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「夕食になったら呼ぶから、それまで部屋に居てくれる?」
そう言い残して、クリスは階段を降りて行った。あっけなさすぎる対応に、彼の危うさを垣間見る。猫に連れられて来た、近所の子どもでは無いのだ。そもそも、よく知らない人間をさして疑いもせず泊めるのか。
はっきり言って、不審者な私。
どんなに頭を捻っても、まず有り得ない現状に、紬喜は早々と考える事を放棄した。
「お、お部屋を選びますか」
廊下を挟み向かい合う部屋は、ホテルのように同じ間取りになっていた。ただ左側の部屋からは、王城の白い外壁と数多の塔が見える。あそこで暮らしていたと思うと、妙に感慨深くなる。足はそちらの部屋へと向いた。
飾り彫りされた家具。壁紙は淡い二本縞で、天井は飴色の木目や骨組みが見えていた。納戸のような小部屋と、衝立の奥にベッド、書き物机と椅子、鏡が一つ壁に掛けられている。八畳ほどの広さがあり、居候が借りるには立派過ぎる部屋だった。
水色のベッドカバーに腰を下ろせば、今更、足が震えだす。
早く帰りたい…………
何度も何度も心の中で呟いて、慰めて。でももう、帰れないと分かってしまった。何時か帰れるという希望は、幻想になってしまったのだ。
『あの娘は、最高の呼び水となるだろう…………』
聞いてしまった男の声が、頭に響く。
優しかったか、と言われれば、分からない。でも、よく紬喜に会いに来てくれた男性であり、最初に言葉を交わした人物でもあった。ふわふわの白い髪と長い髭。お爺さんと言うよりは若く見え、穏やかな物腰と口調は医者のような人だ。黒い三角の帽子の衣装に、こっそりブラックサンタと呼んでいたのが悪いのか。
『贄とすれば、あと三人呼べるかと』
知らない男が、後に言う。
贄と――――
この会話を盗み聞いていた紬喜は、徐々に怒りに蝕まれた。これは、紬喜を生贄か何かにして、あと三人、異世界から攫ってくるという話だったのだ。
この理不尽な世界に、犠牲者が増えるということ。しかもその手伝いを、自分がさせられる。
『聖女とは良く言ったもの、あのような化け物を』
頭を振った。
今はこれ以上、思い出したくない。
紬喜は窓の外を見た。午後の日が浮かぶ空の色だけは、故郷と変わらずに青いのに。この空でさえ、帰りたい場所には繋がっていないのだ。
兄はどうしているだろう。父はちゃんと、再婚出来ただろうか。絶対に分からないか事を、とりとめも無く考える。そして最後は、何時ものように願うのだ。
私の居ない日々が、二人の苦痛になりませんように。どうか変わらず、笑っていて。
もうそれくらいしか、やれる事が無い。
その空も茜色に染まる頃。
階段を駆上がる音が聞こえてきた。続いて遠いノックの音がする。別の部屋の扉を叩いた事に気付いた紬喜は、立ち上がると自室の扉を引いた。
「クリス君、ごめんね。こっちの部屋にしちゃった」
「あれ、そっちにしたの?」
カーテン無くてごめんね、とクリスは苦笑した。逸れる水色の瞳が、何かを考えるように彷徨う。そこで紬喜は、追われていたんだと思い出した。
「外からは見えないけれど。カーテンは探しておくね?」
余計な手間を掛けさせたのに、クリス少年は嫌な顔一つ見せない。薄暗くなった廊下で、淡い金の髪を揺らせて微笑みながら、何色がいいかなと腕を組む。白っぽいブラウスに、青のリボンタイ。長いベストの釦は全開だったが、だらしなさは感じなかった。
子どもの一般的な服装は分からないが、育ちが良さそう、という言葉が浮かぶ。
三人の居候を抱えるのだから、裕福なのは確かだろう。うっかり悪い大人に騙されないか心配だ。
「ツゥー、ツー、つむぎゅ? ねぇ、この発音で合っている?」
「つむぎゅ?」
そういえば、この世界で名前を呼ばれたのは始めてだ。
一ヶ月以上は過ごしている筈なのに、なんという事だろう。紬喜は悲しくなりながら、しっかり覚えて貰おうと膝に手を付く。少しかがむ事で目線が揃うと、天使のような美少年は、おやっと言う風に瞬きをした。
かつて、英語の発音を教えてくれた兄を真似てみる。唇の動きを見ろと、指でトントン顎を叩いて、ゆっくり声を出してみた。
「つ、む、ぎ、紬喜、だよ、クリス君」
「紬喜?」
効果はてき面だ。流石若いと、紬喜は泣きたくなった。兄も、こんな風に私を見ていたのだろうか。
逃げていく夕日、暗さを増す廊下。涙が出そうだ。そんな事をしてもどうにもならないのに、無性にそういう気分になる…………この時間が悪いのだ。
「紬喜、僕の事はクリスって呼んでね? あと、夕飯の支度が出来たんだ。他の二人を紹介するから、来てくれるよね?」
「うん」
かがんだ私の頭をよしよし撫でて、クリスは階段へ向かった。細い背中を滑る金のひと房が、猫のしっぽのように踊る。ジジが居たら、スカートを叩くだろう。
親も居ないし、と言っていた少年の前で、兄恋しさに泣く事は出来ない。紬喜は袖で顔を擦った。そういえば、蜘蛛の巣や埃で汚れた顔を擦った袖だったな、と苦い気分になる。しかもこれは一張羅。大切にしなくてはいけない。
着替えも無いし、現金どころか金目の物も無いのだ。ネックレスの一つでも、くすねて来れば良かったと、今更思うも後の祭りだ。
ともかく、気合を入れるしかない。
頬に手を添え、むにむにと揉む。スマイルは武器だし、ゼロ円だ。無一文が差し出せる、唯一贈り物。ちゃんとやれる。バイトで取得した満面の接客スマイルは、紬喜をどうにか立ち直らせた。
二階の南側を占める大部屋。
この国、アストレブンにはよくある間取りらしく、居間と食卓、台所の三つが繋がる「普通の部屋」と、クリスは説明した。
煌々と灯る魔法ランプ。緑のカーテンと優しい色合いの木目。なかなかに趣味の良い内装だ。ここは住宅密集地の上、一階は廃墟のような図書店だ。下町かとも思ったけれど、もしかすると、それなりに良い身分の人が暮らすエリアなのかもしれない。
部屋の右側を見ると対面のソファーセットとローテーブル、本棚や飾り棚があり、居間と言うよりは応接間のようだ。左の奥は台所らしい。いやいやながら正面に顔を向けると、大きな机には湯気の立つ料理が並び、それを囲む二人の青年が紬喜の方を見ていた。
年上なのは確かで、二人とも一瞬、呼吸を忘れるほど整った顔立ちをしている。入口で立ち尽くした紬喜の背を、小さな手が押した。
「新しい仲間を紹介するよ」
クリスの声に、二人の男は立ち上がる。背が高かった。それに、服の上からでもスタイルの良さが伺える。気圧されてのけぞる紬喜を、意外にしっかりした力が押し返す。見下ろせば、クリスが苦笑していた。
「…………二人とも、見た目ほどは、怖くないよ?」
「見た目が怖いのは、ラルス・レイナスだけでしょう?」
初めまして、と即座に言った右側の男性は、紬喜に向かって微笑むと優雅に片足を引いて挨拶をした。これは、腰を曲げず頭も下げない、この国の貴族がしていた挨拶である。サラリと長い白銀の長髪が、光のヴェールを纏うように彼の上半身を滑って揺れる。右手を胸に当てて細めたその目は、果実を思わせる甘い赤色。
「アルフレートと申します」
「はっ…………はじめまして、紬喜といいます!」
美貌の青年に気圧されて、どうにか声を絞り出す。
しかし彼は、こういう反応をされる事には慣れているようだった。困ったように微笑んでから、食卓を指す。
「家庭料理ですが、歓迎致します」
「アルフレートの料理は美味いぞ」
机の向こう側、左の青年が我が事の様に胸を張った。ツンツンと癖のある水色の髪はこちらも長く、右肩で纏め、紺のジャケットに包まれるしなやかな身体に流れている。陸上競技をやっていそうな人だな、と見ていると、ニッコリ歯の見える獰猛な笑みを浮かべて――――
「ラルスって呼んでいいぜ、食うとこ無さそうなお嬢さん」
今度こそ数歩下がった。代わりに、溜息をついたクリスが前に出る。
「紬喜は食べちゃダメだよ。仲良くしてね?」
「まかしとけ、ってアルフレート抓んな!」
「怖がっているでしょう、真面目にして下さい」
「俺は何時だって、真面目だっつーの!」
三人は仲が良さそうだ。
この世界に来て失ってしまった、日常。兄と父が並ぶ、自宅のテーブル。それぞれ忙しくても、夕食だけは揃って食べていたのに。
「おいで、食事にしよう?」
クリスが手を差し出す。出来たては美味しいよ、そう微笑む少年に手に引かれ、暖かい料理の並ぶ食卓に導かれた。
湯気の出る物なんて、久しぶりかもしれない。
途中で堪え切れず泣いてしまう程、その暖かさは辛くて。苦しく、懐かしくて、そして嬉しかったのだ――――
泣き止めない様子の紬喜に、クリスは視線をアルフレートに向ける。頷く彼も、食事は無理だと判断したらしい。静かに席を立ち、僅かに魔力を乗せた指先で彼女の頭に触れる。クリスは落ちないように、体をそっと椅子に押しつけた。
「大人しいだけ、という訳ではさなそうだ」
クリスが言うと、少女の意識を刈り取ったアルフレートは、肩を竦めてみせた。そのまま抱き上げる優し気な手つきに、違和感がある。
「へぇ、アルが気に入ったの? 珍しいね」
「良い方なのですよ。どうしようもないほど、馬鹿ですが――――」
苦笑しながら言う、アルフレートの穏やかな顔。クリスは目を丸くして、部屋から出て行く二人を見送った。
「本当に、気に入っちゃったんだ」
あんな顔、何時振りに見ただろうか。
クリスは嬉しくなった。彼はもう、復讐の為に紬喜を殺そう、とは言えないだろう。上手く転がった状況にニコニコ笑みが止まらない。ふと正面のラルスを見ると、あからさまに目線を逸らされた。
「クリス様、容赦ねぇ…………」
実に心外だ。