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第三話 お砂糖は、いらない。⑤





 秋とは言え、被ったフードは何だか暑苦しい。耳が蒸れている感じがしてならなない。

 けれど、これを外す訳にはいかない。



「これ、鎮痛剤になるから」

 ドロリとした緑色のそれは、ノアが飲めと言われてもちょっと躊躇うだろう。

「…………悪い」

 アルベルトと名乗った男は、けれど眉間に思い切り皺を寄せはしたが、その液体を口に含んだ。途端にその眉間の皺が更に深くなる。用意しておいた水の方を一息に飲みほしたが、それでも喉の奥に張り付いた違和感は拭えないらしい。

 それでも、鎮痛剤と言われれば口にせずにはいられないのだろう。



 男は左足の骨をポッキリ折っているのだ。

 熱が下がってからは、足の痛みに呻く日々が続いている。




 ノアは男に自分のことをほとんど説明していない。名前すら、こちらは伝えていない。

 ただ、熊に襲われかかっていたところを通りがかったとだけ伝えた。

 自分のことは詮索してくれるな、詮索しないなら最低限動けるようになるまでは家に置くことも吝かではない、そして無事に帰ることができてもここのことは他言無用だと告げている。

 この男は一応はその条件に頷いた。

 守るかどうかは分からない。けれど男だって、今日一日の命を繋ぐことが大切だ。

 だから、今のところは詮索も何もされていない。というか、痛みのせいでそれどころではないのだろう。

 フードを被ったノアを不思議そうな目では見るが、森にこうして棲んでいる者など(すべか)らく訳ありなのだ。詮索しないが吉である。



 けれど、その日はちょっと様子が違った。



 部屋を出て行こうとしたノアの耳が、呟きを拾う。

「これ……」

 聞こえなかったフリをしても良かったのに、うっかり振り返ってしまった。

 男の視線は、窓辺に置いてあったハンカチに釘付けになっていた。

 黄色と青の花の刺繍が美しいハンカチ。凡そ人狼の棲み家には相応しくないそれは、前回レナが残していったものだった。

 お守りとして渡したノアの髪が、その内には忍ばされていた。

「これ、レナの……」

 その名が出て、ノアの胸がドキンと大きく撥ねる。



 やはり、この男はレナとそれなりに近しい人間だったのだ。



「オレが土産にって前にレナに渡した……」

 そしてその言葉にまたノアの胸が撥ねる。今度は不安と僅かな痛み。

「何でこれがここに?」

 不審の瞳で男がノアを振り返った。

 この男は、レナの何なのだろう。

 自分はそんなことを詮索するような立場ではないと理解しながらも、ノアは気にせずにはいられない。

「…………ただの拾い物だ。知り合いのだって言うなら、返しておいてくれないか」

 彼女との繋がりがなくなる気がして、手放すことに少し未練があった。でも、この男が贈ったものだと知って、同じくらい手放してしまいたいという気持ちもあった。



 嫉妬だなんて、馬鹿馬鹿しい。



 そう思いながらも確実にその炎はノアの胸の内にチラついていて、それを揉み消すようにレナが残していったそのハンカチを男の手に押し付けていた。











 あの日は、いつものように縄張り内を見回っていた。

 騒がしいなと思ったのは、見回りも終盤に差し掛かっていたその時だった。

 獣の慟哭が聞こえる。それは自分の縄張りからは少し外れた場所からだったが、様子が気になってノアは足を向けたのだ。



 そこには地面にうつ伏せた男と大柄な熊がいた。

 ノアは一瞬だけ考えて、熊を仕留めに掛かった。



 理由は至ってシンプルだ。

 これから迎える冬に向けてもう少し食糧の貯蔵が欲しかったこと。

 そして、この熊に自分の縄張り内を荒らされたら迷惑だということ。



 そこに倒れている人間を助けようとか、そういうことは考えなかった。というか、その時点では熊にやられてもう死んでいるのでは、と思っていたのだ。

 けれど熊を下した後、よくよく見てみれば男は意識は飛ばしていたが、生きていた。

 足はあらぬ方向に曲がっているし擦り傷はあちこちあったが、それ以外に深刻な怪我はなかった。

 そして特に何の義理もないのでそのまま熊だけ引き摺って立ち去ろうとしたその時、うっかりレナの匂いに気が付いてしまって今に至るという訳である。



「あのハンカチ……」

 何か余計なことを疑われていないだろうか。

 ノアの中を不安と不快が走る。

 でも今日はそれを押し退けて、心が浮き足だっている。

 いつもの見回り。縄張りの少し外まで足を延ばす。



 だって今日は、匂いがする。



 彼を拒みたがる、彼女の匂いが。



 ノアの足は一直線に迷いなくそちらへと向かう。

 木々をかき分けた先に、やはり思った通り彼女がいた。



「あぁ、会えて良かった」

 久しぶりの彼女は、ノアを見た瞬間ぎょっとした顔をして、その後気まずそうに顔を反らした。

「私は、全く、会いたくなかった。もう二度と会いたくないって、言ったはずよ」

「確かにね」

 つっけんどんな態度も、ノアにはもはやいじらしくさえ見える。かなりの重症であると、自覚はあった。

「それに私、悪いけどそれほど暇じゃないの」

 彼女は気付いているだろうか。一昔前の彼女なら、そもそももっとノアを無視していた。

 会話そのものを放棄していたのだ。けれど今はもう彼女はどれだけつんけんはしても、会話そのものを拒絶することはなくなっている。



 指摘はしない。

 したら途端に黙ってしまうと分かっているから。



「レナ、君が忙しいのは百も承知だ」

 そして今回に限っては多分、その忙しさの中身をノアは知っている。

「でもレナ、困ったことになった。オレの話を聞いてくれないか」

 そう言うと、彼女はとても怪訝な顔をした。






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