7-3
移転陣の中は、熱くも寒くもなく、揺れも無いまま無音の時間だけが過ぎた。
「紬喜、大丈夫?」
聞こえたクリスの声。ぱさりと被った布が視界から消えた。座り込んだまま、着いたのかと聞こうとして、さんさんと降り注ぐ陽光に目を奪われる。覗き込むクリスの背後は高い天井で、教会の様な壁面絵画が見えた。光の中、眩しい筈なのに意識がぼんやりと水中のように揺らぐ。
「少し影響が出たね」
「どれ?」
淡い金色髭のお爺さんが、クリスの背後からやって来た。トウモロコシみたいな髭だと、失礼な事を一瞬思う。ゆるく辺りを見回すと、ドレス姿の女性やラフな格好の青年達、後ろではアルフレートとラルスが子ども姿のまま跪いているのが見えた。
「やっと会えましたな、紬喜さん」
見た目より若い声で、トウモロコシのお爺さんが言う。紬喜の背を支えるように背後に回ったクリスに替わり、お爺さんは目の前で膝を折った。広がる衣装もそのままに、大きな手で紬喜の両手を掬い上げ、握手のように軽く振る。
「ようこそヴァスカディアへ。息子が迷惑をかけて、すまなかったね…………貴女から奪ってしまったものは、私達も力の限り取り戻す努力をするよ」
何を言われたのか、霞が掛った意識では理解出来なかった。
「手始めに、私が紬喜さんの保護者になろう。是非、お父様と呼んでくれたまえ」
「父上っ!」
クリスが上げた声に、良いじゃありませんの、と笑いを含んだ声が被さる。
「初めましてツムギさん。私はマルグリエット。クリスの母ですわ」
淡い水色のドレスをふわりと広げ、上品な女性が隣に座り込む。興味深々といった水色の瞳を輝かせるご婦人は、確かにクリスと似ていた。
「私はアリーセナ。第二王妃ですの。仲良くしましょう?」
「妹が出来て嬉しいわ。第一王女フレーデリーケと言います。フレディって呼んで下さいな」
あっという間にドレスの三人組が群がり、状況の分からない紬喜は背後のクリスに目線を向ける。
「僕の家族だよ…………ごめんね紬喜、全然、気にしなくて良いから、先に休もう?」
「クリスの、家族?」
ぐるぐる目が回る。ふらつく身体を、クリスの制止を振り切った誰かが抱き上げた。足がぶらんと宙に浮いて、気持ちの悪さに目を閉じる。
「寄ってたかって可哀そうだろう?」
「母さん達、準成人の子どもに無理を強いてはいけないよ」
もう、目を開けなくても良いかな。聞こえた二人の男性の声に、紬喜は視覚情報を放棄した。
「エールったら狡いわ、触るなんて!」
「フレディ、言い方…………」
「だって私も触りたいわ!半分人なのでしょう!?」
クリスの家族って王族だよね。軽いよ、ノリが軽すぎる。そして、それでも気を失えない私って、図太過ぎる!
「エール兄上、紬喜は翡翠宮に」
「隔離結界の準備が出来ているよ。クリスは早く、その姿を何とかしておいで」
「紬喜…………」
クリスが申し訳なさそうな声で呼ぶので、重い瞼を開いてその姿を探す。横抱きにされた私の下の方で、見上げる水色の視線を見つけた。
大丈夫だよ、と言おうとして口から空気だけが抜ける。本格的に調子がおかしい。移転陣は酔うかもしれないと言われた。酔ったのだろうか。クリスのくれた右手の指輪が、痛いくらいに熱い。
「話は後だ。先に結界に入れないと持たないぞ」
「頼みます、兄上」
クリスが何か話している。けれど、それがよく聞こえない。シュワシュワと、炭酸の抜ける様な音がして、ふとそちらに意識を向けた瞬間、視界が真っ白に染まった。
「あれ?」
そこは、水中のような重力のない世界――――包み込む冷たさに安堵して、思わず手足を見る。今回は泡になる事も無く、懐かしい物が飛んでくる来る事も無い。
「ここ、何処なんだろう…………」
誰も居ない。でも、なんだか落ち着く。ふと差した影。見上げると、その世界が丸い事を示すように、銀色の光が徐々に大きな輪になって落ちて来た。
遂に意識を失った紬喜に、隣を小走りで追従していたクリスが焦った声を出す。彼女を抱えるエールも即座に足を止め、濃緑の絨毯に膝を付いた。長座するように紬喜を下し、左手から銀の指輪を抜く。
「クリス、これを」
差し出された体制限の指輪。すぐさま紬喜の右手中指にはめ、魔力を込める。ぐるりと紫の文字が浮かび上がり、きゅっと小さくなった指輪が、透け始めた紬喜の姿をどうにか留めた。
「ありがとうございます、兄上がお持ちで良かった」
「念の為に持っていたんだ…………でも、良かったのかい?」
クリスは、確かに脈打つ少女の手首を握った。
「彼女は、まだ人です」
人である感覚、人の姿である事、それを成り行きで奪いたく無いと思った。それが例え、奪う事しか出来ない自分の罪を、先送りする事であっても。
「僕には眩し過ぎる。なのに、欲しいと思ってしまった」
「彼女だって、クリスを選んだのだろう?何を悲観しているんだい?」
「婚約を急がせたのは、兄上ですか?」
「…………第一王妃だよ。じゃなきゃクリス。君は今頃、釣書の海で溺れているよ」
まさかと目を見開くクリスに、彼は苦い笑みを返した。
「この件、最大の功労者は君だ。英雄に嫁ぎたい女性が、どれほど居ると思う?」
「…………失念、していました」
「だと思った」
呆れた笑みを浮かべたエールは、再び紬喜を抱き上げた。波打つ金の髪が、歩調に合わせて揺れる。
「アルフレートをせっついたのは私だけどね。この子の打診があった時に、家族会議で君が娶るだろうって賭けたんだ」
「賭けたって…………」
「約百五十年。君から女性の話を聞けなかった母上が、どれほど喜んだか分かるかい?」
クリスは閉口した。流石に母親を罵倒する事は出来なかったのだ。




