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第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。⑦






 破綻なんて、本当に唐突にやって来る。

 唐突にやって来て、徹底的に全く完膚なきまでに取り返しはつかない。


 レナは最早日課と言える"散歩"を飽きずに続けていた。

 空は厚く雲が垂れ込め、薄暗くどんよりとして重い。歩く度に深く積もった落ち葉がカサカサと音を立てる。

「!」

 そんな中、視界の先に飛び込んできたそれに、レナの身体に緊張が走った。

 墓地の手前、赤黄色に混じったそれはーーーー

「兎……」

 そう、兎だった。ただし喉を掻き切られとうに絶命している。血の臭いは新しく、まだ落ち葉の海を濡らしたまま。

「これは……」

 レナは警戒して辺りの気配を探る。

 ここ最近のきな臭い案件。森のごく浅い場所、あるいは裾野の人間の生きる区分で、動物の死骸が複数発見されていたのだ。

 季節はもう冬目前。動物達は厳しい冬を前に栄養を蓄えられるだけ蓄えなければならない。来る季節に恵みは少ない。無駄にできるものは何一つないはずだ。

 そんな中、ただ殺すだけ殺し、無意味に転がされた死骸はどう見ても不審だった。

 贅沢が過ぎる。これでは、殺すことが目的だったみたいではないか。あるいは死骸を周りに見せつけることが、目的。

 普通の動物はこんなことはしない。自然の摂理に反している。

 人々の脳裏に、同じ不安が過っていた。


 ーーーーこれは、人狼の仕業ではないのか。


 手を着けずに人目につく場所に放置された死骸は、こちらに対する脅しだ。

 次は、お前の番だぞ。

 そうだとしか、人狼だとしか思えない。

 なんて悪趣味な。なんて低俗な。


「……………………」

 息を殺す。自分の脈拍が内から響く以外、特に他の息遣いは感じない。けれど恐らく相手は"狩ること"に長けた、人狼という生き物。油断はできない。本気になればレナからその存在を謀ることなど、意図も簡単にやってのけるだろう。

「っ!」

 斜め後ろからの空気の流れに、ほとんど反射で振り返る。身体を捻ったその勢いで振るった腕は、直後甲高い金属音と共に弾かれる。

「これはこれは勇ましいことだ」

「人狼……!!」

 ナイフを弾き返したのは、それに勝るとも劣らない硬度を持つ獣の爪で。

 ザワリと肌が粟立つ。ドクリと耳の根元で鳴った鼓動はやけに強いで内側で響く。

 凄まじい緊張感。

 こんな、人里まで降りてくるなんて。

 やはり近頃あちこちで見られた動物の死骸はこの人狼によるものなのだろう。人間が恐怖する様を愉しんでいたのだ。

 でも、最初に遭ったのが自分で良かった。

 レナはそう思った。

 他の誰かだったなら、多分最初の一撃で絶命していた。"散歩"の成果としては上々だ。

「若い身空で、人狼相手によくやる」

 害獣は、耳障りな声で嗤った。残虐性を宿した瞳、不愉快に弧を描いている口元。そう若くはない、年を予想するなら三十半ばほどの個体だった。

「それにしてもお前、嫌になる匂いをつけてるなぁ。せっかくの若い娘の美味そうな匂いが台無しだ。他の人狼(おとこ)の匂いとは、胸くそ悪い」

「!」

 人狼が盛大に眉間にシワを寄せる。

 言われていることに心当たりはあった。

 ノアの、お守り()だ。懐に忍ばせていたそれは、どうやら本当に周りに対する牽制になるらしい。これが意図して人里に出て来ているような人狼相手じゃなかったら、本当にそれなりにお守り効果があったのだろう。


 あぁ、それにしても何と不愉快で耐え難い存在か。

 目の前の存在に、身体が、心が全力で拒絶を示す。恐怖と憎しみと怒りが勢い良くとぐろを巻いて、レナの理性を絞め殺そうとする。

 激情のまま身体は動こうとするが、けれどそれでは敵わないと脳が判断する。


「……………………」

 レナは黙って腰を低くして重心を落とし、もう一本ナイフを取り出し両の手で構えた。

 こんな獣と、口などききたくなかった。

「まぁいい。ご馳走前の腹ごなしの運動と行くか」

 にたり、人狼が笑みを深くした瞬間、両者が地面を蹴る。そしてそのまま数度檄音が鳴り響く。

「くっ」

「まだ防ぐか」

 一撃一撃が重い。性別の差が、レナを押す。このまままともにやり合えば、早晩レナの腕は耐えられなくなるだろう。

「っは!」

 一度大きく跳び退り、距離を取る。ちらと見れば片方のナイフが刃こぼれしていたので捨て置き、腰からもう一本取り出す。

 ゾッとするほど人狼の爪は命を狩るのに適している。

「そら、避けてみろ」

「ふ!」

 結構距離を取ったつもりだったのに、たった一度の跳躍で目前に迫る人狼。振るわれた腕がレナの二の腕を裂いていく。

「ぐっ……!」

 焼けるような痛み。でもここで怯んではいけない。むしろ、今がチャンスだ。

 レナは反対側の腕を大きく振りかぶる。

「ぐあっ」

 刃は深々と人狼の太腿に埋まっていく。が、引き抜く前に力いっぱい突き飛ばされ、レナの方からナイフを手放すことになった。

「っあぁ!」

 ボタボタと血液の撒き散らされる感覚。自然と身体の力が抜けていく。でも。

「はっ……!」

 まだダメだ。

 レナは地面に肩がついた瞬間、根性でそのまま勢いをつけて転がった。

 実に正しい判断だった。

 次の瞬間、一瞬前まで自分がいたその地面に深々と人狼の爪が刺さっていた。あれを受けていたら死んでいたに違いない。

「ちょこまかと」

 人狼の声に怒気が混ざる。

 レナは何とか上半身を起こし片膝をついて立ち上がろうとしたが、できたのはそこまでだった。

「まさか傷を負わされるとは思わなかった。大したもんだ。だが、もうこれで終いだなぁ?」

 頭上から、喉元に向けて翳される腕。その先には、人間ではあり得ない長く鋭利な爪。

「…………!」

 恐怖と焦燥。

 凍り付きかける身体を、けれど叱咤する。


 こんなところで無駄死にする訳にはいかない。だってこれ以上、レナ達家族は誰も失えない。

 せめて、一矢報いなければ。


 次、腕を振るわれたら、もう絶対に避けられない。

 では、何とか人狼の気を逸らす?

 けれどこんな時に咄嗟に気の利いたことなど浮かばないし、そもそもこの人狼はレナにやられたことにひどく腹を立てている。生意気なこの女を殺すことだけが、気の収まる方法だ。


 右手はナイフを握って地面についたまま。

 けれど利き手にナイフが残ったのは運が良かった。抉られたのが左の二の腕なのも、運が良かった。


 ーーーー大丈夫、いける。


 レナは恐怖と絶望を誤魔化して、自分に言い聞かせる。

 タイミングさえ間違えなければ、人狼がこの喉を裂くのと、振り上げたレナのナイフが人狼の腹に刺さるのは同時のはず。

 同時の、はず。


 タダでなんて、死んでやらない。


 キッと不愉快な顔を睨み上げる。

 やっぱり全然違う。レナの知る、あの人狼とは何もかも違う。ノアの瞳は、もっと穏やかで澄んでいる。こんなのと、比べ物にもならない。

 僅かに空気が揺れた。人狼が先なのか自分が先なのかは分からなかった。

「待て!!」

「!」

 けれどその答えは出なかった。

 突如響き渡った怒声。思わず両者の動きが強張り止まる。

 声のした方へ勢い良く顔を向けると、

「アルベルト!?」

 そこには墓地の入り口から松葉杖をつきながらも必死に駆け寄って来る姿があった。


 馬鹿なことを!


 血の気がザッと引く。

 今日もアルベルトは"リハビリ"を口実にレナに構いに来ていたのだ。そのまま大人しく隠れていれば良いものを。

 でも、アルベルトがそれをできなかったのも痛いほど分かる。

 だけど、それでもこの状況は絶望だった。


 人狼が哄笑を浮かべる。

「飛んで火に入る何とやら、だな」

 さすがにこの状況に、レナの顔にも絶望の色が浮かぶ。自分自身のことならいざ知らず、他人に危害が及ぶのに虚勢を張り続けていられない。

 すると、

「あぁ、その顔、見覚えがあるなぁ」

「ーーーーは?」

 突然人狼が実に愉しげにそう言い出した。

「久しぶりに狩場を戻してみれば、これは思わぬ収穫だ。ーーーーあぁ、よく育った」


 この獣は、何を言っている?

 ドクリ、身体中が大きく脈打つ。


「うん、あの時見逃した甲斐があった。若い娘は殊更上手い」

「…………!」

 頭の中が、真っ赤に染まる。

 これは、あれだ。あの時の、人狼なのだ。カイルを、食い殺した。

 本人が、まさか向こうから認めてくるなんて。こんな悪魔的な偶然があるなんて。

 あの時、レナは恐怖に引き攣るカイルの顔ばかりが衝撃で、人狼の顔そのものは詳細には記憶できていなかったのだ。

 これが、あの時の。

 憎んでも憎み足りない人狼が、わざとレナを虐るように言う。

「あの時の獲物も、子ども特有の柔らかい肉で大層美味だったが」

「っぁ!!」

 絶叫が、けれど音にならない。


 殺さなければ。

 殺さなければ殺さなければ殺さなければ。

 ここで絶対にこの人狼を殺し尽くさなければ。


 そう、思うのに。


 あぁ、どうして自分はこんなに無力なのだろう。


「はは、良い顔だなぁ。ーーーーそそられる」

 そして人狼とは何故こんなにも残虐な生き物なのか。

「それでは前回の続きといこうか」

 立ち上がって人狼を引き掴むのも、間に割って入るのも、どうしたって間に合わない。

 一つ一つの動作はひどく克明に瞳に焼き付いてくれた。でも、どうしたって間に合わない。

 大きな跳躍。たったひと跳び。人狼の気を逸らそうと向かって来ていたアルベルトの身体が、容赦なく地面に叩きつけられる。それなりに体格の良い身体を、あっさりと。そして喉元にピタリと当てられた(凶器)

「あんたが殺したいのは、食べたいのは私でしょ!」

 叫ぶくらいしかできることがない。

「余計なことしてるんじゃないわよ、この外道!!」

 分かっている。

「余計なこと?」

 分かっている。この人狼は、わざとこうしているのだ。その方が、愉しめるから。

「違うな、これは必要な味付けだ。人間の女の悲鳴は、殊更空腹に響いて甘くて愉快だ。気が違いそうなくらいそそる」

 罵声を浴びせたくとも、見合う単語が見つからないほどの、本性。

「今回はもう見逃してやらないからな?よーく鳴いて、空腹を煽ってくれ」

 爪が見せつけるように高く翳される。

 その合間に、アルベルトが叫ぶ。

「走れるだろ、逃げろ!!」

「アルベルト!!」

 できる訳ない。そんなこと、できる訳ない。

 これで時間を稼いだつもりか。

 レナがアルベルトを犠牲に逃げ出したりできないと、そんなことは分かっているだろうに。


 無理だ。ごめんだ。

 自分のために投げ出されたアルベルトの命を、レナは背負って生きられない。そんな耐え難いことはない。


 自分のために、誰かが死ぬなんて。

 自分のせいで、誰かが死ぬなんて。


 それに、アルベルトは必要な人間だ。皆にとって、この街にとって必要な人間だ。将来、アルベルトは家業に就いて良く兄をサポートしていくだろう。商家を盛り立てていくだろう。それは雇用を生み、街を、そこに暮らす人々を豊かにする。そのうち可愛いお嫁さんをもらって、子どもが出来て、繁栄の輪を拡げていく、そういう未来のある有能な青年なのだ。こんなところで、失える命ではないのだ。

 せっかく、先日奇跡の生還を果たしたばかりなのに。ノアが繋いでくれた人生なのに。それがまた、人狼のせいで。レナを庇ったせいで。


 そんなの、絶対に許されないのに。

 なのに。


 無慈悲にも腕が振り下ろされる。


「いやぁあぁあぁあぁ!!」


 見たくない、でも逸らせない。

 アルベルトが、殺されてしまう。

 鈍い煌めきに、絶叫が響き渡った。






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