5-12
試着した真新しい衣装は、ぴったり身体に沿うトレンカとハイネックのトップス。そこにギャザーを寄せた絞襟のふわりとしたブラウスを重ねる。茶色とクリーム色で可愛いフード付きのローブは腰までだ。クリスの国の服は、生地に伸縮性があり、薄くて動きやすい物だった。ボトムは膝下丈のキュロット。ありがたい。
「…………」
今日書き終わったばかりの魔導書の原稿。綺麗に片付けた部屋を、寝間着に着替えて意味もなく歩き回る。敏感になっていた耳が、階段を上る音を拾った。
「クリス」
ノックの前に扉を開くと、流石に驚いたらしい。
「確認してから開けようよ…………」
「夜に来るのは、クリスだけだよ?」
「…………酷い言われようだね」
苦笑を浮かべたクリスに、紬喜も苦笑を浮かべて言った。
「何か用事だった?それとも、早く寝なさいって言いに来た?」
「どっちもだよ」
「…………そうですか」
「入っても?」
紬喜はどうぞ、とばかりに扉を開く。クリスはこんな日まで、お小言を言いに来たのだろうか。それが何処か切なくて、扉を閉めたまま動けなくなる。明日の夜が運命の日。遂に王城へ潜入するのだ。この部屋で過ごすのは、今夜が最後。夕飯をみんなで食べたのも、全部が最後の一度に変わる。
「紬喜、来て」
クリスが手を引く。考えちゃ駄目だ。紬喜は繋がれた手に力を込めた。自分より小さな手が、しっかりと握り返す。
「紬喜は何が好き?」
「えっ?」
グッと手を引かれ、よろけながらベッドに座らされる。真剣な水色の視線が、紬喜を見下ろした。
「紬喜は、誰か好き?」
笑顔の無い表情は、幼いながらに整っている分、冷たい迫力があった。見上げながら紬喜は、本当に十歳じゃないのかもしれない、と不安になる。確かに彼は早熟で、妙な老成さのある少年ではあるが。
「クリス…………あの」
言いかけた上唇を、クリスの指が押した。目を見開く紬喜の頬を掠め、指先は輪郭をなぞって顎先に移動した。違和感が膨れ上がる。
「答えは聞かない」
頬に口付けが落ちた。
「クリスっ」
押し返そうと上げた右手は空中で捕らわれ、近くて焦点の合わない位置で水色の瞳が開く。
「頬への口付けは、祝福の意味があるんだよ」
全てを見透かすような視線から逃れる為に、紬喜はぎゅっと目を閉じた。クリスの事は嫌いじゃない。むしろ好き。それが恋愛感情かと言われれば分からない。何しろ歳が離れているからだ。彼が二十歳になる頃、私は今より歳を…………
何考えているんだろう。
その頃私は、生きていない。
紬喜は目を開くと、仕返しとばかりに少年の頬に口付けた。柔らかくてまろい素肌。おませなクリスにこうするのは、二度目だった。これが祝福と言うのなら、私は何度でも贈るだろう。全てが終わった後で、幸せに生きて欲しいから。
でも私は、貰うわけにはいかない。
「クリスには、まだ早いよ」
「紬喜にも早いよ」
くすくす笑う少年に、やっとからかわれたと気付く。渋い顔で溜息を付けば、クリスはそのまま紬喜の首に頭を寄せて抱き付いた。
「クリス、どうしたの?」
普段の彼ならこんな事はしない。僕は男だよって叱るくらいだ。まるで甘えるような仕草に、胸がざわめく。
「クリス…………?」
行き場の無い腕を細い背に回し、紬喜は揺れる心に蓋をした。私は進むしかない。呪文のように唱えた言葉は、決して素敵な未来じゃなくて。それでも、自分で選んだ未来。
唯一描けた未来だった。
人の温もりに溶かされ、本音が溢れそうになる。緩く回していた腕に力が入って、それに気付いて震えた。
「紬喜は…………僕たちの事、怖い?」
「まさか」
苦笑混じりに答え、柔らかい髪をよしよしと撫でる。クリスの様子がおかしい。こんな事を今更聞くなんて、らしくなかった。
「どうしたの。なんか変だよ?」
「うん。僕は今、ちょっと変なんだ」
益々おかしい。紬喜は困惑した。クリスはそれっきり何も言わないし、自分は抱き付かれていて身動きが取れない。体格差的には、引き剥がせる。でも紬喜は、その状況を崩そうとはしなかった。
「クリス?」
またからかっているのか、それとも違うのか。到底、判断出来るはずもない。この状況に安堵している私には…………重責を負う彼を支える事さえ出来ない気がする。
君はいずれ、僕を嫌うだろうからね。
クリスの言葉が蘇った。あれから、二人だけになった事がない。だから、ハッキリと否定してあげられなかったのだ。もう今しか、言う機会は無い。
「クリス…………私はクリスの事、嫌いにならないよ」
大切な思い出。楽しかった王都の暮らし。優しいクリス。
「絶対に、嫌いにならない」
クリスが身を離した。澄んだ空色の奥で、強い感情が揺れる。けれどそれは、瞬き一つで天使の笑みに塗り潰された。
「紬喜…………おやすみ」
部屋から出ていこうとする背に、思わず手を伸ばす。それは、とても卑怯な事だと分かっていた。振り向いたクリスを抱き締めて、紬喜は唇を噛む。こんな事をしてはいけない。死にゆく私を、彼が忘れられなくなるような事は、してはいけない。
「おやすみなさい」
どうにか、それだけを言って解放した。すがり付いて泣きたい相手がクリスだった事に、改めて自分が重症だと自覚する。
飛ぶ鳥跡を濁さず。
綺麗なままで居て欲しいから、言わなかった。言えなかった。別れは突然の方が良い。家族とも、クリス達とも、その方が幸せな面もある。
思い悩む苦しみが、それ以前に無いからだ。
――――浅い眠りは悪夢を招く。寝苦しくなったのは、何時からだろう。それでも疲れた身体は休息を求め、長い夜に沈み込む。
夢の中では、素直に助けを求めた。
手を伸ばして、叫ぶ。声が枯れて、痛みと共に。それでも叫ぶ。助けて、と覚めない悪夢の中で踠くのだ。真っ暗な部屋で、伸ばされた手を握る。クリスはうわごとに浮かぶ自身の名を、毎夜聞いていた。
アルフレートでも、ラルスでもなく。
よりにもよって…………懐柔したかったから、確かに好かれるようにはしていた。自分が懐に入れてしまったのは、呪いか罰か、報われない苦しみでも構わない。けれど、こんなに好かれてしまう予定は無かったのだ。全てが終わった後で、紬喜を生に留めるための杭として差し出すもの。それは憎しみという強い感情。
「紬喜…………」
君が憎む相手は僕で、そこから君を救う相手は別にいる。篭絡出来ていれば、死のうとはしなかっただろう。恋する余裕さえ無かった彼女は、さして懐柔もされなかった。
誰にも染まらぬまま、宙に浮いたまま。
なのに今になって。
僕に好意を寄せすぎると、上手く憎めなくなる。君をこんな目に合わせた挙げ句、利用さえしている最低な男を選んではいけない。
「くりす…………たす…………け」
呼ばないで紬喜。
苦く否定しながら、手を握り返す。
結局彼女は、自分で自分を追い詰めてしまった。計画を前倒ししたのは、その精神状態を危ぶんだからた。
相変わらず思った事を話さないし、僕らに何も聞かない。
「それも、今夜で終わりだよ」
君が壊れる前に、この世界を壊してしまおう。




