7-9
その夜の事だった。
何時もより遅い時間に、それでもクリスは約束通り来てくれた。ただ、扉を開いたアルフレートの後ろから現れた姿に、驚きで言葉を無くす。
「遅い時間に、ごめん」
普段より低い声で、気まずそうに彼は言う。どうにか気を持ち直し、紬喜は恐る恐る名前を呼んだ。
「クリス、だよね?」
「ごめんね。本当は、少しずつ慣れて貰うつもりだったんだけれど…………アルフレートに怒られて」
クリスの背が伸びた。私と然程変わらない身長。頬の丸みが消えて子どもらしさが薄らいだ顔は、困ったように眉が下がっている分、幼さが残って見えた。
「人のように、緩やかに変化する事は出来ないんだ」
彫りの深くなった顔で、クリスは弱った笑みを浮かべている。その少し首を傾げるところが、とても彼らしい仕草だった。
「びっくり…………した」
しかし、他に感想が出てこない。
「ごめんね、怖い事は無いと言ったのに」
「こ、怖くは無いよ…………凄く、驚いた、けれど」
「本当に?」
「…………う、うん。クリス、背、伸びたね」
もう少年というより、同い年の男子だ。淡い金の髪。涼やかさの増した目元、その瞳の色は変わらない。それなのに、感動とも違う鳥肌が立った。不思議と違和感は無くて、ちゃんとクリスだと認識できる、けれど。
けれど…………彼は、婚約者なのだ。
子どもからは想像出来なかったそれが、背の伸びた彼からは生々しく感じる。心がゆらりと揺れた。訳の分からない焦燥。背筋の震えは、やっぱり恐怖なのだろうか。成長を喜べば良いのか、何かを誉めれば良いのか、もはや、どうしたら良いのか分からない。
あまりに、突然だったから。
「紬喜、君に触れても良い?」
低くなってしまった声で、クリスは尋ねた。扉の前から一歩も動かないのは、彼も戸惑っているからかもしれない。紬喜はそこに、少し安堵した。寝間着の裾を踏まないように歩いて、慎重に近づいてみると、クリスは少し肩の力を抜いたようだった。
目線は、彼の方が少し高い。ゆったりとした白いシャツに、丈の長いベスト。細身のスラックスに包まれた足先で、見覚えのある灰色の靴先が見えた。
「その靴…………」
アストレブンで履いていた物だと思う。足は成長しなかったのだろうか?
「これは、魔法布といってね」
クリスは首後ろから、水色のリボンを引き抜いた。しゅるっと衣擦れの音を立てて、淡い色の髪が広がる。髪が長いなんて、女の子みたいだと…………クリスを初めて見た時思った。けれど今は、到底そんな風には思えない。自分が髪をおろした姿との違いを、まざまざと見せ付けられるようだった。
柔らかな髪と対比する、筋のある首。張りのある肩。
子どもじゃなくて、もう、大人に近いんだ。
「紬喜?」
呆然としていると、クリスは目の前で水色のリボンを振ってみせた。
「魔法布は、魔力を流すことで様々な形状に変化するんだよ。見てみたいだろう?」
「う、うん…………」
逃げ腰になった紬喜に疑問を持ちながら、クリスはリボンに魔力を流す。それはたちまち大きく膨らむように伸び、灰色の布となる。それを広げ、ふわりと紬喜を包み込んだ。
「いくら婚約していても…………寝間着一枚で出て来てはいけないよ?」
「うっ…………」
「やっぱり君には、此方の常識が身に付くよう、女官を付けるべきかな?」
クリスはクリスだった。そのお小言に、紬喜はがっくりと肩を落とす。何を身構えていたのだろう。思わず苦笑して、高さの近い顔から目を反らす。
「女官はね、なんか必要かもしれないって…………実はちょっと思ってるよ」
「そうなの?」
「気の合う人なら、部屋に閉じ籠っていても話し相手になってくれたり、する、かな?」
「部屋に閉じ籠る?」
首を傾げたクリスに、もう言っちゃえ、と紬喜は手を握りしめた。
「…………実はね、凄く苦手な人が居るんだ」
身体にはまだ、グッと抱き締められた感覚が残っているようだった。あの人が怖いのに、嫌いじゃない。そこが更に恐かった。
「この宮殿によく来る、王族の人なんだけど…………」
「あぁ…………」
クリスは何とも言えない声を出した。
「そんなに苦手なの?」
だから、素直に頷いた。
「じゃあ、今夜はその話を聞かせて?」
「え?」
「苦手なんでしょう?」
そうだけど…………紬喜はとたんに言葉に詰まる。来ないようにして欲しかっただけなのだ。苦手な理由をクリスに話す?婚約しているクリスに話せる?急速に形を持っていく気持ちに、紬喜は慌てて首を振った。
「ね、ねぇ、クリス。私が言うのもどうかと思うけど、婚約者の前で、他の男の人の話をするのって良いの?」
「…………ふふふ、可愛いことを言うね」
嬉しそうに微笑んだ後、クリスはくしゃりと紬喜の頭を撫でた。
「正直言えば、聞きたくないな。他の男の話なんて」
その指先は、頬を撫でて離れていく。優しげに微笑んだ彼は、一変して、にっこりと楽しそうな満面の笑みを浮かべた。
「でもね、君の話を聞くのは、僕の楽しみなんだ」
君の口を割るのは、と言わなかった所がせめてもの配慮だ。洗いざらい言わせる気でいる彼に、紬喜は妙な冷や汗をかく。
「でもクリス、今日はもう遅いから」
「眠たいの?」
全く眠くなかった。紬喜は誤魔化すことが出来ず、しかしどうにかして追及の手から逃れようと考える。
「クリス、早く寝ないと大きくなれないよ」
「僕が成長しないと困る?」
むしろ、これ以上成長したら困る。
「…………男は、見た目より中身だよ」
だから急いで大人にならないで。
「良い言葉だね。身体が仮初の僕らには、もってこいだ」
「クリス、もう寝た方が良いよ」
子どもは速やかに寝るべきだ。
「じゃぁ、一緒に寝室へ行く?」
「えっ!?」
「僕はまだ、紬喜の話が聞きたいな。この部屋で」
此処か寝室の二択にしようとするクリスに、紬喜は頬を膨らませた。
「…………意地悪。言い難い事を言わせようとしないの!」
「言い難いの?何故?」
「な、なぜって…………」
言える筈がない。あの人が気になるから苦手だなんて。他でもないクリスに言ってしまったら、自分を信じられなくなる。可愛くて、大切で、幸せにしたい彼が、いつか別の人を選ぶまで。
私の一番はクリスだ。
それが辛いからって、他を見ようとした?そんなつもりは無いけれど。あの人は多分、駄目だ。紬喜は首を横に振った。
「じゃぁ、君の苦手な人はどんな人なの?それが分からないと、僕も困るな」
「…………簡易冠をした王族の人だよ。クリスの兄弟でも従兄でも無いって」
「容姿は?」
「…………金髪に青い目」
思い出したくない紬喜は、投げやりに答えた。
「ねぇ紬喜。ヴァスカディアの王族は、皆その容姿だよ。女神の恩恵を受ける光の髪と、氷の瞳」
「氷の瞳?」
紬喜は思わず、クリスの瞳をまじまじと見詰めた。相対的に小さくなったとはいえ、睫毛の影が落ちて暗いとはいえ!そんな冷たい色じゃない。誰だ、氷だなんて例えたのは。だからその瞳を見詰めて、はっきりと言った。
「クリスの目の色は、空の色だよ。青い晴れた空の色。私の故郷では、秋の空が一番高くて綺麗だったんだよ」
高くて手の届かない、天上の青。まるでクリス本人みたいな色なんだ。
「ありがとう。僕の色は薄いから、少し気にしていたんだ」
「贅沢者め」
「酷いなぁ」
「クリスは――――」
容姿端麗で――――言おうとして、紬喜は息を止めた。
『人のように、緩やかに変化する事は出来ないんだ』
クリスは変化と言った。成長、じゃない。
『見た目だけね?僕は、ラルスより年上だよ』
何故、あの人の事を言わせようとしている?何故、アルフレートさんが怒ったの?
『少しずつ慣れて貰うつもりだったんだけれど』
何に?
「ク、クリス…………!」
嫌な予感がした。警鐘が聞こえる。その答えを出してはいけないと。
「どうしたの?」
その笑顔が、幼さから遠のいた分だけ艶やかに見えた――――あの青年と似ている。
きっと自分の顔は蒼白だろう。冷たい汗をかいている。だってクリスに、分からない筈が無いんだ。この結界に守られた宮殿に入った王族の名を。
「クリス、子どもの姿に戻れるんだよね?」
「そうだね」
「じゃぁ大人の姿にも、なれるんだ」
空色の瞳が弧を描く。薄く形の良い唇が、ばれてしまったかな、と――――
「いやゃぁぁぁっ!!」
絶叫だった。肩から滑り落ちた布をそのままに、寝巻を捲し上げて走る。開いたままの次間を抜け、内鍵のかかる寝室の扉に手を掛けた。けれど扉は開かない。三本目の手が押さえているからだ。




