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第二話 おかわりを、もう一杯。⑧






「目と耳が二つに、口と鼻が一つずつ。手足があって二足歩行。人語を解す生き物で、良かった」

 ノアは薄く笑う。

「レナ、君はそれに惑わされる」

「っ、バカにしないで」

 睨まれ、つい彼女に向けて伸ばしかけた腕は青の石をぎゅっと握り混んだ拳に払われる。

 払ってから、彼女は気まずそうに視線を反らし、今度は床を睨み始めた。

 彼女は必死に言葉を探しているようだった。

「ーーーーブレスレットのことだけど」

つっけんどんな口調も、人狼であるノアに対し必死に譲歩した結果と思えば、むしろいじらしく思えるくらいだ。

 ノアは自分のその思考に、内心呆れる。これは随分と重症だ。

「これは、その、何て言うか、その……本当に有り難う。自力では見つけられなかったと思う」

「諦める気がなさそうだったから」

 正確に言うと、諦め方を見つけられそうには見えなかったから。

「このまま放っておいたら、何度でも危ない目に遭いそうだったから。そういつでもタイミング良く居合わせられる訳でもないし」

 どこかでこの間みたいに彼女が獣に襲われたらと想像したら、早く見つけ出して返してしまった方が良いと思ったのだ。手こずりはしたが、最終的に見つけることができて本当に良かった。



「借りばかりで居心地が悪い?」

「……………………まぁ」

 本当は全部ノアが勝手にやったことで、借りだなんて思わなくてもいいのに。

「じゃあそれ、返してみる?」

 だけどチャンスだと思って、ノアはそう持ちかけた。

「人間を食べないって宣言してる人狼が、何を要求する気?」

 途端に警戒を露にする彼女。




「名前」




「は?」



 多分、こんな要求、予想外もいいところだろう。

 けれどノアは彼女の血肉より、その喉が発する凛とした声が欲しいのだ。



「名前、呼んでくれないかな。あんた、じゃなくて」



 あからさまに彼女は怯んだ。

 彼女はきっとノアにただ"人狼"でいてほしいのだ。名前を持つ、個別の存在にしたくないのだ。

「…………………………」

「嫌?」

 でも、ノアは彼女にとって種族ではなく個人として存在していたい。



 たかが名前。

 けれど、きっと呼んでくれたらノアの輪郭は彼女にとってもノア自身にとっても、よりくっきりとするだろう。




「ーーーー名前」

 小さな呟きが落とされる。そんなに眉間にシワを寄せていたら、消えなくなってしまいそうだ。

「ん?」

「何て言ったの。もう一回名乗って」

 呼んでくれる気らしい。

 ものすごい勢いで高揚する気持ちを隠して、ノアは名乗った。

 多分、生まれてこの方一番丁寧に自分の名前を口にした。




「ノア、だよ」




 ひたり。

 彼女の視線がノアの瞳を捉える。

 期待で胸が破裂しそうだ。

 そして静寂の中に声が落とされた。




「ノア」




 瞬間、いいなぁ、と心が喜びに打ち震える。

 名前を呼ばれた。たったそれだけのことに。

 たったそれだけのことだけど、これが欲しかったんだなとノアは思った。



 一度だけかと思ったら、彼女は続けて言う。



「ノア、あんたにはもう、二度と会いたくないわ」



 ノアはそれを否定的な言葉だとは思わなかった。

 だって恐らく、単に憎いから会いたくないのではない。

 憎いと思えなくなりそうだから、彼女の中で天秤が揺らいでいるから、だから会いたくないと拒絶するのだ。

 自惚れではないと思う。



「レナ、やめてくれないかなぁ」

 ノアは笑みを浮かべようとして、多分失敗した。

 困ったことになったと思った。



「そういう顔されると、心が動いてしまう」



 でも彼女は、ノアを受け入れることはできないだろう。揺らされることはあっても、その二本の足を折ることはきっとしない。できない。

 痛みを誤魔化さず、真っ正面から受け止め続けるような人間だから。

 弟のことを、本当に大切に思っているから。

 だからその弟を殺した人狼という存在を、彼女は絶対に許せない。

 そんな彼女に好意を覚えるのは、なかなかの苦行だ。




「…………もう行くわ」

 これ以上なく渋い顔をして、彼女はノアの前を通り過ぎ、そして扉の向こうへ出て行った。

 彼女の、帰るべき場所へ向かって。










 部屋の中にまた静寂が返ってくる。

 これがノアの日常のはずなのに、心が飢えと渇きを訴える。



 ただの気まぐれだったはずなのに。

 思いつきで助けただけなのに。

 彼女は人狼であるノアに好意的でない態度や言葉ばかりを向けて、だからノアだって彼女を良くは思わなかったはずなのに。



 なのに今彼女に覚えるこの感情は、甘くて苦くて、やっぱり甘い。



 独りで生きていく。

 それが人狼としての生き方なのに、ノアはもうそれを全うできそうにない。

 ノア、と呼んだあの声が、心を鷲掴んでしまった。



 鷲掴まれた胸が痛い。足りないと我が儘を言う。

 名前なんか、呼んでもらわなければ良かった。



「レナ…………」

 後悔の吐息を、ノアは部屋で独り、密やかに零した。






とりあえずここで第二話、完です。

なかなか甘い感じにならなくた申し訳ない……

レナ、もうちょいガードを緩めて……

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