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「紬喜はまだ、やらなくちゃいけない事があるよ」
「…………え?」
「君が召喚されたのは偶然だったかもしれない。でも、聖女が呼ばれる状況を作ったのは僕なんだ」
月明りに青白く照らされたクリスは、ふわりと微笑んだ。
「紬喜をこんな事に巻き込んだ、僕を憎めばいい…………」
天使みたいに綺麗で、完璧な笑み。そうか、と唐突に思う。クリスは年相応の笑い方をしない。それを忘れてしまったかように、何時も作り物めいた微笑みを浮かべる。その顔も嫌いじゃないけれど、くすぐり合った時に見た屈託の無い笑顔が好きだ。子どもらしくて、明るくて。
「私は、そんな事しないよ」
クリスが居て良かったと思う。この世界で良い思い出と言ったら、彼らと過ごした王都の日々だ。それに、きっかけがたとえクリスでも、彼は永遠にこの世界で召喚が行われないようにしてくれた。
その力を、知恵を貸してくれた。クリス達の世界から最初に召喚されてしまった誰かは、私みたいに助けては貰えなかった。だから私はクリス達の努力で、本当に辛い目には合わなかったのだ。
「…………僕はね、故意にこの世界の魔獣を増やした。祖国に負担のかからない方法――――『鏡の魔導書』を使って」
クリスは淡々と語りだした。人間たちは、手に負えない程増えた魔獣達を前に、僕らの世界から召喚を辞めざるを得ない。でもこれだと、魔獣が減れば意味を成さなくなる。
アストレブンは、召喚魔法の発祥の地。
魔獣に対抗しうる、逆の性質の魔力を持つ異界から、魔獣を連れてくればいい。そう唆せば、彼らは直ぐにその気になった。獣同士で共倒れになるなんて、人間には都合がいい。だから方向性さえ与えてやれば、彼らは勝手に頑張ってくれたんだよ。
そう言ったクリスは、変わらぬ笑顔で紬喜を見ていた。
「あの、それの、どこら辺を怒れば良いのか、分からないよ。私はね、自分がした事を悔やんでいない。どんな経緯でも関係ないんだよ。私は結果として、この世界の秩序を壊したけれど…………自分の世界を救う事が出来た」
そう、私は自らの意志で選択した。
だから今更、恨んだり怒ったりするのは間違っている。クリスには良い思い出で居て欲しいし、憎むなんて到底出来なかった。
「許すっていうの…………僕がこんな事を始めなければ、君は」
「私は、この世界に来る事が決まっていたの。召喚素材――――あれに、母さんが居たんだよ」
クリスは目を見開いた。もしかしたら、彼は知っていたのかもしれない。異界と異界を繋ぐ為に、どんな現象が起こるのかを。
早くに亡くした母は、病気で死んだわけじゃない。事故死だ。突然、身体が燃え上がって、そのまま燃え尽きてしまったのだ。私の前で、痛いとも言わず、驚いた様子のまま灰にすらならなかった。それから、時々無くなる、家の物。母の遺品、家族で使っていた道具。雑貨。シュシュ。ピアスの片方。その全てが、私に繋がっていた。
様々な異界からの召喚を研究していた彼らに、遅かれ早かれ、私は呼ばれていたはずだ。
「私はむしろ、クリスに感謝してるくらいだよ」
この地で一人ぼっちだった母の傍に、来れたのだから。そんな私に、ちゃんと手を差し伸べてくれた。路頭に迷わなかった。優しくしてくれた。それで十分だ。
「クリスは、私に対して責任なんて感じなくっていいんだよ」
笑いたいのに、涙が止まらない。クリスだって困った筈だ。召喚されたのが人間で。物しか召喚出来ていなかった世界から、人が来るなんて思わなかっただろう。なのに――――
「紬喜、それが君の答えなの?」
クリスは押し殺したような声で尋ねた。
紬喜が人を憎むかと言われれば、あまりピンと来なかった。けれどあんな目にあって、それでも憎めないというのなら…………そんな気がしていた甘い僕を、君は許すべきじゃない。彼女を育てた人は、人格者なのだろう。本当に中身まで光のように白く、自分の闇をまざまざと照らされるような気さえする。何処まで人が良いのか、つけ入る側を不安にさせるなんて流石としか言えない。
「私はクリスを恨んだりしない」
もう答えは変わらない。
「だから後は、この責任を取るだけなの」
「責任を取る?」
クリスは首を傾げた。この話の流れで責任となれば、負うのは自分であって紬喜では無い。
「この命で――――」
「馬鹿な…………紬喜は僕に、いい様に利用されたんだ。君が取るべき責任なんて無いし、これは復讐だよ。この世界に対する報復に、責任などある訳ないだろう」
「でもっ」
紬喜が言い募ろうとするのを見て、クリスは自分の心が酷く冷えていくのを感じた。なんて馬鹿げた理由で死を望んだのだろうか。命で責任を取る?簡単に死ねる人間ならではの安直な発想だ。拷問の末に罪人が望むほど、死とは救いでしかない。
君が死にたくないと思っている事など、知っているんだよ。
「…………駄目だよ、紬喜」
一段と陰ったクリスの表情に、胸が痛んだ。彼がどんなに言っても、私には怨む事は出来ない。王城から逃げて王都で暮らし、無くした日常を取り戻せた幸福。何時だってクリスは、私を気にかけていてくれた。それにこの指輪。
私に憎まれる未来を覚悟して、彼は渡してきた事になる。その思いの強さだけで、十分だ。もう、すべて十分だった。
「紬喜はもう、この世界に居るべきじゃない。僕だって分かっているよ…………見て」
クリスは、窓辺にある花瓶の花を一本手に取った。その香りを楽しむようにそっと顔を近づける。花とクリスは絵になった。けれど少年に唇を寄せられた花は、サラリと一瞬で崩壊する。枯れるというより、分解したように形を無くしたようだった。
「僕らの魔力は本来、この世界のものに含有していない異質なもの。だからそれを与えられると、物質はその姿を維持出来なくなる――――紬喜、君もだ」
ひたと見据えられた紬喜は、金縛りにあったかのように身を固くする。もしかしてクリスは、あの花のように…………
私も一瞬で殺せるの?
湧き上がったのは痛みも無く死ねる喜びではなく、例え様もない恐怖だった。見た事もない酷薄な笑みを浮かべたクリスに、全身の血が下がる音が聞こえる。青空の瞳は氷みたいに冷え込んで、一歩、また一歩と歩み寄って来る姿に、震えた足が床に縫い止められたように動かない。
こんな筈じゃ…………
こんなはずじゃないの。
――――私は死んで終わらせる。
いやだ。
ずっと目を背け続けていた心の蓋が開く。
やだ、死にたくない!
「試してあげるよ」
怯えた紬喜にそっと腕を伸ばしたクリスは、寄り添うように抱きしめた。身長差から、耳のすぐ近くに脈打つ心臓がある。柔らかくて暖かな少女の身体は、震えていた。
自死の恐怖は、健全な精神で居る限り越えられはしない――――
気付いたのだろう。震えながら弛緩していく紬喜は、クリスに抱えられるようにして座り込む。その顔を上げさせると、眦から涙が滑り落ちた。
「…………見ていて紬喜。君はもう、僕らに近い存在だ」
前髪を払って額に口付ける――――微塵も魔力を加えていなくても、紬喜には分かった筈だ。死ぬ事など出来ないと。
光属性を持つ彼女は、召喚によって歪んだ部分を素材によって埋め、命を繋いだ。その素材と、召喚魔法に含まれた闇の魔力――――魔道具や魔導書に込められた力は、紬喜が王城で行った強力な浄化魔法で全て消え去っていた。彼女は欠けた部分を自らの属性で埋め治し、晴れて完全な光属性になったのだ。闇の魔力はもう、毒にしかならない。
「人間辞めなよ。人の身体が邪魔なんだろう?君は、この世界の生き物じゃ無い。何処に行こうと自由なんだ」
私はこの世界の生き物じゃない。そう、最初からそうだった――――
「くりす…………」
「一緒にヴァスカディアに来てよ。此処に残る必要も、死ぬ必要も無い。僕を憎めないというなら、来て。そこで君は幸せになるんだ」
視界が涙で霞む。見上げるクリスの顔が歪んで揺れた。再三言われてきた人間辞めろが、現実味を持つ。私が姿を変えたら、それは私なのだろうか。
例え姿が変わっても、中身が同じならば。
私なのだろうか。
「行っても、いいの?」
「一緒に行こう?」
「…………っ」
そのままクリスにしがみ付いて、声を上げて泣いた。分かっていた、死にたくなかった。でも沢山、魔獣達を死なせてきた。クリス達が許しても、私はそれが後ろ暗かった。この世界の人達も、関係の無かった人まで巻き込んで、その責任を取るなら、死ぬしか無いと何処かで思って。
でも恐かった。私が死んだところで、何も変わりはしないのだから。そこまで分かっていた。でも、死を望む間は誰からも憎まれたり恨まれたりしないと思えた。
誰にも言える筈がない。
自殺なんて人に宣言してするものじゃないし。止めて欲しくて、言えなかったのに、気が付いていてくれた――――細いクリスを抱きしめて、壊してしまうのでは無いかと思って。それでも、腕の力は抜けなかった。
「君がすべき事はもう、この世界には無いよ。いいね?」
その言葉に頷いて、一気に上がった熱に意識が暗転する。私が床に倒れなかったのは、クリスがしっかり支えてくれたからだ。掻き抱く腕の苦しさが、どうしようもなく心強かった。




