2-3
朝から疲れる。
よく考えてみたら、この世界の男性とはあまり接点がない。いろいろ風習だって違うだろう。ヨーロッパ的な雰囲気の世界だが、対人関係はフランクなアメリカ人みたいな感じだったりするのかもしれない。
それはそれで辛い。
ラルスが笑顔でハグを迫ってきたら、身の危険しか覚えない。だって、笑顔が怖いから。真顔で失礼な事を考えながら、常識のありそうなアルフレートに聞いてみようと、紬喜は考えた。色々やらかす前に、此方のマナーを把握しておきたい。下手をすると、ラルスみたいな変な子になる危険があるのだ。
人の振り見て我が振り直せ。紬喜は入口脇の棚からタオルを出して、脱衣棚に近づく。
しかし、追い打ちが待っていた。
浴室の棚に置かれた紙袋。クリスの言っていた、用意した服が入っているそれは、オレンジ色の落ち着いたデザインの巻きスカートや生成りのブラウスワンピースだった。しかし、下着が問題だ。
明らかに少女趣味のフリルとリボン。色はもちろん純白で。キャミソールとカボチャパンツって何なのだろう。頭を抱える。
クリスの照れ様からいって、見たに違いない。もうどうしたら良いんだろうか。いや、着るしかないんだけれど…………お金がないって、辛いな。
紬喜は頭を振って、邪念を追い出した。
浴室の使い方は、簡単だった。服を脱いで、浴槽に入り、壁の赤いタイルに触れる。幸い魔力はあるそうで、紬喜にも家の魔道具は全て使えるらしい。
一瞬白く光ると、ザーッと勢いよく天井からお湯が降ってきた。浴槽は湯船ではない、と先ほど教わっている。壁のタイルが魔道具で、お湯の温度や量を変更できるのだ。
しかしこれ、強制シャワーであるらしい。
しばらく経つと止まるそうだが、自分では止められない。降ってくる範囲も浴槽全体と広いし、ちょっと無駄を感じた。
「まぁいいや」
今更だし、細かい事は気にしない方針で行こう。降りっぱなしシャワーの中、頭を洗い、体を洗い、洗った傍らか流される。全然洗った気がしなかった。
一時はホームレスを覚悟したのに、こうして暮らせるのは幸運だ。紬喜にだって分かる。多分、サバイバル生活なんて出来やしない。それを痛感しても、しただけだ。本当の貧しさなんて知らないから、この贅沢を簡単に投げ出せる。たとえば、気に入らない、理不尽だって。
今度、愚かにもそんな事をしたら、死ぬかもしれない。南国から来たトカゲみたいに、湿度や気温を管理された水槽でしか生きられないのか。
違う。
狡いのだ。楽な方を選んで、選んだ責任を自分で負えなかった。保護者の居ない世界で、自分を守れるのは、自分だけだという事。それがとても、心細い。
流れる水音を聞きながら、紬喜は黙々とボタンを止めていく。ストレッチ性皆無の衣類は、動きにくく皺も付きやすい。溜息と共に脱いだ服を紙袋に押し込んで、濡れた頭にぐるぐるタオルを巻きつけた。
所謂インド人頭で二階に顔を出したのは、人を探してのことだ。ラルスが居るかと思ったリビングは無人。その代わり、キッチンからアルフレートが顔を出した。
「おはようございます…………えぇと、その頭は?」
「ですよねー」
こんな長さにした事が無かったので、肩に乗せたタオルより髪が長い事実に直面したのだ。個人的にはプールに入った後に被る、タオル地の帽子の代わりである。
お城にはドライヤーもどきがあった。此処にもあると嬉しいが、無いと言わせるのも心苦しい。
「髪が乾いていないので、巻いてみました。水が垂れなくて良いと思いませんか?」
おやっという顔をした彼は、一人納得した様に頷く。
「紬喜様、ちょっとタオルを取って頂けますか」
あれ、なんか思っていた反応と違う。近寄って来たアルフレートは顎に手をあてて、生乾きくらいの温度から試しましょうかと呟いた。この家の男性陣は皆、長髪だ。やっぱり乾かす道具があるのかもしれない。
「後ろを向いていただいても?」
「はぃ?」
訳が分からないながらも、言われるがまま背を向ける。瞬間、少しの風を感じた。ふわりと自分の髪が首筋をかすめて胸元へと落ちてくる。
「上手く乾きましたね」
振り向くと、手をパチンと合わせたアルフレートが微笑んだ。こんな一瞬で乾くとか、どんな魔法…………魔法か!
「魔法?」
「ええ」
即答された。そうか、呪文とか唱えないのか。ある意味それって、いつ来るか分からなくて怖いよね。
「そのバスタオルと紙袋、お預かりしても?」
「えっ、だ、だめです!」
紙袋は脱いだ服が入っている。しかもしわしわで、どうしたら良いか分からない。目ざとく気付いた彼に渡したら、間違いなく洗われるだろう。しかし、家事を総括しているというアルフレートは、そう簡単には諦めなかった。
「どうされるのです?」
「自分で…………て、手入れを?」
「ほつれましたか?」
「いえ…………洗濯すれば着られます」
「でしたら私に、お預け下さい?」
「いえいえ、自分で洗います!」
「どこで?」
「…………ん」
よく考えたら、この家に洗濯出来そうな場所は無い。頑張れば広い浴室で洗えるだろうが、彼の反応からして、この家で洗っていない?
「バスタオルに包んで籠に入れておくと、もうじき来る業者が洗ってくれますよ。早ければ夕方には戻りますし」
「…………その籠の場所、教えて下さい」
異世界の下町生活は始まったばかりだ。居候が暇をしている訳にはいかない。部屋で気合を入れなおすと、紬喜はアルフレートを手伝うべく二階へ降りた。
しかし、家事レベルはあまり高くはない。父子家庭だったので料理は一通り出来るものの、レンジで時短は当たり前。レトルトのアレンジと、炊飯器の多様性にはお世話になった。
家電の無い今の紬喜は、何が残っているのか未知数なのだ。そして、そんな事を分かり切っていたのか、アルフレートからは、やんわりとキッチンから追い出されてしまった。
昼食まで用意済みらしく、出る幕も無い。
「もう出来ますから、クリスファルト様を呼んできて下さいね」
ただで引き下がれない紬喜の為に、ちゃんと仕事も付けてくれた。見事なまでの完敗である。
クリスの部屋は二階の北西部。キッチンから出てダイニングを抜け、階段を横切るとその扉の前に到着する。
ここが兄の部屋なら、蹴破る勢いで開けるのだが。
紬喜は今朝のクリスを思い出し、ノック後、ご飯だよーっ、と言うに留めた。本来、ノックは入室許可を問うものだ。ノックしたら開けてOKという知識は間違っている。
静かに扉が開いた。クリスは髪を丁寧に首後ろで纏め、瞳と同じ水色のリボンをしている。おはよう、あ、さっき言ったね、なんて微笑むから可愛くてしょうがない。これで男の子なんて、世の不公平がイナバウアーだ。凡人が真似たら、腰を痛める。今日もリボンタイがよく似合っていた。
「良かったよ、紬喜。服は丁度良いみたいだね。靴は少し時間がかかるから、早めに注文しよう」
「え…………」
「色々足りないだろうし…………ねぇ、何色が好き?」
十歳とする会話じゃない。しかしコチラは一文無しだ。この好意は有難いにきまってる。今できる事と言えば、天使の如き美少年クリスに、深々と頭を下げる事くらいだ。ゴチにはなりません。必ず返します…………!
クリスは、小さな手で紬喜の頭を撫でた。
撫でて欲しくて、下げたんじゃ無い。家主の扱いが心配になった紬喜は、この世界に頭を下げる文化がない事を失念している。
しかし、長い朝は終わらなかった。
四人で囲った朝食の席でも、受難は待っていたのだ。
平民の主食は黒小麦のパンらしい。昨晩も食べたそれは、香ばしいながらも結構堅い。歯が悪くなったらどうするのだろう、と思わず老後が心配になる。
ちなみに、王城ではパンを見かけなかった。王侯貴族の主食は麦粥で、平民はパンなのかと考えると、ちょっと変だ。
「うーん」
思わず唸ると、正面に座るアルフレートと目が合った。
「何か、苦手な物でもありましたか?」
「王城では、パンって食べなかったなぁと思って」
「…………そうなんですか?」
そうなんですよ。いや、その感じからして、何でってところですね。異世界人は人間枠じゃないから、パンが出てこなかっただけですかね。紬喜は自分で悟って、ショックを受けた。病気でも無いのに一日三食お粥なんだから、気が付けば良かった。
妙な沈黙が下りた食卓の空気をどうしよう。ふと横に座るクリスを見ると、彼も此方を見ている。
「紬喜の国の事、聞いてもいい?」
紬喜は微笑んだ。こういう聞きにくい事をズバっと聞けるのは、子どもの特権だろう。
「私の国には、いろいろな種類のパンがあったんだよ。こういう色のは、無かったような気がするけど」
「えっ?!」
クリスは何に驚いたのか、目を見開いた。
「ちなみに、ふわふわで柔らかいパンが一般的に好まれてたよ?」
「どんな酵母を使っていたのですか?」
アルフレートが聞いてきた。しかし、時短の女である紬喜に、そこまでの知識はない。
「イースト菌だったかな、お店で売られてて、それを買えば大体…………」
ドライイーストにしか、お世話になった事が無かったのだ。しかも家庭科の授業で。普通の人は、一から酵母を作ったりはしない。やり方は不明だ。
「店に酵母が、売っている?」
「乾燥したやつが、箱に入ってて」
「え、乾燥?」
クリスが首を傾げる。
「乾燥してて、良いのかなって?」
「お湯に浸すと、生き返るんだよ」
「紬喜も?」
「イースト菌と人間は違うからね?」
菌類と同じ生命力を求められても困る。ペットから菌類に格下げは勘弁願いたいところだ。というか、これはジョークだったのかな。難しいよクリス。
「特殊な乾燥方法なのでは?」
その問いには、知識不足でお答えできません。アルフレートさん、お願いだからもう聞かないで。静かに食べて。食べながら優雅に会話にとか、そんなの食われる前に食えって家で戦い抜いてきた私には出来ないよ!
結果、日本のパンについて質問攻めにあった紬喜は、老後の食生活問題を解決できなかった。
やはり、口は災いの元である。