第三話 お砂糖は、いらない。④
ノアはもちろん後悔している。
自分の甘さに、辟易している。
分かっている。バカなことをした。見捨てて、そのままそこに転がしておけば良かった。
人間なんかに関わってもロクなことにならない。それは父に、いや、母にでさえよくよく言い聞かされたことだ。
だからノアだって、数回その場をそのまま過ぎ去ってしまおうとしたのだ。努力はした。
けれど、無視できなかった。
一応理由はちゃんとある。
それがなければ、いくらノアだって運がなかったのだとそれを見捨てただろう。
でも、それから微かに匂いがしたのだ。
ノアの心を無条件に揺さぶる、彼女の匂いが。
どの程度かは分からない。でも、それは確かにレナと関わりのある人間だった。
レナは、森を憎んでいる。それぞれの領分と言い分があることを理解しながらも、大切な人を喪ったり傷付けられたりした森を憎んでいる。
ここでこれを見捨てたら、確実に死ぬ。
そうしたら、彼女はきっとまた悲しむのだろう。森の理不尽さに心を固くするのだろう。
それはノアに対して更に心を固くするということと、ほとんどイコールであって。
これ以上、レナに頑なになってほしくないと、ノアは思った。
それが、こういった状況を生んでいる。
つまり、森でレナの匂いが付いた人間を拾い、どうしようもないので家に連れ帰り、最低限の看病をしているといった状況である。
「何してるんだ……」
自分で自分にげんなりする。
どう考えてもロクなことにならない、と自分でも分かっている。
独り立ちをしてこの方、そんなに平和だった訳じゃない。
人狼狩り専門のハンターに出くわしたこともあるし、縄張り争いで同族に深手を負わされたこともある。
ここ数カ月、ようやく仮初かもしれないが、平穏と呼べそうな日々を手に入れたところだったのだ。
レナは、あれで卑怯なことができない人間だから、ノアのこの棲み家を脅かすような真似はしなかった。
けれど、それは幸運なことで、普通ならノアはとっくにこの家を捨てなければならなくなっているところだ。
そして、今、また愚かなことに自分で自分を脅かす存在を引き入れてしまった。
今は高熱に魘されて朦朧としているが、意識がはっきりすればどうなることやら。
しばらくは自由に身体を動かすこともままならないだろうが、もしノアの正体に気付けば、次こそはここに人間の大群が押し寄せるだろう。
ノアだって死にたくないから、そうしたらここを捨てなければならない。
あの意地っ張りで、強くて、でも多分本当はただの年相応の女の子でしかないはずの彼女とは、きっと、お別れ。
そこまで考えて、思わずノアは自嘲した。
「バカだな、オレも」
大体、レナはもう二度と会いたくないと、そう言ったではないか。
あれからひと月以上が過ぎた。ノアの元どころか、森のどこを歩いてみたってレナの匂いなどしない。
彼女のあの言葉本心だし、だから多分ノアを必死に避けている。
――――――――意識しているから、避けている。
言葉を裏返して、自分に良いように解釈している自覚が、ノアにはあった。
だけれど、どうしてか、何故かまたレナとは見える気がしてならなかった。
というか、そういう機会が欲しいから、危険を犯してまでレナに繋がる気がして、人間なんか拾ってしまったのだ。
「これが恋だって言うなら」
命がいくつあってもきっと足りない。
というか、こんな調子で人間に関わっていたら、冗談じゃなくそのうち命を落とすだろう。
でも、ノアはふと考える。
孤独に生き延びる毎日と、短くとも何かに心を懸けられる人生。
幸せと呼べるのは、後者ではないか。
まぁそれも、一方通行ならば独りよがりもいいところなのかもしれないが。
秋の深まった森には、既に冬の気配さえ端々にチラついている。
レナは森に分け入りながら、視界の隅から隅まで浚う。
あの日。あの祭の日。
クレアは結局無事に見つかった。見つけたのは、レナだった。
予想通りクレアはうっかり森の奥へと入り、すっかり迷子になってしまっていた。どうやら見かけたリスを夢中で追いかけているうちの出来事だったらしい。
クレアが見つかって、本当にホッとした。
子どもは体力がない。そして獲物としては美味だ。
日が落ちれば生き残れる可能性はグッと下がる。
日の傾き始めた森の中で、レナは安堵した。
でも、それは束の間の安堵だった。
クレアは泣いていた。
最初は、迷子になった心細さとか、知り合いを見つけた安堵とか、そういうものが彼女を泣かせているのだと思っていた。
でも、何か様子が変だった。
"クレア、どうしたの。もう大丈夫よ。お母さんにもすぐ会えるわ。ね、泣き止んで?"
宥めるレナの耳に、切れ切れの単語が飛び込んできた。
"ア、うえっ、……ベルトが、っく"
アルベルト、とクレアが言ったのだ。
その単語自体は意外ではなかった。話を聞きつけたアルベルトもまた、クレアの捜索に加わっていたのだ。
こういう時、あの男は本当に骨身を惜しまない。
跡継ぎではないとは言え、大きな商家の息子だ。常日頃人の上に立つ機会も多い。
女好きな部分はあれだが、けれど人心掌握というものには長けている。フットワークの軽さの大切さも知っている。
多分、人の上に立つのにとても適した人間なのだと思う。
とにかく、アルベルトもまた二つ返事でクレアの捜索に汗を流していた。
問題は、探されていた対象であるクレアから、アルベルトの名前が出たことである。
仮に名前が出てくるとしたら、ここにはアルベルトも一緒にいなければおかしい。
でも、レナが泣いているクレアを見つけた時、そこにアルベルトなんていなかった。影も形もなかった。
"アルベルトがどうしたの? 私に会う前に、アルベルトに会った?"
尋ねると、クレアはこくりと頷いた。
でも、ここにはアルベルトがいない。レナはザッと血の気が引いたのを感じた。
"……アルベルトは、どうしたの?"
"さ、さきに、行けって。ひっく……振り返っちゃダメって"
何が、あった。
震えそうになる腕を懸命に意思の力で抑えて、レナはクレアの髪を梳く。
"レ、レナ、どうしよう……っ! わ、わたしのせいでアルベルト、熊に、く、くま、う……"
うわぁと激しく泣きじゃくり始めたクレアを、必死になって抱きしめる。
そんな、まさか。
あのうるさくて騒がしくて殺しも死にそうにないアルベルトが?
将来があって、きっとそのうち立派に任されるとかいう王都の店を切り盛りしただろうアルベルトが?
―――――――まさか。
"クレア、クレア泣かないで。泣かないで"
指の先が冷たい。熱はどこに行ってしまったのだろう。
"私が、アルベルトを見つけてくるわ。ここらのことなら、私詳しいもの。見つけてくるわ、ね?"
クレアにというよりは、自分に言い聞かせるみたいにそう言って、レナはひとまずクレアを森から連れ帰った。
そしてそれから一週間。
レナは連日森に入っては、アルベルトの痕跡を探している。
正直、期待なんて全くできない。
三日を過ぎた辺りから、街の人間達の間には諦めの空気が充満していた。
この季節、単に森に迷い込んだのなら、まだ希望はあった。アルベルトは若い男で、体力も知恵もある。そして秋の森には恵みもある。獣を上手く避けることさえできれば、冷えは厳しくなりつつあるとは言え飢え死にはせずに済む。
けれど、最期の目撃証言が悪過ぎた。
熊に遭遇しているのだ。
無事であるとは考え難い。
有望な若者を喪ったと、皆が口々にそう嘆いていた。
レナも希望のなさには理解が及んでいる。
けれど、それでもまだこうして探すことはやめられなかった。
だって、遺体が出てきていない。
最悪熊の餌食になったにしても、そう綺麗に平らげられることなんてない。
嫌な話だが、欠片くらいは残っているものである。
最悪、一部だとしても家族の元に返してやりたいと、レナはそう思っていた。
でも実際にはどれだけクレアを見つけた地点を中心にを捜索しても、血溜まり一つ見つかっていないのが現状なのである。
もしかして、と思ってしまうのは、愚かだろうか。
「でも、もしかしたら……」
正直、レナはアルベルトのことを恋愛対象としては全く見れない。
アルベルトのあの口説きが本物だとしても、レナは受け入れられないだろう。
アルベルトとレナの生き方はきっと根本的に方向が違う。
でも、それとは別に、アルベルトはレナの大切な幼馴染の一人であることは変わらない。
そういう意味では、アルベルトはレナの大切な一人ではある。こんな風に、命を落とされたら堪らない。
そりゃ、煩くてしつこくて敵わないと散々思ってはいたけれど。
でも、元気に平和に暮らしていてほしい。
こんな風にもう誰も失いたくない。これ以上、森で悲しい記憶を重ねたくない。
レナの脳裏に弟の最期が再生される。
レナの、目の前で。
あの子は、命を絶たれた。
絶ったのは、人狼で。
黒くて大きな目で、見せつけるみたいにレナの目の前で。
あんな悲劇が、あんな残酷なことが、あんな耐え難いことが、もうこれ以上は。
だからまだ今日も、レナは諦められない。
アルベルトの痕跡を探しながら、けれど決定的なものが出てこないようにと矛盾した思いを抱えながら、目を皿にして森をさ迷っている。




