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記念すべき脱聖女、一日目の朝だ。
とは言っても、まだ薄暗い早朝である。街は眠りの中にあり、カーテンの無い出窓からは立ち込める霧と薄紫に染まった空が、連なる屋根の向こうに見えるだけだった。
春ならあけぼの。趣のある時間帯は朝活に最適だ。でも残念ながら、紬喜には、ここの季節が分からない。その上、この時間に目が覚めるのは、聖女として朝のお祈りをするため、毎日起こされていた名残である。癖って恐ろしい上に、ちょっと傷付く。
昨日は結局、食事の途中で寝てしまったようだった。
部屋まで運んでくれたのはどちらだろうと、脱がされた上着に赤くなり、ベッド脇に揃えられた靴を見て青くなる。紐で編み上げる膝下丈の革靴は、通気性が心配だ。
それを他人の手によって、脱がされたとか…………
そうだ、お風呂行こう!!
唐突に思い立った紬喜は、水回りは一階だと思い出し、上着を羽織った。一張羅なのに、スカートに寝皺が付いている。早急に生活費を稼ぐ必要がありそうだ。クリスは何も言わないけれど、無職は肩身が狭い。未成年とはいえ自分は年上なのだ。タダで養われる訳にはいかない。バイト経験を生かすなら店員で…………幸い、ここの一階には本屋があった。物置か廃墟というような荒れた店が。
「人を雇えるくらいなら、もっと綺麗だよね」
やはり仕事は、他に探すべきだろう。逃亡中なので目立てない。店員は無理、というか、隠れなきゃいけないのに働けるのだろうか。とりとめもなく考えてていると、ぐぅ、と腹の虫まで騒ぎ出す。どうにもならない事は、仕事以外にもありそうだった。
そっと階段を静かに下りて、二階のダイニング横目に一階を目指す。自由に使ってと言われた水回りは、左手の奥にあった。二つの広いトイレと、大きな浴室だ。
「もしかして、洗面所が無い?」
借りている部屋くらいある広い浴室は、壁の半分から下がタイル張りになっており、奥に同じタイルで出来た大きな浴槽が見えた。明らかに一人で入るサイズではない。しかも、蛇口の類いは何処にも見当たらなかったのだ。
「やばい。水の出し方が分からない」
王城では洗面器に入った湯で顔を洗い、トイレから出ると小さな噴水で手を濯ぐよう言われていた。よく考えたら、自分で水を出した事が無い。
まさかと思い、トイレに踏み込む。
洋式便器に似た椅子と、壁には鏡、銅製と思わてる桶のある台があり、横の棚にはリネン類が積まれている。もしかして、トイレが洗面所を兼ねているのかもしれない。しかしここにも、蛇口は無かった。
異世界の水道事情が非常に気になる。切実な問題が発生した。
ちなみに、蓋をあけてみた便器の底はボットンという言葉がよぎる暗闇が続いており、臭いと共にけっこう引いた。
なにこれ。もしかして、水って凄く貴重なの?
全面降伏を余儀なくされた紬喜は、クリス達が起きるまで部屋に居るしかなくなったのだ。やはり、お祈りでもして暇を潰さねばならないのか…………いや、それは無い。手持無沙汰にしていると、階段を上る音がする。
「おはよう、起きてる?」
小さいなノックの後に、クリスの声がした。
「おはよう、クリス」
意外と早く起きた彼に感謝しながら、扉を開く。少年は淡い金の髪を肩口で纏め、靴下を履いた足元は布靴だ。
「ごめん、起こしちゃった?」
子どもが起きるには早過ぎるし、髪に少し寝癖が残っている。紬喜はとっさに謝まった。
「ううん、大丈夫だよ。僕、早起きなんだ…………それより」
彼は上目遣いで、とろんと微笑んだ。寝ぼけ目の幸せそうな笑顔に釣られ、紬喜も表情が弛む。癒しの天使。クリスは男の子だけど、本当に可愛いのだ。
「紬喜、朝お風呂に入る? 着替えも用意できたから」
「…………うん?」
着替え…………用意できたって、なに?
笑顔のまま固まって、クリスを見つめる。彼は白い手で口元を隠してから、目を泳がせた。
「僕が全部、選んだんじゃないからね?」
「…………うん、その、ありがとう?」
ひとまず、着替えの問題が解決した。心に負ったダメージはかなり深いが…………推定十歳に服の世話をさせた大学生って。
「それと…………」
まだあるの!?
紬喜は、赤いか青いか分からない顔を強張らせた。少年は更に迷った後に、おずおずと見上げてくる。困った顔に上目遣い。これだけでNOという選択肢が無いのではないか、と身構える。
「お風呂、一人で大丈夫?」
「大丈夫!!」
即座に言った。いやまて少年。照れながら言うと、変な意味に聞こえてしまう。まさか、一緒に入るって選択肢がその後に? いくら子どもでも、OKの二文字は絶対に無い。
「あっ…………」
しかし重要な事を思い出した。水が出せないのだ、全然、大丈夫ではない。
「背中くらいなら…………!」
「違う、違うから! 水が出せないだけだから~っ!!」
「朝っぱらから、何騒いでんだよ…………」
紬喜たちの不毛な戦いは、ラルスの一言で早々に終わりを告げた。こういう話に率先して混ざって来そうな印象を受ける彼は、欠伸をかみ殺して階段下から見上げてきた。その金色の瞳に呆れを滲ませて。
「真に受けるな」
一言いうと、くるりと背を向けて階段を降りて行く。なんとなく気まずい紬喜は、ラルスに聞くと言いながら階段を駆け下りた。
逃げる背中に、クリスの笑い声を聞きながら。