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第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。⑧





 アルベルトの絶叫、撒き散らされる赤、鼻をつく鉄の臭い。

ーーーー凡そ予想されたそれらの光景は、けれどレナの前で現実にはならなかった。


「!!」

 人狼の地面に向けて振るわれたはずの腕が途中で無理やり横向きに凪ぎ払う形に軌道修正される。

 何故かーーーー

「ノ……」

 他に対峙しなければならない相手が現れたから。

 人影がレナの後方から、人狼に向かって飛びかかる。硬いもの同士がぶつかる、激しい金属音が鳴り響く。


 レナは、息を呑んだ。

 どうして彼がそこにいるのか分からなかった。

 何故ここに来てまた彼に助けられるのか、分からなかった。

 アルベルトとレナの窮地を救ったのは、ーーーーノアだった。


「あぁ、胸くそ悪い匂いの元はお前かぁ」

「人のものに手を出すとは、常識に欠けるな。この悪食め」

「ベタベタ匂いをつけるだけで満足しているからだ。喰うなり孕ますなり、勿体つけずにすればいいものを」

 そう言った途端、ノアの怒気が爆発的に膨らんだのが分かった。直接向けられている訳でもないのに、レナの肌まで粟立つ。

「口を慎め。人狼にも最低限の礼節ってものがあるだろう」

 唸るように低い声と同時に、両者が駆け出す。激しい攻防に、レナはへたり込んだまま固唾を呑んで見守るしかない。

 互いの動きは人間の域を超えている。その素早さとしなやかさと力強さは、目で追うだけで精一杯。自分があれと相対して、今まだこの場に生きていることが信じられなくなってくるくらいだ。


 そう、ノアも。

 平素の彼の穏やかさからは考えられないほど鋭い殺気を放っている。その気性のせいで人狼としては大して強くないのではと思っていたのだが、それは失礼な話だった。

 厳しさも強さもノアはちゃんと持ち合わせている。自分の力量をきちんと理解している。だからこそ、人間(レナ)に対して適正な感覚で近付いて来れたのだと思う。

 今になってレナは気付く。

 自分は彼に対して人狼人狼と詰ってきたが、その実彼は自分の本性を上手く取り繕っていたのだ。今目の前で攻防を繰り広げている彼こそが、人狼としてのノアなのだ。


 形勢は、徐々にノアが押していく形成となる。

「どいつもこいつも抵抗ばかりしやがって」

 相手の人狼は苛ついたように吐き捨てた。

「あれは元々こっちが目をつけていた獲物だっていうのに、横入りはどっちだ」

「は?」

 この間も攻防は続いている。お互いまだ動きながら口をきく余裕があるのだ。

「たまには目の前の食欲を堪えて、待ってみるもんだ。あれは数年かけて熟成させた俺の獲物だ」

「!」

 ノアも目の前の人狼が言うことを察したらしい。驚きの表情でこちらを振り返る。

 そんなことをしてはと思ったら、やはりその隙を相手が見逃す訳もなく、ノアの脇腹狙って鋭い突きが繰り出される。

「ノ…………!!」

 けれどそれもノアは見切っていたらしい。

「ぐあああっ!!」

 脇腹すれすれを抜いた相手の腕を掴み、勢いのまま背負い投げる。その過程で本来曲がらない方向へ伸ばされた相手の腕はベキメキと嫌な音を立てながら折られて行く。

 苦悶の声を上げながら、けれどそれでも相手の人狼は地面に打ち付けられると同時に身を起こし、ノアに向かって爪を繰りした。

「ーーーー!」

 しかしそれもノアには届かない。逆にノアの腕が相手の腹に深く深く突き刺さった。

「ぐっ!!」

 腕が引き抜かれると、ゴポリと血液が地面に撒かれる。ノアの血を見て知っていたが、こんな残虐非道な人狼でも、やはり血は人間と同じように赤いらしい。

 致命傷に見える傷。

「あ……」

 けれど人狼は絶え絶えの息の中、大きく背後に控える木々の方へと跳躍すると、そのまま森の中へと消えて行く。

 ノアは一瞬だけ追おうとしたが、結局はレナの方を振り返った。


「ーーーーーーーー」

 張り積めた空気。

口をきけば、全てが崩れ出してしまいそうな。

 いや、違う。もう 全ては崩落を始めている。ただそれを、レナが認めたくないだけで。

 自分の身を何一つ隠さずに、ノアはここに来てしまったのだ。レナ以外の人間に身を晒してしまったのだ。


 ノアはレナの腕の傷口に手を伸ばそうとしたが、自分の手が人狼の血でひどく汚れているのに気が付くと、躊躇ってその腕を引っ込めてしまった。そこに、先程までの苛烈さは欠片もない。

「…………どうして?」

 口火を切ったのはレナの方だった。


 どうして、ここにいるのか。

 どうして、こんなタイミング良くレナ達を助けられたのか。

 どうして、自分の身を一番に考えなかったのか。

 どうしてーーーー


 ノアは何か諦めたように小さく笑って言った。

「縄張り争いの延長だよ。冬を目前に安心できる棲み家がほしかったのか、こっちの縄張りに踏み入って来た。悪食らしくそこら中で雑な"食事"をしていたからーーーー心配で」

 心配で、様子を見に来てしまったのだ。

「馬鹿ね」

 泣きたい、と唐突にレナは思った。

「そんなことはない」

 そんなことを思うなんて、心が弱っている証拠だ。

 でも、涙は出てこなかった。だって、泣いたってどうにもならないと、痛いくらいに分かっている。

「でもお終いよ」

 そう、もうお終い。

 平穏は破られた。

 人里に現れた人狼は間違いなく駆逐対象だ。ノアが人間を食べなかろうが、そんなことは些末な問題だ。人狼という生き物を一匹でも減らすことが、自分達人間には重要なのだから。そこに個の識別はない。


 ノアは、追われる。レナは、駆逐しなければならない。

 ノアの実力なら人間を下すこともできるのだろうが、この人狼にそういう選択肢はそもそもない。

「まぁそれはそうかも知れない。でも、後悔はしてないよ」

 さらりと言ってのけるのが、悔しい。

 ノアは、どこか満足そうだ。レナを、レナが大切にしているものを守れたらもうそれで十分だと言わんばかりの空気が、でもレナは悔しい。

「ちゃんと後悔、しなさいよ。人狼だってバレて、あのならず者の人狼を下したって、もうあんたに平和な暮らしは保証されないわ。人間が駆逐にやって来る」

「人狼は大して人間を恐れないものだ」

「でも、ノアは人間を害さない人狼なんでしょ。ただ不利なだけじゃない」

 レナはこの人狼に、ただただ争いとは無縁の穏やかな生活を送ってほしかったのに。

 そこにレナがいなくても、人間のことでノアが傷付いたりしない生活を願っていたのに。

「馬鹿ね」

 もう一度、レナは言った。弱々しく、まるで独り言を呟くみたいに。

 この心優しい人狼は、本当に愚かである。


「おい、レナ!」

 不意に響いた大きな声が、レナに現実を突き付ける。

「何してるんだ」

 ハッとして顔を向ければ、アルベルトの張り詰めた顔。焦りと恐怖と混乱と。あらゆる動揺が詰め込まれた顔だった。

 命の恩人のその正体が人狼だなんて、思いも寄らぬことだろう。そしてその先にあるのは猜疑と恐怖。

 命の恩人だろうと何だろうと、人狼は受け入れられない。それが普通。

「早く、こっちに」

 焦れた声に、けれどレナの身体は動かなかった。

 このまま、ノアが自分を連れ去ってくれないかなんて、刹那的に馬鹿なことまで考えた。選ばないから、選びたくないから、無理矢理未来を決めてしまってよ、と投げやりにそう思った。


「ーーーーそうだ、オレは人狼だ」

 ノアがアルベルトに向けて、そう投げ掛ける。

 チラリと見上げれば、ノアの指がレナの頤にかかる。

「レナ!」

 顎のラインをなぞって、それから喉元へとすっと滑らせる。ゆっくりと、もったいつけるように。

「この首筋に噛み付いて、真っ赤な血を堪能して、柔らかい肉を腹に納めて満たされるなら、きっとそれが簡単だったのに」

 そう、簡単だった。ノアにとってもレナにとっても。こんな苦しみは生まれなかった。

「でも、残念ながらこの衝動は食欲じゃない」

 その顔が歪む。

 咄嗟に泣かないで、と言いかけた。


 泣かないで。悲しまないで。


 でも実際にはノアは泣いたりなんかしなかった。

「レナ」

 代わりにふわりと微笑んだ。

「あの人狼はオレが必ず仕留めてあげる。あの傷だ、逃げ切れる訳がない」

 微笑んで、またレナのための言葉を紡いだ。

「本当はレナが自分の手で仇を討ちたいだろうけど、その気持ちは分かるけど、でもここはオレに任せてくれないか」

 今、今は、それじゃない。重要なのは、それじゃない。

 ダメだ、と思った。

 何かがもう取り返しがつかなくなっている。決定的に失ってしまう。

「ごめんね、レナ」

 気持ちばかりが焦って上滑りして、レナは上手く言葉を紡げない。指の一本動かせない。

 ノアは何故か謝ると、レナの頤からあっさりと指を離し、そして踵を返した。

「ノ…………!!」

 反射的に呼び止めかけたけれど、ノアはそれに反応しなかった。真っ直ぐ森の中へその姿を眩ませてしまった。

 ーーーー寒空の下、何をすることもできずレナはただ取り残される。






そうしてその夜、今年初めての雪が降った。初雪はそのまましんしんと幾日も降り続け、深く深く降り積もって行った。

全てが絶対零度の白で埋め尽くされる。

家の屋根も、道もーーーーそして、森も。






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