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聖女のコトワリ  作者: 秀月
聖女と祝福
42/63

6-3

 目が覚めた。見える天井は、すっかり見慣れたクリスの家の自室のもの。飴色の木目と梁、出窓から差し込む白い光。


「いき…………てる」


 最初に安堵。もそもそと布団から出した手は無傷で、何処にも痛みは無かった。傷一つ無い。その手で顔を覆う。溢れる涙の向こうで、真っ白に染まった召喚の間が蘇った。自分の身体を押し上げるように飛んできた色々な物。あれは全部、無くした筈のものだった。


「そう、だったんだ」


 私が呼ばれたのには、理由があった。それが悲しくも嬉しく制御出来ぬまま、あっという間に膨らんでいく。もはやどんな感情なのかも分からなくなり、痛みを覚えるほどだった。寝起きに号泣すると、息の仕方を忘れてしまう。けほけほ噎せて寝返りを打って、そのまま枕にしがみついた。扉の開く音がしたけれど、振り返る気力も湧いてこない。


 聞こえたのは、アルフレートの声だった。その声に余計涙が溢れる。優しく頭を撫でられて、何かを語りかけられた。内容を理解する前に、また何かを言われる。


 え…………?


 のろのろ枕から顔を上げた。その動きを助けるように、彼の腕が枕と顔の隙間を通って脇下まで差し入れられる。驚いて枕にしがみつく前に、身体を掬い上げられた。


「アルフレートさっ!」


 言いかけて、けほけほ噎せる。喉が酷く乾いていた。その間に、枕を背にして座る姿勢をとらされる。私は、焦げ茶色のトップスを着ていた。あの日のままの服装を見下ろして、生きている現実にまた涙が溢れてくる。顔を覆う手をやんわりとほどかれ、少し冷たい手が頬を挟んだ。


 アルフレートが何かを話す。寄せた眉、赤い瞳が泣きそうに歪んでいる。


 私は、彼の言葉が分からなかった。


 もはや、何にショックを受けたら良いのかさえ分からない。顔を包む手に手を重ねる。熱があるみたいに、私の手は熱い。だからか、アルフレートがびっくりしたように手を離してた。それに驚いて見上げると、彼は困ったように微笑みを浮かべて立ち上がった。


「クリスファルト様を呼んで参ります」


 多分、クリスを呼んでくるのだろう。真っ直ぐな白銀の髪が滑る背中を見送って、熱い手で顔を覆った。


 クリスが来る…………


 もう一度、辛い別れを覚悟しなくてはいけないのか。涙は零れるばかりだった。それなのに、生きている事が嬉しい。気持ちに添わない未来が苦しい、とても。なのに、気持ちを整理する間もなくクリスはやって来た。


「紬喜」


 呼ばれた声に顔を上げる。


「…………私」


 言いたい事も、言いたくない事も、沢山あった。何から言えば良いのかすら分からない中で、妙に冷静な自分が呟いた言葉が胸を満たす。けれどそれは、口から出る前に封じられた。クリスの指が上唇を圧迫する。


 彼は淡い金の髪を揺らせて、緩く首を横に振った。


「聞かないよ。僕は守ると言った筈だ」


 強い意思を宿した空色の瞳が、まっすぐに見つめてくる。言われた事は分からないのに、死のうとした事を咎められた気がした。


「紬喜」


 クリスの日本語が、こんなにも正確だと思わなかった。思わず笑うと、クリスも微笑みを浮かべてくれる。腕に掛けたままのタオルを渡され、それに顔を埋めた。良く乾いたお日様の香り。部屋を歩く小さな靴音が、少し離れて戻って来る。


「紬喜」


 名前って、世界共通語なんだなと思った。力無く顔を上げると、クリスは白い本を差し出していた。その表装の仕方に、魔導書だと気付く。


「くりす…………」


 舌が上手く回らない。泣き過ぎて朦朧としているのかもしれなかった。けれど、魔導書はとても重い。彼に持たせたままに出来るわけもなく、渋々両手で受け取った。重い書は、手ごと寝具に沈む。どうしろと言うのか、俯いたままやる気を無くした。


「紬喜…………」


 クリスの声は、どこまでも優しく響いた。高すぎず、低くも無い少年の声。彼の白くて小さな手が、魔導書の表紙を開く。無地の見開きに続き、本文が現れた。


 少し歪な正角暗唱文字。どことなく不揃いで、よく見慣れた私の文字だった。


 魔導書にしてくれたんだ。これが表装された姿を見れるなんて…………嬉しい、と思う。描けなかった未来の始まりが、ここにあるような気がした。


「クリス」


 ありがとうの単語が浮かばない。感動にまた涙が溢れそうなる。もう、何にでも泣ける気がした。天使のように微笑むクリスは、それでも普段と変わらぬ彼だった。自身の唇を指した指で、魔導書を示す。


 魔力を込めろ。


 というジェスチャーに、肩の力が抜けて涙もぽろぽろ頬を滑って落ちた。ひどいよクリス。こんな状態の私に、それを要求するの?泣いてるの見えてるでしょ?本当に、びっくりするほど何時ものペースだ。


 この、お子様め…………


 紬喜の瞳に生気が戻る。クリスは煽るように魔導書を指で弾いた。空色の瞳は、何処までも楽しそうだった。興味深々、じゃないよ馬鹿!この頓珍漢ぶりは、本当に玉に傷だ。もうっ、分かったよ、やればいいんでしょ!


 本の下から抜いた片手を表紙にかざし、僅かな魔力を流す。口付けなくても良いのだ。私は成長した。どうだと見上げると、立ったままのクリスが数歩後ろに下がる。あれっと思った瞬間、手元で魔導書が起動した。白い光を纏って浮かび上がり、パラパラとページがめくれていく。初めて使う魔導書に、どうしたら良いのか分からない。見ているしかないので、書の下敷きにしていた左手を上げる。すると、魔導書は浮かんだままその手の平を追尾してきた。そして、ピタリと動きを止める。


「えっ」


 声と同時に視界が白く焼き付いた。これ、何の魔導書だったんだろう。自分で書いていて、その事さえ知らなかった。頭が痛い。気持ちが悪い。


「紬喜、書を閉じて」


 ハッキリとクリスの言葉が分かった。勢いに任せてバンと閉じると、くらくら回る視界の端でクリスが駆け寄るのが見えた。


 力の抜けた上半身を抱えた時には、紬喜の意識は失われていた。魔導書は正常起動していた。言語の焼き付けは成され、再び言葉には不自由しないだろう。ヴァスカディアの言葉のみだが、アストレブンのものは、もはや不要。


「我が儘か…………」


 その言葉一つで、紬喜が自分を許してしまいそうで怖かった。


 君の幸せは、どんな形をしているのだろうか。クリスは抱える少女を見詰めた。


 家族と『揃って食べる食卓』、好きだと言う異世界の茶に似た『花茶』。兄と『作る菓子』。出来る限り、この家で再現してきた。紬喜は聞かなければ答えない。心の底に隠してしまうのだ。


 最初から、助けて欲しかったのは彼女自身だった。


 なのに、魔獣を助ける為に命まで捨てようとして。生きていることが辛そうには見えない。なのに何故、そうまで死を望んだのか。


「魔力の消えたこの世界で、紬喜が素材になる筈がないんだ」


 なのに何故、君は望んでもいない死を願うのか。

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