第二話 おかわりを、もう一杯。④
正直、この家に彼女が再び足を踏み入れることになろうとは、ノアも全く思っていなかった。
何か意思を持って森にいた彼女がノアのちょっとした忠告程度で森に入るのをやめるとはもちろん思わなかったが、それでも人狼を憎む彼女ならノアのことを徹底して避けるだろうと思っていた。
次に会うことがあるとしたら。
それはレナがノアを意思をもって害そうと、駆逐しようとした時だ。
装備を固めて一人でやって来るか、付近の住人を引き連れてやって来るか。
数日ノアは警戒していた。警戒していたが、特にこれといった動きはなかった。
なかったことにしようとしているのかも。
ノアはそう思った。
彼女はあれでなかなか律儀なところがあったから。
憎しみの嵐の中、それでも世話になったという感覚を捨てきれない彼女は、きっと卑怯な手を取りたくても取れない。そんな気がした。
ノアの方でも、もう関わる気はなかったのだ。見かけることがあっても、そのまま知らないフリをするのがいいと思っていた。
だが、あんな場面に遭遇してしまっては、黙っていられないではないか。
見殺しにするのはあまりに寝覚めが悪い。
「ちょっと!」
物思いに耽っていると、不機嫌な声が鼓膜に刺さった。いや、彼女は怒っているのだ。
ノアに、そして自分自身に。
「とにかくそのシャツを脱いで」
狼達を追い払った後、陽もほとんど暮れていたので、二人はひとまずノアの棲みかに戻った。
「薬箱は」
「え、あの棚だけど」
棚を確認し出した彼女の背に、ノアは純粋に驚きの声を投げかける。
「もしかして手当てしてくれるつもり?」
彼女はそれには答えなかったが、行動が全てを表している。
「ーーーーどうして庇ったりしたのよ」
代わりに返ってきたのは悔しそうな声色だった。
「理屈じゃなくて反射だよ」
どうして、と問われると難しい。
確かに助ける義理も義務もなかった。
「馬鹿じゃないの」
彼女の目にノアは度の過ぎたお人好しに見えているだろう。
「馬鹿じゃないの、こんな、怪我までして」
「でもレナ、君も死にたくはなかっただろう?」
「それはそうだけど!」
人狼に助けられるのもなかなかに辛いことなのだろう。そう言えば前回も"ややこしいことをしないで"と言われたのだった。
「…………染みても、我慢してよ」
折り合いのつかない感情を抑え込んで、彼女が言う。
全体的にほっそりとした造りの手が、ノアの二の腕に触れた。
「っ…………」
止血と共に、水に濡らし固く絞った布が傷口の血を拭う。
触れたくもないだろうに、けれどその動作に乱暴なところはなく、丁寧に丁寧に拭っていく。
その動作に、ノアは見惚れる。
痛みよりも、胸がじんわり温まるその感覚の方が強い。
薬を塗り込まれ、ガーゼを当てられ、器用に包帯が巻かれていく。
そっと彼女の表情を窺うと、そこには嫌悪も怒りも見事に抑え込んだ、ただの無表情な顔があった。
彼女は人狼を憎んでいる。それはイコールでノアに繋がっている。
好かれてなんか、いない。
それでもノアはこうやって触れられて、悪い気はしなかった。
じんわりと温まる胸に、別の鼓動が混じり出す。
好かれてなんか、いない。
もう一度そう認識し直す。
でも、ノアはそんな彼女が嫌いでない。
嫌いでないのだ。
「……次は何を見かけても、助けたりしないで。もう絶対に」
「…………君は難しいことばかり言う」
包帯を結び終わった彼女がそう言うから、ノアは苦笑しかできなかった。




