第二話 おかわりを、もう一杯。⑦
その日、レナが部屋を覗くとそこに人狼はいなかった。
「気が付かなかった……」
人狼の家は二つの棟を繋げたもので、片方がキッチンなどの水回りやリビング、もう片方が居室となっていた。居室がある棟の方が新しい造りで、レナは必要以外はキッチンの傍でまんじりと日を過ごしていた。
落ち着かない。
もうずっとそう思っている。
憎いのに、憎しみが上手く働いてくれていない。
人狼がお人好しで間抜けなのと、自分が迂闊で中途半端なのが悪い。
「……無視すれば、踵を返せば良かったのに」
なのに、あの時そうできなかった。
人狼が自分の代わりに狼の牙を受けた時、憎しみだけを理由に通りすぎることはできなかった。
あの人狼は、レナの心に無闇に迷いを落としていく。
それにしても人狼はどこへ出て行ったのだろう。
出歩く元気があるのなら、具合も良いのだろう。もうレナもここに留まらずに済む。
そう言えば、傷の治りもやはり人間に比べると早かった。
塞がろうとする傷のことを思い出して、別のことも芋づる式に頭を過る。
レナの指示通りシャツを脱いだその背中や腕に、新旧問わず多くの傷痕があったこと。
綺麗な造りの顔に似合わない、闘争の爪痕。
やっぱりこれは人狼だと思うのと同時に、そういう傷を負わずには生きていけない人生の気の休まらなさを想像した。
独りの人生、狩るか狩られるかの命のやりとり、腹を満たすことだけが頭や心の真ん中に居座っている。
「…………私には、関係のないことだわ」
そう、関係ない。
そうだ、もう人狼は自由に出歩けるほどなのだから、レナも家に帰ればそれで良い。
暇の挨拶が必要な訳でもないし、持ち物と一緒に消えれば人狼もレナが帰ったことを納得するだろう。
顔なんか、これ以上合わせない方が良い。絶好にその方が良いに決まっている。
「いくらあれが人間を食べないと言うからって、長居し過ぎたわ」
そもそも心の底からは信用できないし。
気持ちを固めたレナは手早く装備を身に付け、準備を整える。
そうだ、人狼に渡されたあれは置いていくべきだ、とハンカチに包んだそれをテーブルに置いたところで、ガチャリと扉が音を立てた。
「!」
人狼のお帰りだ。
「ーーーーレナ?」
人狼はレナの出で立ちを見て、ショックを受けたような顔をした。
何故そんな顔をする。
「随分元気そうね。動き回れるなら、もう他人の手はいらないでしょ」
「……黙って出て行くつもりだった?」
そんなしょぼくれた顔なんて、みたくない。
心持ち耳もへたっているように見えるのは、きっとレナの気のせいだ。
「何か問題が?」
開き直った態度で言うと、人狼は眉を寄せた後困ったように下手な笑みを浮かべた。
「…………入れ違いにならなくて、良かったよ」
そう言って手首を取ったその動作はあまりに滑らかで、レナもうっかり振り払い損ねる。
返された手の平に落とされた、それは。
「え…………?」
ころりと転がる幾つかの濃い青。糸は切れているが、それは間違いなくレナが探していたもので。
「どうして」
「珠の数が足りないかもしれないけど。取り敢えず見つけられた分は全て回収してきたつもりだよ」
「何の、ために」
「だって探してたんだろ?」
探していた。これからも探すつもりだった。諦めきれていなかったから。
でも、それは本当にレナの個人的な問題だ。人狼には関係ないことのはずだ。
一体、何時からこの人狼は探していたのだろう。そう簡単に見つかったとは思えない。
まだ夜が明けきらない内から森を隈なく探し回る姿が想像できて、胸の内が重みを増す。
こんなことをしてもレナはきっとまた可愛くない態度しか取らないと、この人狼ももうよく分かっているはずなのに。
「…………たかがブレスレットだって、落とすヤツが悪いんだって、そう思わなかったの?」
「だってそれは」
呼吸と一緒に人狼はさらりと言った。
「他の何でも購えない」
そうだ、これは他の何でも購えない。
見つけられなかったら、レナは死ぬまで後悔しただろう。
「それは、レナの心の一部だろ」
どうして。
どうしてこの人狼はレナ心の中に抑え込んでいた感情を、こうも簡単に取り出して理解してしまうのか。
「…………人狼って、嫌な生き物ね」
レナは呻くように言う。
「目と耳が二つに、口と鼻が一つずつ。手足があって二足歩行。人間と姿形を似せて、人間と同じ言語を操って、まるで同じであるかのように嘯く」
もっと全然違う容姿で、おどろおどろしくて怖くて醜悪で言葉も通じないような生き物だったら。
そうだったなら、決して間違えたりしないのに。
理解や共感の範疇外のものなのだと、ちゃんと気持ちが定まるのに。
これは、人狼。
その気になれば人間を食らうこともする、そういう生き物。
レナは、人間。
その捕食対象なのだから。
心の、やり取りなんて。
ーーーーーーーーしてはいけない。




