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第三話 お砂糖は、いらない。⑦






 男との再会は一通り済んだらしい。

 レナが隣の棟からノアのいる棟へ戻って来る。

「安心した?」

「心配したのが損だったと思う程度には元気だった」

 ダイニングテーブルの自分の向かいの席を勧めると、数瞬躊躇してから、何かを諦めたように彼女は腰を下ろした。



 向かい合って彼女の顔を眺めると、ホッとした。

 いつまでもいつまでもただ眺めていられそうな。そんな気になる。

 独り立ちした時に、この先独りきりであることをそれなりに覚悟したはずなのに、やっぱりノアは甘かった。十六年も幸せな家庭で過ごした後に、延々と独りで生きる道など、そう簡単に心が慣れるものではない。



 兄も、同じように孤独に苛まれているのだろうか。

 それともノアよりは早くに独り立ちを果たした兄は、その年数分孤独の嵩も少なかっただろうか。



 ノアは、レナがそこにいてくれると、その存在に安心したくなる。

 心の触れ合いが欲しくなる。

 向こうがそれを望んでいないことは知っているけれど、自分が人狼で誰とも相容れないのだということをふっと忘れかける。



 何を話そうか。ノアが逡巡している間にレナの方から口を開いた。

「ーーーーこれから、どうするつもりなの」

 その声が固いのは、忌避や拒絶ではない。本人は不本意極まりないだろうが、彼女はこうなってしまったことで、ノアを心配している。だから、ノアの迂闊さや考えなさに怒っている。

「いや、これからどうするつもりだったの。まさかノープランだったなんて言わないでしょうね」

「あー……その、最低限動けるようになったら、適当に気を失わせて、人里近くに放置してこようかとは」

 プランとも言えないプランだが、棲み家について何となくでも検討をつけられるのを避けようと思ったら、それくらいしか思い付かない。

 それなりに大柄な男なので担ぐと言うよりは引き摺って運ぶ他ないのがなかなかネックだが、自分が引き寄せた事態だ。面倒がってはいられない。

「杜撰な計画ーーーーと言いたいところだけど、こうなったらそれくらいしかないわね。後はこの家に人間が押し寄せて来ないことをお祈りしてるしかないわ」

 溜め息混じりにレナも同意した。

「でも、ここで私が登場してしまった。私という人間がいるのに今更アルを急に人里近くに放置したら、それはそれで訳が分からない」

 それもそうである。レナが登場したのなら、あの男を彼女に引き渡せばそれで済む話なのだから。

「いや、まぁ結局はそうするしかないのか……アルだって正体に気付かないにしても、あんたが訳ありだってことは分かってる。この家の場所を知られたくないって心理も理解できるでしょう。この家から帰す時に私が付き添いでいるなら、恩があるんだし目隠しでも睡眠薬でも条件は飲むかもね」

「レナ、それじゃ君の扱いはどうする。付き添いと言うからには君自身は目隠しなんかするつもりないだろ?レナは道程を覚えてしまうことになる」

「…………そこら辺は誤魔化すしかないでしょ。まぁ、ほら、私は生業が一応ハンターだし、森で訳ありの人間に出会っても深入りしない見ないフリが通例だってことで」

 レナの提案もそこそこ杜撰な気はしたが、ノアは黙っておいた。

 和気藹々とした会話ではないが、刺々しくもないこの空気が惜しかった。



 レナは気付いているだろうか。

 自分が最早自然にノアと会話してしまっていること。



 最初のうちは本当にほとんど口も聞かなかったし、その視線には最大限の警戒と不信と憎しみがあった。

 でも今、レナにそういったものはほとんどない。呆れや戸惑いやなり損なった拒絶ばかりがそこにある。



 自分の変化に、レナは気付いているだろうか。



「ーーーー私、あんたは本当に馬鹿だと思うわ。あんたの立場から考えたら、こんなこと、本当にすべきじゃない。でもーーーーでも、アルが生きていて本当にホッとした。喜ぶ人が沢山いる。私達は、アルを失わずに済んだ」

 一度口を引き結んでから、レナはその後すっと頭を下げた。

「アルベルトを見捨てないでくれて、本当にありがとう」

 偽りのない、心からの感謝と安堵がそこにはあった。

 その素直な態度に、けれどノアは自分の中で引っかかりを覚える。

「ーーーーあの男は」

「?」

 レナの何なのだろう。

 心の柔らかいところを預け合える存在なのか。

 先ほど聞こえてきた会話は遠慮の全くない、けれどそれ故親しさを証明する雰囲気だった。

「レナ、君にとって大切な人みたいだ」

 恋人? と訊こうとして、怖じ気づいて失敗した。

 彼女は眉をぎゅっと寄せ、随分難しい顔をする。

「アルは、幼馴染よ。腐れ縁なの。大切かと問われればもちろん大切よ」

 長い年月をかけて築かれた関係がそこにはある。ノアはそれが羨ましくて堪らない。

「ーーーーでも、何か誤解していない?」

「誤解?」

「私達を何だと思ったの」

 笑い合って、怒って、心配して、安堵して。互いにそれらが当たり前の関係。

「ーーーー将来の約束を交わした二人?」

 怖々そう述べたら、びっくりするくらいげんなりした顔をされた。

「何、違うの」

「違うわよ」

 即答されたが、信じられない。

 だってーーーー

「嫁とか旦那とか言ってたじゃないか」

 再会のハグがどうとか、そういうことも言っていた。

「聞き耳立ててたの? 不作法ね」

「立てるほどじゃない。人狼は耳がいいから、勝手に聞こえてくるんだ」

 人間の聴力では無理だろうけど、ここで待っている間、隣の棟で遠慮なく交わされていた会話はほとんどノアの耳にも届いてしまっていた。

 でも、不可抗力だが、気になって気になって意識を傾けていた節はあるので、内心レナの言葉は否定し辛い。

「恋人じゃないって?」

 重ねて問うと、げんなりした表情に不可解そうな色が混じった。

「だから違うってーーーーどうしてそんなことを気にしたがるのよ」

 だって向こうは絶対に彼女のことが好きだ。会話を聞いていれば分かるし、それにレナの残したハンカチを見つけた時のあの目。心を捕らえられていなければ、あんな目はできない。

 ノアはあの時から直感していたのだ。少なくとも男の方には特別な気持ちがあること。

「皆口を開けば同じようなことばっかり。嫌になるわ」

 つまり、周知のことであると。周りから見たら、二人はそういう仲に見えると。少なくとも分かりやすく男はレナに迫っている。

 レナの言葉と表情から窺えるように、本当に二人は恋人同士ではないのだろう。

 ーーーーーーーー今は。

 でもノアに言わせれば、二人の間には何の障害もない。気持ち一つでどうこうなれるのだ。



 それは、なんて自由な。



 気持ちなんて一番ままらないものだと、ノアだって分かっている。想い合う、その天秤が釣り合うのは簡単なことではないと。

 でも、少なくとも生まれを気にしなくていいその状況は、きっととても恵まれている。

 だって、ノアが喉から手が出るほど望んでも、それは手に入れられないものだから。




 そう、これは嫉妬の感情。

 軽口を叩ける、嫁だ旦那だと冗談のように飛ばせるあの男が、ノアは死ぬほど羨ましい。







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