3-6
「ねぇ、クリス。私って魔力があるんだよね?」
「もちろんだよ?」
片付けと写本、やる事は見つかったものの、依然として一銭にもなりはしない。自立の道は遠かった。知識を得る為の物として魔導書は役に立たないし、私のやれる事の少なさは変わらない。
それでなくとも少ない手数。ならば若干、胡散臭くとも…………わざわざ異世界から呼ばれた私の力。浄化の魔法を、どうにかモノに出来ないか。
「もうちょっと魔法を使いこなせたら良いなって…………時間もある事だし」
「うーん」
お尋ね者の私は、やはり外出が出来ないらしい。室内で出来る事にも限りがあるのだが、この提案にクリスは難色を示した。
「難しいね…………場所も問題だけれど、紬喜の魔力の性質も問題なんだよ」
クリスは真面目考えてくれるつもりのようだ。腕を組んで唸るっているのに、可愛くて綺麗で。将来はアルフレートのような美貌に育つのだろうか。見てみたいような、見たくないような、不思議な気分になる。
「あぁ、そうだ」
水色の瞳を数回瞬き、クリスは閃いたとばかりに、ぽんと手を打った。
「紬喜は、どれくらい文字が読めるんだっけ?」
「え、えぇーと、色々読めみたいだよ?」
聞く方と読む方は問題ないが、話そうとすると、日本語を頭の中で勝手に覚えている言語に翻訳してから発音に従い声にするという手間がある。この国アストレブンの公用語はかなり慣れてスムーズだが、他はちょっと心もとない。
「魔法を練習するには、ある程度の結界が必要なんだ」
クリスは無造作に、左手を突き出した。その手の上に薄っすらと影が差して、紫色の魔導書が現れる。分厚い書物は淡く光を湛え、ふわりと浮いていた。びっくりして息を飲み、思わす目を擦る。あの漬物石みたいな本が浮くなんて。
「これは結界を敷く為の魔導書だよ。空間に作用するから、あまり動かないでね?」
クリスにとって普通の事なのだろう。特に顔色も変えず、魔導書が勝手に開いてパラパラとページが捲れるままにする。
「その様子だと、魔導書が使われるところは初めて見た?」
「…………魔法も、まともに見るのは、初めてというか?」
「えーと、よく分からない魔法というものを、使ってみたかったって聞こえたんだけれど」
咎めるような声音のクリスに、項垂れるしかない。ちょっとした好奇心と、実用性を考えた結果だった。自分が聖女として浄化の魔法を使っていた、という事も自覚が無い。いきなり、こんな本格的な状態になるとは思いもしなかったのだ。
しょんぼり落とした目線の先、足元の床に変化が生じる。こげ茶の床から数センチ、自分が浮いているのだ。それだけではない。まるで、この世界に引きずり込まれた時の様な模様――――緻密な蔓のような柄が、紫色に光って成長し、徐々に色を濃くした。記憶の中に絡み付く、赤くて細い蔓草が一瞬にしてフラッシュバックする。足に巻き付いた痛み。その小さい葉が不規則にザワザワと蠢いて――――
こみ上げたのは、悲鳴か吐き気か。急いで口を覆って、自分を抱き締めるように肩を抱く。手には爪が食い込むほどの力が入っているのに、足からは力が抜けてゆるゆると座り込んだ。
「紬喜?」
きつく目を閉じて。瞼の裏に記憶を隠す。私はクリスを信じてる。あの時とは、違う。
「紬喜…………」
「…………だいじょうぶ」
驚いただけだ。あの日の事が、こんなにもトラウマになっていた事に。力の抜けた顔を上げて、へらりと笑う。
「魔法を習うには、覚悟が足りなかったなぁって、反省してるとこ」
床からふわりと風が起こり、二人を囲む小さな円が完成した。複雑な曲線の蔦模様は煽られて浮かび上がる。そのまま絡み合って花を咲かせ、円周をなぞる淡い光の粒へと転じて、空気に溶けた。全ては数秒の事。
パタンと魔導書を閉じたクリスが、数歩の距離を埋める。
「…………紬喜」
へたり込んでしまった紬喜の傍に跪く。その俯いた顔は、淡い金の髪に隠れて見えない。
「ごめん紬喜…………」
謝罪の言葉に、ハッと我に返った。私の反応が、彼を傷付けたのだ――――息苦しいほどの恐怖は、すぐさま後悔に塗りつぶされていく。
「クリスごめんね!私が考えなしだったから、いけなかった!!」
「…………紬喜」
「クリスは悪くないよ?私も驚き過ぎて、びっくりさせちゃったね」
「紬喜は、何も悪くないよ」
クリスはゆるゆると顔を上げた。彼は知っていた。毎晩行っている足の手当で――――多分、こうなる事を。
「君が謝る事なんて、何もないんだ」
クリスは暗い笑みを浮かべた。
「クリスファルト様」
「…………アルフレート」
異変に気付いたらしいアルフレートが、キッチンからやって来た。まだ洗い物の途中なのか、腕捲りをしてエプロンを付けている。
「よく申し上げておりますが。室内で魔導書をお使いにならないで下さい」
「違うんですっ!」
即座にクリスを庇おうとした紬喜は、アルフレートが上げた片腕に押し黙る。彼は触れそうなほど近くに片膝を付けると、穏やかに微笑んだ。
「紬喜様、この結界を解くことは出来ますか?」
「えっ?」
「ここに境界がありますので、手をかざして下さい」
折角作ったのに、解くって、壊しちゃうって事?
クリスは緩く首を振るだけだ。良いのか悪いのか分からないが、ともかく様子がおかしい。紬喜は恐る恐る、何もない空間に手を伸ばした。
指先にヒヤリとした堅い感触。硝子があるような手触り。確かにそこには、目に見えない壁があった。思わずぺちぺちと叩いてみる。
「簡単な結界ですからね」
アルフレートがニコッと笑んだ。
あ、これ、マズイやつだ。紬喜は悟った。しかし逃げ場は無い。無理を言ったり困らせた時に、最近彼はこの笑みを見せる。紬喜が逃げ出すしか無いような返答と共に。
「特殊な魔力の紬喜様なら、口づける、だけでも壊せるでしょう」
ここに、そう言う彼は紬喜が手を付いた横を指す。つまり、アルフレートの目の前で、壁とキスしろと。罰ゲームのような要求だった。
「どうして、手じゃ駄目なんですか?」
たったそれだけの事なのに、少女は抵抗を見せた。アルフレートは嫌がると分かって言っている。紬喜はそういった類いの事に、拒否反応を示すのだ。
聖女らしい潔癖さ、と言ったら多分嫌味になるだろう。苦笑しているクリスが、床に投げ出した魔導書を指で弾く。魔導書を文字分解させて、消滅させるつもりだったのだろう。この結界を解く事は、紬喜には容易い。しかし、とアルフレートは考える。彼女には薬が必要だ。
暫く魔法に関わろうと思わないくらいの、薬が。
「手には穴が開いておりませんので、口が一番簡単ですよ?」
「あ、穴?」
「頭部は穴の多い場所ですから、練習には良いと思います。耳、鼻、口。どれでも良いのですが」
「じゃぁ、耳にします!」
「耳から風が吹き出す感じがお分かりになるなら」
無理だっ!!
どう頑張っても、口しか選択肢が無い。というか、息を吹きかければ良いって事だったりする?
「あのね紬喜、初心者は魔力開放部と接触が必要だよ」
「クリスぅ…………」
「折角だから、やってみれば?」
「で、でもっ!」
「じゃぁ、一緒にやる?」
「えぇぇぇぇっ!?」
異世界魔法、どうなってるの。というか分かった。私は絶対、聖女の時に何もしていなかった。それだけは良く分かった!!
「ほら紬喜も、耳付けてみて?」
何故に、一緒にやる方向なんですかクリス。二人でやっても壁チューからは逃げられないからね?犠牲は少ない方が良い。ここは年上として、腹を括ろうではないか。
「ほら、耳付けてー」
クリスに頭を押される。耳に感じる冷たさ、近すぎる水色の瞳は、邪念など知らないように澄んでいた。
「ほら、怖くないよ?」
注射は一瞬。チックとしますよ、と言う看護師の幻聴が聞こえる。
「ク、クリス、ちょっと待って」
「次は頬ね」
すっかり何時も通りの笑みを浮かべた少年は、容赦なく頭に添えた手に力を入れた。ヒヤリとした感触が頬に当たる。ヤメテ、それ王手っ!括った筈の腹は、敢無くどこかへ逃げだした。
「待って、待ってクリスっ!!」
「大丈夫、次は顎だから」
「あご…………?」
因みに、気を抜いて顎を付いた瞬間、後ろからクリスに押されて即チェックメイトとなった。
「だって、紬喜じれったい」
悪びれもせず言うクリスに、紬喜は何も言えなかった。クリスは子どもだ。壁チューの恥ずかしさが分からないに違いない。そして、結界を壊した感覚は恥ずかしさに消し飛ばされ、全く分からなかった。




