第三話 お砂糖は、いらない。①
遅くなりました。
第三話、始まります。
「レナ」
男の甘い声に、レナはそっぽを向いて答えない。
「レナ、こって向いて」
「………………」
大通りのカフェ。しかもテラス席。通りがよく見えるし、通りからもこちらの様子が丸見えだ。
あちこちから投げられる視線が煩わしい。
それもこれも向かいに座るアルベルトのせいだ。レナ一人なら注目なんか全く浴びない。
言うまでもないことではあるが、これはもちろんレナが望んだ状況ではない。
買い出しに出ていたところをアルベルトに捕まって、あれよあれよと言う間にこのカフェに連れ込まれたのである。
相手にしている時間はないと言うのに、全く聞きやしない。
「ご注文はお決まりでしょうか」
店員が注文を訊きに来る。若い女性の店員で、その声は適度な甘さを持っている。媚びがなければつれなさもない、女の子らしい絶妙なトーン。
チラリと視線をやれば、彼女の瞳はアルベルトを映して輝いて見えた。多分アルベルトのファンの一人なのだろう。
「ホットコーヒーとホットのキャラメルラテ、それからケーキは……何かタルトある?」
「はい、イチゴのタルトにブドウのタルト、マロンタルトがごさいます」
「じゃあブドウのタルト一つ。以上で」
アルベルトはレナの注文を本人には確認しない。この機嫌では答えないと分かっているし、そして訊かずともこちらの嗜好を把握しているのである。
理解されていることが、何とも言えず腹立たしい。
「かしこまりました」
店員はすっと下がって行ったが、レナの居心地の悪さは続いていた。
店内の、通りの女子の嫉妬と羨望の視線が痛い。
せめて店内の席にしくれればまだマシだったのに、この男は目立つことを好む傾向があって、秋も深まってきたというのにテラス席に座る羽目になっている。
といっても昼間のこの時間、日差しがあればそれほど寒いという訳でもないのだが。
それにしたってこの男は自分の有害性を分かっていない。
アルベルトがレナに構うと、レナはそこら辺の女子に心ない一言や態度を取られることがよくある。
これでこっちがアルベルトを好いているなら、納得の上耐えようもあるのだが、そうではないのである。
好いてもいない男にかけられた迷惑を、レナは不条理に耐えなければならない。耐えることへの対価はないのである。
レナは基本、アルベルトにそっけない。
そうすると、お高く止まってる、調子に乗っていると陰口を叩かれる。
反対にアルベルトと親しげな雰囲気を見せても、勘違いしている、調子に乗っていると陰口を叩かれる。
結局行き着く先は同じなのだ。
そういうところを考慮してくれず、アルベルトはレナの日常を詮索してくる。
「最近とくに機嫌が悪くないか」
それがアルベルトに何か関係あるだろうか。
レナはグラスの水を口に含みながら、内心げんなりする。
「森にもあまり入っていないらしいじゃないか。俺としては願ってもないことだけど、らしくないと言えばらしくない」
「人の行動をチェックするの、やめてくれない?」
付き纏いではないか。
「別に尾けてる訳じゃない。レナの弟やお義父さんお義母さんあたりに聞けば教えてくれる」
「お義父さんお義母さん言わないで」
家族に情報を売られている事実に密かにショックを受けながらも、レナは不適切な発言を訂正する。
それにしても弟達なんていつもアルベルトはねーちゃんには似合わない、不必要だなんて言うクセに、ちゃっかりアルベルトと通じているではないか。
「そんな顔するなよ。クリス達は別に俺にべらべら話してる訳じゃないさ。森へ出てるかどうかくらいは世間話の範疇だろ。挨拶と変わりない」
自然と更に顔が顰めっ面になっていたらしい。アルベルトが苦笑しながら言った。
そこへ先ほどの女の子がお盆に商品を乗せてやって来る。
「お待たせしました。ホットコーヒーのお客様」
「あ、こっちに。タルトは向こうで」
「はい。こちらホットのキャラメルラテとブドウのタルトになります」
彼女の声は滑らかで変わらず愛らしかったが、最後にチラリと向けられた瞳は一種の圧力を放っていた。
といってもレナはそれを全く気にせず、目の前のスイーツにだけ集中している。
渦巻き模様のキャラメルシロップが浮かぶラテは甘い香りと共に湯気をくゆらせ、ブドウのタルトはシロップを塗られた果実が宝石のように光って美しかった。
レナは思わず見ているだけで美味しいと感じてしまう。
こちらの好みを完全に把握されているのは癪だが、ここまできたら向こうのお望み通り奢られて差し上げよう。
どうせここを奢ってもらっても、まだ負債が大きい。
何故ならこの後レナはアルベルトファンの皆様のやっかみを買うこと必至だからだ。
取り敢えず後のことは気にしても仕方がないので、レナはタルトにフォークを入れる。
一口頬張ると、果実の甘みと酸味が絶妙に口に広がる。固すぎず脆すぎないタルト生地も最高だ。
「美味しいか?」
「美味しいわ」
向かいでにこにこと問うてくるアルベルトに素直に答える。
美味しいものに美味しいとちゃんと言うのは、素材と作り手に対する感謝の気持ちを表す一番の手段なのだ。
すると図に乗った軽薄男が要求してくる。
「じゃあ一口」
「好きにすれば」
アルベルトが注文したのだから、一口や二口で文句は言わない。言わないが。
「食べさせて」
「素のフォークをそのままあんたの額にお見舞いするわよ」
更にふざけたことをのたまった男に、レナは間髪入れずに氷点下の言葉を叩き付けた。が、それでこの男が黙るはずもなく。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろ」
「……馬鹿につける薬って本当にないのね」
「俺はレナに関してだけ馬鹿になるんだ。仕方ないだろう? 何せ愛の色眼鏡がかかってる。他の子とレナは違う」
溜め息を吐くタイミングが分からない。
適切なタイミングで溜め息を吐こうとしたら、きっと息を吸う暇がなくなるだろう。窒息死する。
「タルトの味に集中できないから黙っててくれない。甘い言葉なら、私以外のお嬢さんへどうぞ?」
通りや店内に視線を滑らせる。そこには沢山の女の子がいる。彼女らは皆それぞれ表情も身につけるものも化粧も髪型も、気にかけている。
レナだって最低限身だしなみには気を付けているけれど、それはやっぱり異性の目を気にしたものとは違うのだ。
「どうして目の前にレナがいるのに、レナ以外に甘い言葉が必要なんだ?」
「可愛い女の子がいれば寸分違わずその事実を告げるのが、あんたの主義じゃなかった?」
「可愛い女の子が視界に入っていればな」
この男は女好きだ。可愛いとか綺麗とか魅力的だとか、そんな浮わついた言葉をどんな女の子にも投げ掛ける。
それは構わない。全然構わない。どうぞ好きにやってくれ。
理解に苦しむのは、それを他と一線を画したレナにも向けることだ。
「不毛というか、楽しくないでしょ? こんないつ見ても仏頂面で機嫌も態度も悪い女」
時間の無駄とは思わないのだろうか。
もう長年、アルベルトがレナに構うその成果は出ていない。無駄な投資なら、さっさと手を引いてしまえばいいのに。
「レナは怒っていても美人だ」
なのにアルベルトはまたどうしようもないことを言い出した。
そして向かいからふと腕を伸ばされる。アルベルトの表情があまりに純粋で柔和だったから、思わずレナはそれをそのまま見守ってしまった。
ふわりと、頬に触れる指先。
「でもたまには昔みたいに屈託なく笑ってくれ」
言われて、レナは咄嗟にその手を叩き落とす機会を失ってしまった。
周りの女の子が黄色い悲鳴と剣呑な空気を同時に爆発させていたが、それもどこか遠くでのことに思えた。
アルベルトは言う。
「レナの志は尊いけど、森に入るという選択は、俺にはただの自傷行為にしか見えない」
自傷行為、と言われて、違うとレナは思った。思ったのに、何故かそれを口に出して否定はできなかった。
口に出せないということは図星ということか。レナはそこに自分の弱さを垣間見て、心の内で怯む。
「レナ、そんな顔をするな」
「そんな顔ってどんな顔よ、分からないわ」
表面的には何てことない風に、いつも通りに返したつもりだった。でも、アルベルトの答えはレナを動揺させた。
「泣きそうな顔だよ」
「……………………まさか。嘘でしょ」
馬鹿なことを言う。
レナは人前で泣いたりしない。泣きたくなったりしない。それもアルベルトの前でなんか、絶対にあり得ない。
「私、は」
森に入ることはやめない。そういうつもりはない。
自傷行為だろうと何だろうと、獲物を仕留めれば付近の住人はそれで確実に助かる。成果があるなら、続ける意味はあるはずだ。
「レナ、無理に忘れるようなことはしなくていいが、同じように無理に傷口を抉る必要もまたない。笑って、喜んで、幸せになることに、躊躇いなんかいらないだろ。レナ、幸せになれ」
アルベルトの言うことは、多分正論だ。健全で、まともなのだ。
なのにレナが必要としている要素が何か欠け落ちている気がして、その言葉を丸まま肯定できない。
幸せになることを否定している訳ではない。なっていいと、レナだって思っている。
ただ目を逸らしたり、見過ごしたり、忘れたりすることと、平穏で平凡な幸せをイコールで繋ぐようなことはしたくないのだ。
アルベルトはいつものように続けた。
「な、だからもう俺のところに嫁に来い?」
甘さが足りないからどうにかしようと思ったら、相手を間違えた感じに……
いずれノアにもチャンスを!と思います。




