2-6
「あたた…………」
脱走時に痛めたのか、召喚された時に付いた足の怪我が痛む。
それは悪夢の始まりとも、日常の終わりとも言うべき出来事だった。自宅で大学へ行く準備をしていた紬喜は、下から突き上げるような揺れ襲われる。
これは大きな地震かもしれない。
慌てて、ベッドの上に準備していた花柄のストールを掴もうと右手を伸ばす。この際アクセサリーは諦めよう。鞄は一階のリビングでスマホもそこだ。非常用持ち出し袋、何処だっけ…………そこで更に体が上下に揺さぶられた。
あと一歩進めたら、ベッドに手が届いただろう。
しかし足は、言う事を聞かない。
「えっ?!」
下を見て、血の気が引いた。フローリングの床は真っ赤。無数に生えた細い蔦が、蜘蛛の巣の中心に居るかのように巻き付いていたのだ。毒々しい赤。それに生えた小さな葉が、ザワザワと不規則に蠢く。
「なにこれっ!!」
叫びに応じるかようにソックスごと足を締め上げ、ガウチョパンツの上へと、それは驚くべき早さで成長し始めた。悲鳴を上げる暇はなく、バランスを崩して尻餅を付いたところで、追い討ちをかけるようにガクンと大きな揺れ。
吐き気に似た浮遊感に、落ちている事を悟る。
咄嗟に見上げた天井には、トップライトが静かにぶら下がっていた。呆然とする視界は、雨のごとく降りかかる赤い色に閉ざされて真っ暗になり、音も無く、何処までも落ちて。
そして出会った王城の人々。聖女として過ごす事しか出来なかった日々。
足に残る蔦の痕は、最後に見た自分の部屋の景色と共に、紬喜の心を絞めつけた。
何故、私だったのか。
「紬喜様、お怪我でも?」
三階へ逃げていく少女が落とした声を、アルフレートは当然聞き逃したりはしなかった。現実は日本ではない異世界で、この気味の悪い痕は長いスカートの中だ。でも、痛かった。優しくされると、今まで我慢で出来ていた痛みに弱くなる。
「…………実は」
力無く笑った紬喜は、隠す理由も無いなと思い直し、足の状態について話す事にした。誰かに聞いてもらった方が、楽になる事もある。あの日をトラウマのままにしたくなかった。最後の、日本の景色なのだ。
「そうでしたか」
アルフレートは表情を曇らせて言った。聞いていて気分の良い話でも無かったな、と紬喜も思う。
「すみません、こんな事話して。おやすみなさい」
「お待ち下さい」
アルフレートは、何処かぎこちなく笑って言った。
「部屋でお待ち頂けますか?よく効く薬に心当たりがあります」
話してみて良かった。
部屋に戻って靴と靴下を脱ぎながら、紬喜は安堵した。波打つような赤い痕。腫れてはいないのに、ピリッと痛む。この家に来てから、それは酷くなった気がした。王城では、数日間手当を受けたが、それだけだったのだ。
――――こんな痕が残っていても、誰も気にはしなかった。
こんこん、と軽いノックの音に紬喜は我に返る。急いでつま先に布靴を引っ掛け部屋の扉を開けると、そこには薬箱を持ったクリスが心配ですという顔で立っていた。
「紬喜、怪我をしたって?」
「んー、前からしてたというか…………」
言いながら自分の足を指差した。室内用の靴から覗く素足。痕が見えるように、寝巻のスカートを少し持ち上げてみせる。
「っ…………!」
一瞬固まって、言葉に詰まったクリスは、ゆるゆると溜め息をついた。
「君には色々覚えてもらわないと、いけない事が多いみたいだけれど…………先に手当てをしようか」
彼はベッド端に紬喜を座らせると、ストールを羽織らせてから、その足元に跪く。自分でやると言う声を黙殺した少年の笑みは、何時になく…………穏やかさを欠いていた。
「クリス…………怒ってるの?」
無言で片方の布靴を脱がせ、立てた片膝の上に置く少年は、見上げる水色の瞳を少し細めて、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕らと暮らす上で、覚えて欲しい風習があるんだ」
気圧された紬喜は口を噤んだ。これは、何か重大な失敗を犯したのかもしれない。家主のクリスとのと衝突は極力避けねばならない。了解の意を込めて頷くと、水色の視線は薬箱へと逸らされた。
「異性に、足を晒してはいけない」
クリスが足首を掴む。その辺りから上へ蔦の痕が赤く残っていた。始めにその場所を手当てしたのは、王城のブラックサンタこと、召喚士長だ。その時も裸足だったし、当然、靴下は目の前で自ら脱いだ。
「自ら足を見せるという行為は、主導権を渡す――――服従するという意味がある」
奴隷が丈の短い服を着せられるのは、この為だよ。なんて事のないように話しながら、クリスはスカートを膝まで押し上げる。赤い曲線が走る脛の状態を一瞥すると、迷わす青い瓶に入った軟膏を取り出し、足首から膝下へと慣れた手つきで塗布していった。
ハッカの様なスッとした匂い。ヒリヒリした痛みが増し、熱を持った感じがする。良薬口に苦しなのだろう。息を詰めて我慢する紬喜に、クリスはニコッと作ったような笑みを向けた。
「ちなみに僕の国では…………女性が足の指を見せるという行為に、特別な意味があるんだ」
うん、わかった。ここまで来ると、嫌な予感しかしない。
少年は治療のために顔を伏せた。淡い金色の後頭部、首後ろの水色のリボンの先。黒いベストに包まれた背中で、しっぽの様な毛先がサラりと動いて。
「私を抱いて下さい」
目を細めて、意味を分かっていないだろう年頃のクリスが毒を吐く。アルフレートじゃなくて、クリスが来させられた意味と、子どもに言わせる事じゃ無いだろうにとする眩暈か、叫び。いや、これが大人だった場合…………シャレにならないという脅しか。
「クリス、ほんとごめん!後は自分でやるから。以後、気を付けます!!」
文化の違いって、此処に落とされて初めてぶつかったかもしれない。王城で、何か粗相をしていたのだろうか。だから私は、要らない聖女になってしまったのだろうか。
かなり頑張っていたつもりだった。でもそれは、無意味でしかなかったのか。
「紬喜」
クリスの声に、ハッとする。既に包帯がまかれた片足の先に、布靴が履かされた。
「この痣は出来るだけ、君が触らない方がいい。だから手当は僕がするよ。でも、明日は靴下を脱がないで居てくれるね?」
「肝に銘じます」
「良かった」
脅かしてごめんね、と穏やかに微笑んだクリスの言葉に内心ほっとする。
しかし、一人にになって気が付いた事がある。脅しと分かっていたという事は、あの言葉の意味を分かっている、という事ではないか。十歳前後の少年には早すぎる内容だ。誰なの、天使のクリスにそんな事教えたのは。ラルスか、やっぱりラルスなの!?
紬喜の中で、クリスをここに追いやった男の存在は、第一印象の悪い男に摺り変わった。