの声音は責めるというより諦めや疲れの色が強かった。

 レナは少し躊躇って、でも本当のところを答える。

「ーーーー私が受け入れられないって、ノアは知ってる。解ってる」

 初めから、未来なんてない間柄だった。だから、これは当然の結末なのだ。

「人狼でさえなければ、素直に受け入れられただろ」

 今日のレナは本当に無抵抗だ。目の前のアルベルト同様すっかり疲れているのかもしれなかった。

「ーーーーそうね。うん、きっとそう」

 ノアが、人狼でさえなかったら。街中で普通に出会っていたら。森の中で出会ったとしても、ノアが木こりやハンターだったなら。

 そういう出会いでも、レナは最終的にノアに心を許してしまっただろうか。

「……でもノアは人狼なの。人狼なの人狼なの人狼なの」

 仮定の話には意味がない。もしも、なんて想像しても手に入らない現実に胸の痛みが酷くなるだけ。

「どれだけ優しくても、人間を害さなくても、純粋な愛情を抱いていようと、家族の愛が何たるかを知っていようとーーーーーーーー人狼なの」

 それが、最後に残る残酷な事実なのだ。

「あまりに決定的な、覆し難い事実だわ」

 だから、レナは線を引く。甘くて苦いこの感覚に、心の全てを侵させはしない。

「それで、良いのか」

 なのに、アルベルトが耳を疑うようなことを言い出した。

「………………アル、何を言っているの」

 良いとか悪いの問題ではない。選ぶまでもなく答えは出ている。

 人狼だと知って、その事実にアルベルトだって忌避を示したではないか。ノア(命の恩人)のことを、"あれ"としか言わないではないか。"あれ"呼ばわりで済んでるのだって、多分ものすごく折り合いをつけた結果だろうに、まさか人狼を許容しようって訳ではないだろう。

「レナ、レナは今まで愛や恋なんて、実感としては理解してなかっただろ」

「………………」

 それは、その通りだ。

「でも今、身を切られるように辛くないか。自分の心が理性なんかでは縛れないほど、狂おしく鳴いていないか」

「…………やめてよ」

 人が必死に蓋をしているというのに、何故そこに目を向けさせようとするのだ。

「受け入れ難い。受け入れ難いよ。人狼なんて、あり得ない。誰にも祝福されない。幸せになれるとは思えない」

 今、レナの心が人狼へと傾いていることを知って尚、受け入れ難いと思っているのにレナに侮蔑も拒絶も怒りも向けないアルベルトは、実に人間ができている。

「でも森で匿われていたあの間、俺は一瞬も疑いはしなかった。あれが人狼だなんて思いもしなかった。そりゃ、人狼お得意の謀りと言われれば、そういった演技力もあるのかもしれない。でもあれがそんな器用だとは、この目で見てきたからこそ思えない。あれの情は本物だ。人狼なのに………………あれじゃまるで人間だ」

 呻くようにアルベルトは言った。



「レナ、お前、あんな厄介なのと心を交わしてしまったのか」



 心を。そう、心を。



「アル、やめて」

 レナも呻くように言う。

「何が、言いたいの。アルは、今回の人狼のこと、街の誰にも報告していないでしょう。どういうつもりなの」

 そう、アルベルトは人狼が現れたことを誰にも言っていないはずだった。街のどこにも人狼の話が出ていないというのは、そういうことだ。レナが黙っているなら未だしも、アルベルトが黙っているなんて、有難いことではあったけれど訳は分からなかった。

 アルベルトはこれ以上ないくらい眉間にシワを寄せて、険しい顔をしている。彼の中にも何か葛藤がある。

 理解できないことだらけだけど、受け入れ難いことだらけだけど、とアルベルトは切り出した。

「…………レナ、命を救われた手前、今度のことは誰にも言わない。それは約束する。もう一匹の人狼の方もあれが確実に仕留めてくれてるだろう。オレにも、あの手負いの状態で生き延びられるようには見えなかった」

 罪悪感が彼にもある。人狼の出現を街の皆に黙っておくことに対して。自分の判断が正しいなんて保証はどこにもないから。もしかしたら、無害そうな顔をしてあの人狼が街を襲うかもしれない。自分が黙っていたことで、誰かの命を失わせるかもしれない。

でも。でも、命を救われたのも事実。人間を襲うどころか、同じ人狼から人間を守ったのも事実。何も害されなかったのも事実。

 そんな相手を追い込み陥れることもまた心苦しいことだ。


 人狼だけど。人狼なのに。


 目で見た情報と、絶対的常識である人狼に関する知識が一致しなくて混乱するのだ。

「オレは知ってる。レナがどれほど人狼を憎んでいるか。許せないか。人狼に人生を潰されたか。カイルの死がレナの中に根を張って、どうしようもないこと。そこから、違う場所に連れ出してやりたかった」

 あの時一緒に人狼に、ノアに出くわしたのがアルベルトで良かったと心の底から思った。

 レナをよく知るアルベルトだから、ノアに命を救われたアルベルトだからこそ、彼は苛まれながらもレナの心を優先してくれる。

 これが他の誰かだったら今頃街は大混乱だし、人狼狩りの只中かもしれないし、関係があったとバレたレナは叩かれ吊し上げられていただろう。

「真面目で厳しいレナが、でも激しい人狼への憎しみの中で、それでもどこか絆されてしまったんだろ。それだけのものが、あれにはあったんだろう。ーーーー凡そ人狼には相応しくない、心根が」

 だから、レナは恵まれている。

「でもオレは反対だ。人狼なんかが人間を幸せにできるはずがない。絶対に、反対だ。だってそれは普通の幸せを捨てるってことだ」

 この幸運に感謝するべきだ。

 反対と言われたってそれは当たり前だし、その程度の言葉で済ませてくれているのが生ぬるいくらいだ。

「レナ、オレは悔しいよ。自分が不甲斐ない。人狼なんかにレナの心を奪われた自分が情けない」

 レナだって、こんな不様なことになって情けない。自分の迂闊さを呪っている。

 だから、もう幕を引くのだ。これ以上の醜態は晒せない。レナは、ノアへの心の揺れを手放す。あとは、そうするだけなのだ。

 でも、アルベルトは言う。

「でも、レナは自分の気持ちとじっくり向き合うべきだ」

 強引に目を逸らしたり蓋をしたり投げ出したりするのでは、駄目だと。

「受け入れるつもりがないと言った、その判断は当然だと思う。思うが、無理矢理に切り捨てるんじゃなくて、ちゃんと消化しないとーーーーーーーー一生引き摺ることになる」






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