第三話 お砂糖は、いらない。⑧
冷たい空気に澄み亘った夜空が、星粒をより美しく輝かせている。
そっと外に出たレナはその場にしゃがみ込んで、ひたすらにその細やかなきらめきを瞳に流し込んでいた。
森の中、それも夜に無防備だと思われるかもしれないが、ここは人狼の住まう家。まともな生き物はこんなところに近付かない。人狼自身に害意がないために、ここは逆にある意味とても安全な場所と化している。
夜空を見上げていたのは頭を空っぽにするための作業だったのに、何故か逆に思考がそれこそ星の数ほど頭の中を飛び交う。
アルベルトが無事だったのは、本当に喜ばしいことだった。
レナだって内心諦めの方が大きかったのだ。
無傷とはいかなかったけれど、生きていてくれるだけで十分だ。きっと皆そう思うだろう。
そしてレナは人狼のことを思った。
馬鹿な人狼。
あんな生き方では、いつかきっと自分の首を絞めてしまう。いや、きっともう絞めてしまっている。
恩は時に平気な顔で仇になって返ってくるというのに。
人狼なんか嫌いだ。あれは害獣だ。忌むべき存在だ。
レナの心は変わらない。
でも、あの人狼にだけは、その感情を当て嵌められない。
あれを、もう、上手く憎めない。拒めない。
何度も、何度も何度も何度も、もう関わり合いになるのはよそうと思った。実際レナはこの一時期森から少し身を遠ざけた。
なのに、どうしてもこうしてあの人狼と顔を合わせてしまう。何か、助けられてしまう。
今、もしあの人狼が殺されるようなことがあったら、きっと自分は傷付いてしまうだろう。
人狼が害されたことに心を痛めてしまう。
そんな自分が受け入れられない。
そして受け入れそうになると、いつでも頭の中にフラッシュバックするのだ。
弟が殺された、あの瞬間が。
「私は、変われない」
そう思う。
「私は、変わらなくていい」
そうも思う。人間として、レナは人狼という生き物を恐れ憎んで生きていくべきだ。
それが本能というものだ。
でなければ、辛いだけなのだから。
「心、なんて…………」
呟きは宵闇に儚く溶けていく。
人狼は家にいなかった。見廻りに行ってくるといくらか前に出て行ったきりだ。
寝室として使っている棟をアルベルトに貸しているため隣の棟で寝起きしていたらしいが、今夜はレナがいる。そう広くない部屋の中、急に見廻りに行くと言い出したりしたのは、多分レナを気遣ってのことなのだ。
嫌になる。
多分、人狼はレナのことを考え過ぎなのだ。
日中もやたらにアルベルトとのことについて追及してきた。恋人かどうかなんてそんなこと、何度も疑うなんて。
あんなのまるで、嫉妬みたいではないか。
そう思って、またレナは自分の思考にぎょっとした。
今、考えてはいけないことを考えてしまったのではないか。そんな気がしてならなかった。
ふと気配を感じて視線を滑らせると、暗闇と同化した木々の合間に、小さく金色に光るそれと目が合った。
「ーーーー!」
半瞬後に、それが人狼の瞳だと理解が追い付く。
でも。
人間じゃない。そうだ、人間とは、違う。
心臓が疎む。
あれは、恐るべき人狼。
ーーーーそうだ。それでいい。それが正しい反応。
「ーーーーレナ、こんな夜更けに外に出るものじゃない」
「人狼の棲み家を彷徨く馬鹿はそういないわ」
「それでも、だよ」
家の中に戻れと言われるのかと思っていたら、人狼はレナの隣に腰を下ろした。
レナは自分が、そして同時に人狼も緊張していることに気が付く。
「ーーーーあの薬箱」
思い出したように人狼が言った。
「一度薬が切れたって言って買い足してくれただろ? あれ、他の薬も色々補充してくれてるよね」
「つ、ついでよ、ついで。いや、その、お詫びの品みたいなものよ」
言い訳するみたいに早口になって、レナは答える。
「助かったよ。彼を拾った後はレナが色々入れておいてくれた薬が活躍した。でなければ彼は今も激痛に悶えているところだった」
「ーーーーだから、助かったのはアルベルトや、私達アルベルトの知り合いの方なのよ」
レナは一度深く息を吐いてから、話題を変えた。
「明日、一度帰るわ。本当なら付きっきりでこちらが看病するべきだけど、アルの足が治るまで私まで森に引きこもる訳にはいかない」
「それがいい。じゃないと周りが心配する」
「三日に一度くらいは様子を見に来るわ。それから、少しでも怪我の具合が落ち着いたら薬でも何でも嗅がせていいから、アルを眠らせて人里近くまで運んでしまわないと。長居させればリスクが高まるだけだわ」
アルベルトと二人きりにさせるのも何かあったらと思えば不安だが、ここでレナまで帰らなければ、その内に捜索隊が組まれ森に沢山の人間が入り込むことにもなりかねない。
「暫くはアルベルトが無事だっていう吉報も胸にしまっておかなきゃならないし……」
それはちょっと心苦しいな、と沈痛な顔をした皆を思い浮かべて思った。
本当は一刻も早くアルベルトの無事を知らせたいけれど。
でも、生きてるとなったらすぐに迎えに行くという話になるだろうし、それではこの人狼に恩を仇で返すことになる。
「レナ」
「ーーーー何」
「やっぱりこれを」
人狼は懐から例の一房の髪を取り出した。
「せめて森を行き来する間だけでも。身の安全を図るためだと割りきってほしい」
「……………………」
"お守り"の効果を、レナはそれほど信じていない。けれど人狼がものすごく真面目に言うから、仕方なく手のひらを差し出した。
ポトリと落とされる髪。
「それから、いらないと思ったら、次は返すんじゃなくて売ってしまうといい」
「売る?」
人狼の髪を?
思い切りうろんげな顔をしたレナに人狼は"お守り"のカラクリを教える。
巷に細々と出回っている人狼避けのお守りは、表向きはただの(と言っても稀少種の)狼の毛とされるが、その実人狼そのものの髪だということ。人間側に、人狼と取り引きする商人がいること。
「きっとびっくりするくらい良い値段になるよ」
その内容はレナにとってそれなりにショックで忌避感を覚えるものだったが、けれど人狼が他の個体の匂いを避けるという習性を利用するそのやり方は利に敵っていると思った。
「……私、人狼の髪を取り引きするような商人なんて知らないし、知りたくもないわ」
それにこんな棚からぼた餅的に人狼から何か利益を得たくない。この人狼を何かに利用したりするのは、望むところではない。
「複雑そうな顔だ」
「別に」
夜目がきく人狼にはこちらの表情なんて丸見えなのだろう。レナはそれに気づいて顔を反対側へ背けた。
「母様も最初聞いた時は信じられなかったって言っていた」
柔らかい声で言う。
人狼が言うに、その母親も結局そのお守りを肌身離さず持っていたらしい。
もしかすると本当に効果があるのかもしれない。
レナ、とまた人狼が自分の名前を呼んだ。
「森は深くて昏くて、その身に獰猛な牙を秘めている。そして冷酷に時に徹底的に理不尽なまでに、通り過ぎるものにその牙を剥く。それは事実だ」
どうしてわざわざそんなことを言うのだろう。
「でもレナ、それはあくまで森の一側面だ。そんなことは君も分かっている。……だから、必要以上に恨まないでいて。森は同時に懐深く慈悲深く、どんなお尋ね者でも拒まず受け入れる。惜しみなくその内にある恵みを他に分け与える」
そんなことはレナも分かっている。
気配で人狼がこちらへ顔を向けたのが分かった。顔を見られたくないはずなのに、思わず反射的にレナもそちらへ顔を向けてしまう。
この距離なら星や月の灯りで、レナにも最低限相手の表情が読めた。
「ねぇ、レナ」
どうして、自分を見つめるその瞳はそんなに優しい色をしているのだろう。
どうして、更にそこにほんのりと甘い陶酔を宿しているのだろう。
どうして、こんなにも心は疎んで疎んで怖くて堪らないのに、レナは拒絶できないのだろう。
縫い止められたように、身動ぎ一つ、いや、瞬き一つできない。
喉も麻痺したかのように、何の言葉も発しない。
自分が果たして呼吸をしているのかも怪しい。
「レナはオレを避けていたんだろうけど」
それでいて全神経が目の前の相手に集中していて、その挙動の一切を拾い上げようとしている。
「レナ、オレは君に会いたかったんだ」
「ーーーーーーーー」
本当に。
本当にこの人狼は、謀り事に向いていない。
レナにははっきり分かってしまった。
この言葉に、人狼の気持ちに一片の偽りもないことが。
会いたかったというその言葉には、人狼のレナへの特別な思いが垣間見える。
「レナ」
人狼の腕が伸ばされる。その長い指がレナの頬へ向けられる。
嫌だ、と思った。怖いと思った。
でも、レナは動けない。
拒絶の方法が分からなかった。拒絶したら、この人狼は傷つく。そう思ったら、動けなかった。
あぁ、もう、触れてしまう。
お願い、誰か止めて止めて止めて、否定してーーーー
「ーーーーっ!」
人狼の指先がそっとレナの頬から顎のラインをなぞる。なぞってから、怖々とそっとそっと手のひらが全体を包んだ。
身体が強張る。一ミリだって身動きできない。
その手は暖かくて、血が通っていることをレナに教える。
この、人狼は。
怪我をしたレナを助けた。
手当をして、食事を用意して、そして家へ帰した。
こちらの手落ちで襲われたというのに狼の群れから庇って、そのせいで怪我をして、でも狼を追い払ってくれた。
どこで落としたかも分からないブレスレットを探し出してくれて。
レナの匂いがするからと、リスクも顧みずアルベルトを助け。
今までひどい言葉と態度で幾度も不快な思いをさせたはずなのに。
なのにレナの憎しみを否定しなかった。乱暴な態度なんて取らなかった。
ぶつかろうとするレナの心を、柔らかく受け止めようとする。
何てことだ。
この人狼は、レナの大切なものを確実に大切にできるのだ。
レナの脆いところを的確に掬い上げられるのだ。
「レナ、ごめん」
親指の腹がレナの頬を優しく滑る。
「ごめん」
人狼はもう一度謝ってから言った。
「でも、オレはレナが欲しい。レナとの未来が欲しい」
未来。
人狼との、未来?
「望んではいけない?」
怖い。
レナは心の底からそう思った。
否定しなくちゃと思うのに、どこか怯えたような雰囲気を纏う人狼を前に、レナは何も言えない。
そうか、人狼も怖いのだ。そう思い至る。
否定されるのが怖いのだ。きっとありったけの勇気を振り絞っているのだ。
この聡い人狼は、自分が望みのない賭けに出ていることを自覚している。
だって、レナは一人で生きている訳じゃない。家族がいて、友人がいて、一つのコミュニティに属して生きている。
それを捨てることなんて、できる訳がない。
人狼は分かっている。分かっているけれど、言わずにはいられなかったのだろう。
そしてレナは気付く。
自分の中にある、否定しようのない感情。
レナは、この人狼を、嫌えない。もう、嫌えない。
それどころかーーーー
自分の心のままならなさに、レナは動揺していた。
頬に触れる人狼の手に、自分の手を重ねたのは多分無意識で。
やっと声に出したセリフは、否定に見せかけたただの肯定だった。
震える喉で、レナは絞り出す。
「私は、自分のこの気持ちを、許せない」
そう許せない。
でも。そのはずなのに。
レナの心は激しく乱れる。
触れられた時、怖くて嫌だったのに、やめてほしくなかった。
違う。
やめてほしくなかったから、怖くて嫌だったのだ。
心が傾く。
甘くて甘くて、でもものすごい苦味を内包した感情が注がれていく。
レナは心の中で一人、呻く。
あぁ、こんなはずではなかったのにーーーーーーーー




