第四話 煮込んで、溶かして、せんぶぜんぶ一緒くたにしてあげる。③
更に一週間が過ぎた頃、レナとノアは行動に移った。
アルベルトの件だ。
本人には何も知らせなかった。その方が良いと思ったのは、二人とも同じだった。
朝食に薬を混ぜてアルベルトを強制的に眠らせ、家から運び出した。良い体格をしたアルベルトにノアはなかなかに苦戦していたか、それでも日が昇りきるより前には、何とか街に近いところまで運ぶことが出来た。
「この辺りで大丈夫だと思う」
太い幹にアルベルトを凭れ掛けさせたノアにそう声を掛ける。
睡眠薬はまだしっかり聞いているらしく、アルベルトは身動ぎ一つしなかった。
ようやく重労働を終えたノアの首筋には汗が光り、また一つ罪悪感を覚える。
不要なことをさせてしまっている。危険なことをさせてしまっている。
辺りに人の気配はなかったが、口早にレナは告げた。
「早く戻った方がいいわ。この辺りはよく人が出入りするから」
そしてくりると背を向けてノアから距離を取るように数歩足を進める。そんなレナの腕を、ノアは握って引き留めた。こちらの気持ちを分かっているクセに。
「レナ、待って」
「嫌よ」
「レナ」
「その手を離して」
レナは振り返らない。硬い声でノーという意思を示す。
今、このタイミングなら、ノアは十中八九あの夜のことを蒸し返すに決まっているから。
「レナ、ごめん」
彼はまずそう切り出した。
「何が、ごめんなの。謝られるようなこと、あった?」
対するレナの声や言葉は、相変わらずちっとも可愛くない。
「あるよ」
言い切る声には、力強さがあった。ノアに引き下がる気がないのが分かる。
レナはきゅっと唇を噛み締めて、揺らぎそうな心を押し込める。
「レナが今、オレの顔を見られないのは、あの夜あんなことを言ったからだろう?」
「ーーーーーーーー」
平静にと思ったのに、やはり肩はビクリと強張ってしまった。
蒸し返されても、返す言葉がない。
受け入れられないに決まっている。でも、拒絶すれば彼は傷付き悲しむだろう。そう思うと、レナの心は二の足を踏む。傷付けたくないと、そう思ってしまっているから。
「答えられないのは、肯定しそうだからと思っても?」
それは駄目だ。
レナは半ば意地で、彼を振り仰いだ。久しぶりに正面から見るその瞳は、レナと違って覚悟がある。
だから自分も逸らさずに真っ直ぐ見据えて、はっきり告げる。
「聞かなかったことに、してあげる。だから、もうこの話はおしまいにして」
その方がいいから。
「なかったことにしなくていい」
でも間髪入れずにノアは言った。
「分かってる。自分が無謀なことを言ってるって。これ以上進むには、レナはあまりに沢山のものを持ち過ぎていて、反対にオレはあまりに何もかもを持っていない」
そう、レナには家族が友人が仕事があって、それらは密接に関わり合って未来へとずっと続いている。
対してノアには家族も友人も誰と共有するものもなく、街での暮らしは実現しない。身軽だけど、どこにも馴染まない。
もし仮にレナがノアの気持ちを受け入れたとしたら、今あるものを手放さないといけないのはレナの方だ。
「オレとレナの間には、はっきりとした隔たりがある」
それを埋めたり越えたりしようとするのは、あまりに無謀だ。
レナがこれで天涯孤独の身なら自分の意思だけを大切にすればいいが、残念ながら一つのコミュニティに属して生きている身である。一人で、生きている訳ではない。
ーーーー人間社会を簡単に捨てられる訳がない。
「私は、あんたに、何も応えない。卑怯者と罵ってくれて構わないわ。事実そうなんだし」
「そうやってうやむやのまま、もうオレと顔を合わす気もないんだろ」
「そうよ」
だからレナは正直に答えた。卑怯さ全開で、でも嘘は一つも混ぜずに言い切った。
胸が痛んだけど、何で痛むのかは追及しないでおく。深く考えてはいけない。
必要な答えは、最初から明白なのだ。
人狼と人間は相容れない。そこには不幸しか待っていない。
だから、手を取り合う未来なんて存在し得ない。
そういうこと。
「それにどうせもうじき冬だもの」
やがて雪は深く深く降り積もる。そうなれば自然と二人の間にも距離ができるだろう。
「ねぇ、もうやめて」
レナは握られた腕を払おうとした。けれど逆にノアはぐっと力を込めて引き寄せる。
「っぁ……!やだ……!」
割りに細身だとは思っていたけれど、自分と比べればそこにはやはり歴然とした差があり、レナの身体は呆気なく彼の腕の中にすっぽりと収まってしまう。温かくて、落ち着かなくて、でも欲しいものがそこにあるような感じがして、レナは自分がさっぱり分からなくなって動転する。
嫌じゃないけど、これは駄目なやつだ。そう警鐘が鳴る。
抱き寄せるまでは強引だったクセに、そこから後はびっくりするくらい優しくそっとした手つきだった。
振り払える。
でもそうしたらノアは傷付く。
彼だって恐怖をぐっと押し殺して行動に出ているのだ。何か自信がある訳ではない。それが分かるから。
最近、こればかりだ。レナが躊躇う理由は、ノアが傷付くから。
最初、レナが人狼というフィルターでノアの全てを撥ね除けていた頃、ノアは滅多に怒ったりしなかった。いつも眉を下げて、仕方ないなと諦めたようなちょっと寂しい目をしてみせて、それだけだった。
今から思うと、あれは痛みを耐える仕草だった。
今レナがノアを拒絶したら、あの目を、また多分する。他者を傷付けるのは、ひどく苦い。それは同時に自分を何かしら損なう行為だ。
レナには今まで自分は芯がしっかりしている人間だという自負があったけれど、それはとんだ間違いだと思い知る。軸が定まらない、優柔不断さだけがレナを満たしているではないか。
「レナ、冬の間森は雪に閉ざされる。多くの動物は冬眠に入って、ハンターとしての仕事も目減りするだろう」
頭の上で、ノアが囁いた。
「冬の間、そう会うこともない。だから」
だから?
「この、冬の間だけ。冬の間だけオレのことをちゃんと考えてみて。正面から向き合ってほしい。レナが大切にしている沢山のものと一緒に、オレのことも並べてみせてほしい」
それは真摯で懸命な、祈りのような言葉達だった。自分を包む腕が、本当は僅かに震えていることに、もうレナも気付いている。
「レナ、答えが決まっていても、それでもいいから」
あの日。
あの日、森の中で、二人出会わなければ、それが良かったのに。
でも、もう何一つ起こってしまったことは巻き戻せない。
「レナ、オレは君が好きなんだ」
柔らかな腕の中で、レナはぎゅっと強く目を瞑り、胸に拡がる痛みに耐えた。




