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王城から逃げ出してふた月も過ぎ、春のような気候は肌寒くなった。
この国では、雪月の始まりなのだという。季節は花月と雪月の二つだけ。空に浮かぶ双子月になぞらえ、クリスの国でも季節は二つしか無いという。
「陸の月と海の月、と言うんだよ」
「なんか、どんな気候か分からないね」
「うん。気候で分けていないからね」
時々、クリスは祖国の事を話してくれるようになった。昔に大きな戦があった事、今はとても平和な事。平和という言葉を、私は異世界に来て、やっと身を以て実感した。
ぽかりと二つの月が浮かぶ。
そろそろ寝なくては思うのに、頭は妙に冴え、また手元に視線を戻した。青いインクで書き散らした紙には、魔導書の基本文字が並ぶ。フリーハンドの正方形がまず難しい。しかもその中に曲線を持つ文字は、それなりに小さく書かなくてはならないものだ。働く事を諦められない紬喜は、文字の練習に精を出す。
ずっと此処に居ることは出来ない。私は追われているから。
クリス達はとても良くしてくれるけれど、それはきっと、利益の噛み合う間だけ。依存しては駄目だ。青いインクで綴る文字が震えた。なのに何故、私はこんな事をしているの。
「紬喜、開けても良い?」
ノックと共に聞こえたの、はクリスの声だった。慌てて机の上を片付けて、扉を開けに向かう。
「クリス?」
「音がしたから、眠れないのかと思って」
微笑むクリスは、手にカップを持っていた。その中身、オレンジを越えて赤みのある色。ほわんと漂う甘い香りに、紬喜の頬が引きつった。
「カカオ…………」
「薄めたから、大丈夫だよ」
先日、これの甘さに失神したばかりなのだ。神経が太過ぎて落ち込んだ事さえある私が、気絶。甘いのは嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。なのに、これはどうしても飲みたくないと体が拒否反応を示す。いくらクリスが両手で可愛く持っていても、これは…………危険だ。
「紬喜、カカオ嫌いになっちゃった?」
「そんな事はないんだけど」
「良かった。この前は、飲んで寝ちゃったでしょう?これはね、アルフレートの練習用なんだよ。紬喜に丁度良い濃度に希釈する為の」
そう言われて差し出されれば、拒む事が出来なかった。いや、でも飲むとか無理でしょ?
「ありがとう、クリス。もう寝るね?」
「じゃあ、後でカップを取りに来るね」
「えっ!」
「どうしたの?」
私が飲むまで、クリスが寝られないって事じゃないか。飲むのか、この甘過ぎドリンク!?
「い、今飲むよ。ちょっと待ってて?」
暖かいカップは、机に向かっていて冷えた指先を温める。クリスの手に収まる小ささだから、頑張らなくても二三口。女は度胸と言うけれど、愛と勇気が足りていない。
「クリス、私が倒れたら骨は拾ってね?」
「拾って良いなら、拾うよ」
「…………安全策で、ベッドで飲もうかな」
「そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ?」
「溢した時大変だから、床が良いかな!?」
「僕が、毒味してあげようか?」
毒味!?毒って言わないでよ、余計に怖いよ。カップを持って躊躇していると、クリスは両手を伸ばして言った。
「貸して?」
「だめ」
クリスが倒れるところなんて、見たくない。紬喜はぐっとカップを傾けた。
「あれ?」
大丈夫でしょう、と微笑むクリスにカップを返す。笑う水色の瞳に映されて、大人げない事をしたと恥ずかしさが込み上げた。甘さは驚くほど控えめだったのだ。なんという怖がり損。アルフレートさん、ごめんなさい。
「おやすみ、紬喜」
「おやすみなさい」
部屋の扉を閉めると、ほっと気が抜けてしまった。今日はここまでかな。机の端に片付けた紙束には、正方形の文字がタイルのように並んでいる。大分書き慣れた。明日はもっと、手早く写本作業が出来るかもしれない。前向きに考えて目を細めると、そのまま目がくっつきそうなほどの眠気が押し寄せてくる。
ふらふらと入口脇に向かい、魔導具の明かりを落とした。
「…………今の音」
クリスは天井に視線を向ける。居間の上は紬喜の部屋だ。立ち上がりかけたアルフレートを手で制し、ラルスに来いと視線を向ける。二人は静かに上にあがった。
「寝てる?」
ラルスの特技がこんな所で役に立つとは。クリスは流石だよ、と紬喜を讃えた。彼女は予想外の宝庫だ。良い意味でも、悪い意味でも。
「扉の脇で倒れてるな」
気配に敏いラルスは、木扉一枚向こうの様子をすぐさま言い当てた。
「開けても大丈夫?」
「半分なら」
「そう。ラルスありがとう、もう下がっていいよ」
ここですんなり引いてしまうのが、ラルスだ。だから連れてきた。扉の前で、クリスは自嘲の笑みを浮かべる。彼は、余計な詮索をしない。
そっと開いた部屋の中は、月明りが支配する夜の闇。明かりを消して意識まで落ちてしまったのか、と苦笑する。繋がりそうで繋がらない二つは、紬喜の会話のようだと思う。何処か強く打っていないと良いけれど…………上半身を抱え起こしても、深く眠った少女は目を覚まさない。
効く筈がないのに、カカオが効いているような状態だ。今日の物は見た目こそ原液だが、希釈は人にも問題の無い無害な物だった。何故だろう。血の通う暖かな身体。首に触れた指に感じる、脈のリズム。
内包される音楽は、人が生きている証。
自身の肩に紬喜の顔を乗せ、空いた片手をそっと差し出す。呼び寄せた魔導書は明るい緑の光を纏って展開し、頁の捲れる小気味良い音を立てて作用を起こした。
足元に広がった正方形は、柔らかな緑色をした立方体に変化し、二人を空中に押し上げる。そのままベッドに移動させて書を閉じれば、崩壊した魔法は一瞬で白い粒子へと変わった。小さな風と共に光が闇に四散する様は、今のクリスには不吉に見えた。
彼女は蝕まれている。なのに、手立てすら見当がつかない。持っている光の魔力に、増え続ける闇の魔力が並んだ時が最期だ。
紬喜の基礎魔力が高い事に賭けるしかない。さもなくば、彼女が死ぬ前に計画を実行に移すか。
初期召喚された個体の資料は、余りにも少ない。なぜなら、すぐに殺されたからだ。抵抗して暴れて、枷の付いた個体に挿げ替えられる。
犠牲にしたくない。
彼女を最後の犠牲にしてしまったら、クリスは自身を許せない。愚かな事だと顔を歪める。人が召喚される兆しは無かった。とは言え、こうなる可能性をどうして考えていなかったのか。
「僕は結局、復讐に囚われたままなんだね」
その暗闇を自覚させるように、紬喜の存在は光。決して他色に染まらないままの、純白な。皮肉なまでに聖女なのだ。




