第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。⑥
父は、家の外では本当に容赦なく厳しかった。でもそれは、紛れもない愛情でもあった。
ノアの父は、今までノアが出会ってきた中で、一番強い人狼だと、贔屓目なしにそう思う。ノアが今日まで何とか生き延びているのも、その父によるたゆまない指導があったからだろう。
父と外に出ると日が暮れるまで手合わせだったり、所持品なしのサバイバルが始まったり、狼の群れの中にいきなり放り込まれたり、それはそれはもう容赦のないものだった。
子ども相手にとか、そういう配慮は一切ない。兄や弟でさえ時にお互いに脅かす存在であり、"今"を凌ぐために情を捨てざるを得ない状況に追い込まれることもあった。死ぬと思ったことも一度や二度でさない。
苦しくて痛くて辛くて嫌になることがほとんどだった。でも、どこか心の一部が、そのスリルを楽しんでいる節があった。
血が沸き躍るとはこういうことなのかもしれないと、次第に学んで言った。
人狼の自分を認識していく日々。
闘うことも獲物を仕留めることも生き延びることも、全部。全部ノアの生き方の一つだった。
でも、それと同じくらいに優しい腕も柔らかな言葉も温かな寝床も、全部ノアの生き方の一つだった。
家の中は温かく、けれど一度外へ出れば生傷が絶えない毎日。
そんな中でも一等派手にやらかしたことがあった。
自分より大きな熊相手に狩りをしていた時のことだ。最中足場の確認を怠ったノアは崖からまっ逆さまに落ちた。味わったことのない激痛と共に意識が飛んだ。ブツンと自分の視界が切れたその刹那、あぁ死ぬんだと本能が悟った。
が、結局ノアは生き延びた。
次に意識が戻った時は、父の背中だった。こめかみがぬるついて気持ち悪かったが、手当ては既にされているようだった。太い枝で固定された足が堪らなく痛みを訴え、どうやら折れているらしかった。
"気が付いたか"
"死んだと思った"
痛みを紛らわせたくて、とにかく何か話していたかった。
"死ぬと思った時、どんな心持ちだった"
父もそれは分かっているらしく、会話を続けてくれた。
"…………このまま、一人ぼっちで放り出されるんだって思ったら、ものすごく寂しくて怖くなった。自分の中身をそこらにぶちまけられて、でも、誰もその残骸に目を向けてくれない"
苦しい、寂しい、怖い。
そう思うのに、それが欠片も誰にも届かない。誰にも気付いてもらえない。自分という存在が、微塵も誰にも伝わらない。絶対的な孤独がそこにはある気がした。
"なるほどな……"
"父さんだったら、何か違うの"
そんなことはない、と父は言った。
"昔ならきっと違っただろうが、今はきっとお前と同じだ。怖くて寂しくて、やりきれない"
"昔は怖いとか、思わなかったんだ"
"母様と出会うまで、寂しいも怖いも概念そのものを知らなかった。世界には常に自分しかいなくて、感じる恐怖も本能的なものだけだ"
それはきっと楽な生き方だけど、とても殺伐とした味気のない日常。
"今は怖い。母様やお前達を残していくのも、残されるのもな"
背中から苦笑の気配が伝わる。
"教育"以外の場では、母同様父も優しかった。大きな背中は尊敬と憧れが詰まっていた。
あんなに厳しくて強い父が母を本当に優しく包み込むように大事にしている、その様子を見るのが好きだった。
"お前達はきっと人狼としては特異過ぎる。多くのものを持っている。だが、それが幸福なことか不幸なことかは、扱い方次第だ。重荷ではなく、財産になるように考えて生きろ"
そして母が時折零すように、父もまたノア達の人狼としての未来を折に触れて気にかけた。
でも、結局どちらの生活も否定しなかった。人間としての細やかな営みや知識もまた、将来自分を助ける知恵になるだろうからと、ノア達に母の生き方も大切にさせた。
それが正しいことかは分からないけれどーーーーいや、正しいとか間違っているとかそういう判断が必要なことではないのだ。
ただ、与えられたものを、積み重ねてきたものをノアがどう活かせるか、それだけの話。
「幸福なことか不幸なことかは扱い方次第、か……」
縄張りの境界をなぞるように歩きながらノアは独り呟く。
ノアはきっとレナを手に入れられないだろう。
本当は、最初から分かっている。
レナに家族を捨てられる訳がないのだ。
自惚れでなければ、仕組んだ訳でもないのに繰り返されたレナとノアの逢瀬の中で、彼女の気持ちは確実に変化したと思う。ノアの方へ傾いたと思う。
けれど、それは全てを覆すには至らない傾きだ。レナとノアが共有したほんの少しの時間が、レナと家族の今までとは比べられないと、自分にも家族がいたからこそノアにはよく分かる。
「冬の間だけでも考えてくれ、なんて」
意地の悪いことをした。
レナはひどく懊悩するだろう。
人一倍真面目で律儀な女の子だから。心の優しい女の子だから。
彼女は冬の間中、きっと苦しむ。
苦しんで、そして春にはノアに決別の言葉を告げるだろう。そうしてまた、心を痛めるのだ。
未来がないことを、ノアは知っている。だから少しでもレナの心が欲しかった。レナが悩み抜いたその間は、きっと彼女の心はノアのものだ。その仄暗い喜びと引き換えに、ノアも彼女を諦めようと、そう思っている。
ふと嫌な匂いが鼻について、ノアは木々の向こうへ視線を投げた。
周りに不穏な気配がないことを確かめてから、そちらへと足を向ける。
「狐か……」
そこには既に絶命した狐が四肢を投げ出していた。酸化した赤黒い血溜まりは、既に乾きかけている。
「面倒だな」
ノアは特別大きな縄張りがほしいと、そうは思わない。狭くても居心地が良ければそれで十分だ。人里から離れていることと、狩場として豊かなとことは外せないが、無闇に縄張りを広げても管理が大変だし、余計な争いのリスクを増やすだけだ。自分の力量に自信がない訳ではないけれど、争えばそれだけ命を危険に晒す。一度事が起これば必ず相手を下したいとそう思うが、それはあくまで受け身の話だった。
そろそろ、ここを手放した方がいいのかもしれない。
ノアはそう思う。いや、元々レナとのことに区切りがついたら、もう二度と鉢合わせることのないようにここから去る気ではいた。
「レナ……」
人狼であるノアを憎しみだけでは切り捨てられなかった、強くて気高くて可哀想な女の子。
ノアと目を合わせてくれた、特別な女の子。
脳裏にその姿を描きながら、ノアは深く深く溜め息を吐いた。




