第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。⑤
「レナ、出掛けるの?」
「うん、ちょっと散歩」
キッチンから呼び掛ける母に、声だけを返す。
「だったらついでにパンを買ってきてくれない? 明日の分がもうなくて」
「分かった」
手にしていたコートを羽織って、続いてマフラーをぐるぐる巻きにしていると、二階から弟が降りてきた。
「ねーさん」
「何、クリス」
「また散歩? 最近毎日じゃない?」
「森に入るって言うよりはずっと安心できるでしょ」
「それはそうだけど……」
クリスにしては歯切れが悪い喋り方だ。レナは兄弟の中で一番冷静沈着な弟を振り返る。ちょっと難しい顔をして、クリスは言った。
「またカイルのお墓参り?」
びっくりして、思わず動きを止める。
「毎日、どうしたのさ」
しかも頻度までバレている。
"散歩"の間、弟達は家にいるか学校にいるかのどちらかのはずなのに。両親だって仕事に行っていて、レナの動向をそう確認している訳ではない。なのに。
「何で知って」
「秘密」
即答するクリスに詳細を吐く気はなさそうだったから、レナはそれ以上追及はしなかった。変わりに溜め息を一つ落とす。
「…………散歩のついでよ。それに最近あんまり行けてなかったから、その分マメに通おうってだけ」
「ふぅん…………」
「何よ」
「何か変なこと考えてないよね」
「変なことって例えば?」
「え……何だろう、こう、雪で森が閉ざされる前に一人で人狼狩りだ!とか、そういう無茶で無謀な感じのこと」
それを聞いてレナは小さく笑った。
「大丈夫よ、クリス。いくら私でもそんな無茶はしない。人狼はね、人間が一人でかかってどうにかなる相手じゃない」
身体能力がそもそも違う。そう言えば一番初めにノアと出会った時も、レナはその俊敏な動きを読み切れず、押さえられてしまったのだった。
カイルを殺した人狼は憎いし、許し難い。できるならこの手で息の根を止めてやりたい。
でも、レナは命を粗末にしたい訳ではない。その尊さを知っている。
だからどれほどの激情が胸の内に荒れていても、仇だと叫んで森へ潜ったことはなかった。
レナが命を落とせば、悲しむ人達がいる。それがよく分かっていたから。
「つまらない心配はしないで」
「うん……」
「帰りにパンを買って帰るけど、クリスの好きな甘いのも買ってきてあげる。楽しみにね」
柔らかな髪をひと撫でして、レナはするりと家の外へ出た。
思わぬところで家族を心配させている。気を付けなくてはいけない。
森の縁をなぞるようにレナは散歩をする。
街中は顔見知りが多いので、あまり歩かない。
色々なことを考えながら、けれどどこか思考は停滞しがちで、レナは毎日同じ道を辿る。
"散歩"はその実見廻りも兼ねていた。最近きな臭い案件をちらほら耳にしているので、森と街の境界線を犯すものがいないかレナは注意深く歩を進める。
子どもが森の近くで遊んでいれば、その場を離れることを促す。
身に付けている装備はナイフが数本とそう重装備ではないが、多少のことならこれで十分だ。
ノアには失態ばかりみせていたが、これでも優秀な方なのだ。でなければ、この年で、女の身でハンターなどやっていられない。ノアに出会うよりももっと前に、とっくに命を落としている。情熱や正義感だけで成り立つ仕事ではないのだから。
「冷えるなぁ……」
吐く吐息はすっかり白く、レナはすきま風の忍び込むマフラーを締め直す。
やが見えてきた簡易的な柵で囲まれた敷地に足を踏み入れると、ずらりと並ぶ墓石がレナを迎え入れた。沢山の中から、レナにとって特別なお墓は一つだけ。
「もうこの寒さじゃ冬ね」
クリスの指摘通り、最近連日通っているカイルを納めた墓の前でレナはそう語りかけるように呟いた。
ここに、カイルの身体はないけれど。ほんの僅かな血液しかないけれど。
でもレナ達家族はここにカイルの魂を弔った。
だから、決してここは空っぽではないのだ。
毎日毎日、レナは繰り返し脳裏に描く。
あの、目の前でカイルを失った日の光景を。わざと絶望の最中に突き落とすように、レナには危害を加えず目の前でカイルをなぶった、あの人狼のことを。カイルの絶望と恐怖と悲しみと、レナ達家族の嘆きを思う。
ーーーー色褪せたりなんか、していない。
あれを、なかったことなんかにできるはずがない。
白状する。
今やノアはレナにとって"人狼"である前より、ただ"ノア"という一人の青年でしかない。いくつもの出来事が、レナに彼の無害さを、その気性の穏やかさを教えた。
ノアは、人間を食べない。今までも、そしてきっとこれから先もずっと。
レナはそれを確信できる。
ーーーーでもそれを確信できるのは、レナだけだ。
他の誰にも、理解はしてもらえないだろう。瞬時に拒絶され否定され続けるだろう。一考の余地もないだろう。
かつて、レナがそうやってノアを否定したように。
「……不用意なことをしたわ」
人狼は、駆逐されるべき存在。恐るべき、森の主。
それ以外の理解を、誰も持たない。
それは、間違いではないけれど。ほとんどそのまま真実だけれど。
「私がもっと毅然と拒絶していたら、助けられるようなヘマをしなかったら」
そうしたら。
「…………誰のことも不幸にしないで、きっと済んだのに」
答えなんか、決まっている。最初から出ているのだ。
レナは家族を裏切れない。人間社会を裏切れない。
ノアのために全てを捨てられない。
両親が、クリスがカイルがレオがヴィンセントがいるのだ。大切なのだ。
もう誰も失いたくないし、失わせたくない。
「っ………………」
だから、レナはせめてこの冬の間中、いや、春がやってきてもその先ずっとずっと、こうして痛みを抱いて生きていくべきだろう。それだけが、唯一の誠実さであり、贖罪だろう。
「ごめんなさい……」
謝罪はノアだけに向けた訳ではない。カイルに、家族に。
だってレナの心の内は、既に彼らをも裏切っている。
カサリ、と枯れ葉を踏みしめる音に、レナはハッと顔を上げた。
向こうから、よく見知った顔が歩いて来ていた。
「何で、こんなところに」
「今、絶賛リハビリ中なんだ」
松葉杖をついたアルベルトがにやりと笑った。レナは悟る。
「クリスに余計なことをチクったのはアルね」
「人聞きの悪い。ただの世間話だよ」
言いたいことは色々あったが、暖簾に腕押しなことは分かっていたのでぐっと飲み込む。余計な労力は払いたくない。
「……一人なの?危なっかしいわね。介添人が必要なんじゃ?」
「いらないよ。時間はかかるが、杖さえあればちゃんと自力で歩ける。それよりも少しくらいは一人になりたい」
言いたいことは分かる。奇跡の生還以来、アルベルトはまるで時の人だ。見舞いの客は連日途切れることなく、気が休まる暇もないのだろう。レナもアルベルトと顔を合わせるのは、彼を森から連れ帰ったその日以来だった。
「ここまでちやほや持て囃されるのもきっと人生で今回一度きりよ。有り難く享受しておけば」
「勘弁してくれ。それに本当に会いに来て欲しい一人は、一向に会いに来ないしな。やってられん」
レナが行かなくても、アルベルトには他にいくらでも人がいる。アルベルトの無事を喜びたい人は沢山いるのだ。彼の不在の穴を、皆埋めたいのだ。
レナはずっと前からアルベルトの無事を知っていた。けれど保護したのがノアだったから、どうしても黙っているしかなかった。
仕方のないことだったけれど、レナが黙っていなければいけなかったその期間だけ、皆の心にはより多くの悲しみと絶望が降り注いでいたのだ。やはりそれがどこか後ろめたくて、皆と一緒に喜ぶことに抵抗があった。
それに何よりアルベルトの無事は最初に再開した時に一通り喜んだし安堵したので、今更というのもある。それにアルベルトは恩義を感じているのだろう、行方不明の間のことは記憶が曖昧でよく覚えていないの一点張りで通してくれていたので、当初していた心配もなかった。
「なぁ、レナ」
「何よ」
「やっぱり森へ入るのは、もうよしてくれ」
「………………アルベルト」
またか。
げんなりしてレナは拒絶の空気を色濃く漂わせる。
「分かってるよ」
「いや、分かってないでしょ」
「分かってる」
アルベルトは力強く言い切った。
「俺に何の口出しをする権利があるんだって、所詮他人だろって言いたいんだろ。……カイルを失ったその本当の痛みは、身内しか分からないって。一部始終を目にしたレナにしか分からないことがあるって」
その通りだ。
分からないだろうし、分からなくてもそれでいい。分かってほしいとは思っていない。ーーーー分かったフリをされなければ、それでいい。
「それはそうだろうよ。そうだろうけど、でもーーーー今回自分がこんな目に遭って、よく分かった。あんなに危険な世界に、これ以上いてほしくない。このままじゃ、レナ、いつか命を落とすぞ」
「ーーーー誰かがやらなくちゃ、森と人間社会の境界が揺らぐわ」
「レナがやらなくちゃいけない訳でもない」
「そうやって他の誰かに背負わせるのは性に合わない」
「今度は皆にレナを失わせるつもりか」
あぁ嫌だ。
レナはアルベルトから視線を反らして、変わりにカイルの墓石をじっと見つめた。
経験や実感が加わると言葉に重みが出る。自信がつく。
「レナ勘弁してくれ。今度のことで、本当によく分かった。俺が店に出てる間にレナが獸に襲われてこんな目に遭ってたらと思うとーーーー況してや人狼なんかに遭ったら」
ドキンと胸の鼓動が跳ねた。ズキンと深く痛んだ。
「なぁ、そんなのカイルも望まない」
「そうやって都合良く、死者の言葉を勝手に騙らないで!」
尖った声が冷たい空を裂く。
「…………悪かった」
アルベルトの言いたいことは分かったが、それをカイルの言葉として置き換えられたくはなかった。
カイルに恥じない生き方をしたいと思うけれど、そのカイルはもう何も語らない。語れない。どんな言葉も、くれない。
「俺が、レナがむざむざ命を落とすことを望んでないんだ。もう怖くて、レナを森へやりたくない」
獣だけじゃない、とアルベルトは言う。
「得体の知れないヤツもいるじゃないか。殺人者とか反人道的な思想や性癖を持ってるヤツとか。あの森の住人はその……結果的にそう悪いヤツじゃなかったかもしれないが、何か後ろ暗いところがあるのは確実だろ」
でなければ、森になど住んでいない。
最後まで言われずとも、それは伝わってきた。
アルベルトの声は真剣だ。レナが森で消息を絶ったアルベルトを心の底から心配したように、アルベルトだってレナのことを本当に心配している。分かっている。理解している。
「なぁ、レナ。もう俺のところに嫁に来い?」
いつか聞いたようなセリフ。
「悪いようには、しないから」
「…………私はそもそも、そういう風にアルのこと、好きじゃないって」
だからいつかのように、レナも返す。
何度も何度も繰り返してきた問答。
息苦しさが、レナを襲う。
「嫌いでなければそれでいい。あとは時間が解決する」
それもまた、いつか聞いたようなセリフだった。




