7-10
「逃げる事ないでしょう?」
クリスが怖い。幽霊とかお化けの怖さではなく、身の危険を感じる恐さだった。
「少しずつ慣れれば良いよ、時間はいくらでもある」
それは問題を先送りにする、とも言う。
「ねぇ紬喜。大人の僕の、何処が苦手なの?」
遂に白状したクリスに、覚えたのは怒りだった。まだその話を続けるの!?本人の前で!!
プツンと何かが切れたまま振り返り、前にある白いシャツをぐしゃっと掴む。収まらない動揺のままに揺さぶって、とうとう叫んだ。
「クリスの馬鹿っ!最初から言ってよ!!私、凄く、怖かったんだから!!怖い事無いって言ったのに!どうして意地悪するの!?私、クリス以外の人を好きになるかもしれないって、怖かったんだからっ!」
背中に回った腕。近づいた肩。同じくらいの大きさのクリスが、何処までも優しく、弱く抱き寄せた。振り払ってもいいという頼りなさに、紬喜の指先からゆるゆる力が抜けていく。
「分からないと思わなかったんだ。気が付いて欲しかった。でも君が逃げ腰だったから、怖いのかと思って…………ごめん言訳だ」
紬喜の肩に頭を伏せたクリスは、ぽつりと言った。
「僕は言いたくなかったんだ。君よりずっと年上で、成人していると」
子どもだと思って、頭を撫で、抱きしめ、頬にキスまでしてしまった相手。両手で顔を覆う。墓穴でいいから入りたい。私は彼に何をした?
「どうして紛らわしい事したの…………私もう」
お嫁に行けない、と言おうとして。新たに掘りそうになった墓穴に気付く。
「君が怖がると思って。あの家に、子どもが一人居た効果は分かるでしょう?」
成人男性三人組の家に居候なんて、流石に考えものだ。でも、このモヤモヤが晴れる訳じゃない。大切で恩あるクリスが実は、直視して良いのか戸惑うほどの青年で、しかも婚約者。
大問題だ。
子どものクリスに年齢という猶予を見出していた。
それはクリスだけの猶予ではなく、私の心の猶予でもあったのだ。私の婚約した相手は、子ども、じゃない。
「クリス…………」
「君が好きなんだ。だからごめん、僕はもう手放せない」
背中の腕に力が入る。きゅうっと抱きしめられて、息苦しい心までもが締め付けられた。
「僕らは魔力体。人とは違うんだよ。紬喜が人の目線で居る限り…………僕は成長をしてくフリをする。だから、どの姿にも慣れて欲しいんだ」
「クリス…………」
「昼間は簡易冠を被らなきゃならない。成体になるしか無い僕に会いたくないなら、此処から出ないで」
会いたくないんじゃない。夜しか会えなくなって、寂しかった。逢えなくて、淋しかったんだ。
私は、姿が違うと受け入れられないの?
あの人を好きになってしまうのは、怖い。年上で、目線を合わせるのも恥ずかしいような人を。会うたびにからかってくる余裕も、違う体格も。それこそ、届かない青い三日月のよう。明るく照らしてくれるのに、触れる事は許されないような。
あれが、クリス?
「人が死してその骸を長く残すように、僕達は長く生きて、骸で残る時間はない。大体、八百歳が平均寿命になるのだけれど」
「は?」
思わず顔を上げる。同じ背丈になったクリスの顔は、見えなかった。
「安心してよ。二百と九十歳のアルより年下だから。紬喜が慣れるまで待つよ。時間は沢山あるからね」
アルフレートさんが、二百九十歳。そんな馬鹿な…………どう見たって、二十代後半が上限だ。
「ク…………クリスって何歳なの?」
「それは、聞かない方が良いんじゃない?君より年上だよ」
「血液型は?」
「血は流れていないよ。音楽を内包する人間とは、作りが違うから」
「え?えぇっ!?」
「教えたでしょう?魔力体だって」
「だって、だって血筋がなんのって話し、したよね!?」
「…………血の残し方について、聞きたいの?」
近すぎる位置で言われたから、吐息が耳朶を掠めた。身体に力が入る。少年には聞けなかった内容だ。ずっと抱きしめられていたままの身体。放そうと押しても、びくともしない。今のクリスからも、あのクリスからも、そんな話を聞く勇気は到底無かった。
「クリス…………」
「ねぇ教えてよ紬喜。成長は喜ぶべき事なんでしょう?ならば何故、成体の僕をそんなに怖がるの?」
「ま、待つって、言ったよね!?」
「慣らすのは待ってあげるよ。でも努力はしたいから」
首の血管を辿るように、クリスの唇が降りていく。なのに震えは下から上がってきて、緊張から呼吸が乱れた。努力するのは私の筈だ。絶対にこれ、わざとやってる!
「良いでしょ、紬喜?」
全然良くない…………!!
頭の中はぐちゃぐちゃだ。天使の少年は、実は、悪魔だったのかもしれない。震える指先は、彼を押し返すどころか縋りついていて。なのに突き放したい、とも思う。けれど力では敵わない。
「今日は駄目!」
「今日、は?」
墓穴だった!!穴を掘っている間に、色々終わる。相手はクリスなんだ。煮ても焼いてもクリス。口だって勝てないかもしれない。
相手が悪すぎる。
「…………クリスぅ」
「そんな声出さないで」
腕が緩んで、身体が離れた。ほっとしたのに、とても切ないから泣きたくなる。どちらなのかと自問するなら、どっちも嫌だと答えるしかない。
「おやすみ紬喜。今日はもう、帰ってあげるよ」
「…………クリス」
やっと見えた空色の瞳が、困ったように歪んだ。
「紬喜、僕は君が…………好きだよ」
「…………うん」
白いシャツを掴んだままの手に、クリスの指が絡む。指先から滑って股に食い込むそれは、細いと思ったのに、自分より太くて大きい。放してしまったら、彼はここから帰ってしまう。
「クリス、私の転化は、まだ出来ないの?」
「何時でも出来るよ」
「えっ!?」
取り上げられた右手。その指輪に、クリスは戸惑いも無く口付けた。見据える瞳。澄んだ空色の筈なのに、焼け付く黄昏のように危うく見える。
揺らめく熱が、ままごとみたいな子どもの好意ではないと示した。彼を選んだのに、どっちつかずなのは私だ。
「じゃぁ、明日、転化できる?」




