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夜叉の恋  作者: 皐月 綾香
夜叉の恋
8/11

七 蜘蛛の糸

 

 カラカラカラカラ──

 静かに回る糸車の音に何とはなしに耳を傾けながら、私は黙ってゆらゆらと頼りなく揺れる蝋燭の灯りを見つめていた。

 夜の帳はとうに降りた。

 私の膝で規則正しく胸を上下させるなづきの寝息がやけに響く。

 その小さな手にはしっかりと握り締められた食べかけの握り飯。

 寝る前に案の定腹を空かせたなづきに、比重婆が与えたものだ。

 たらふく食っても有り余る握り飯の残りは明日に残しておくらしい。

 ……全く、年寄りが子供に甘いのは人も妖も変わらない。

 しかし、長らく野育ち、おまけにひとりで生き抜いてきたなづきにとって白米をこれだけたらふく食えたのはいつ振りだろうか──……否、もしかしたら初めてかもしれないのだ。

 比重婆には感謝をすべきなのだろう。


「その娘はなづき、と言うんだってねェ……」


 静寂に、ぽつりとしわがれた声が通った。

 徐に比重婆へと視線を移せば、ボサボサの長い白髪が垂れた異形の背が目に入る。


「本当に可愛らしい娘だ……。数年後にはすっかり見違えるだろうねェ……」


 長い蜘蛛の足が糸を紡ぎ、器用に布を仕立てていく。

 八束脛とはよく言ったもの。

 蝋燭の灯りのみが照らす薄暗いくて狭いこの場所で、名の知れた大妖と一介の鬼とちっぽけな人の子とが密に存在する様子は、きっと端から見ても異様なものだろう。


「……美しいな」


 紡がれ、形を成していくその艶めく布に、そっと目を細める。

 私の言葉に、比重婆は小さくしわがれた笑い声を零した。


「ひっひ……アタシの仕立ては天下一品だからねェ……」

「……その割には繁盛している所を見た事はないがな」


 揶揄するようにおどければ、彼女の赤い目が静かに振り向く。


「全く、お前さんも相変わらずだねェ……」


 愉しそうに細められた赤い目は、まるで血の池のようだ。

 太古より自然と共に生き、森羅万象を知り尽くした大妖。

 彼女を前にすれば、己が如何に若く力のない妖であるかが身に沁みる。

 幾千、幾万、それよりも更に気の遠くなるような年月を生きてきた存在は、そう容易く超えられるものでもなければ超えるものでもないのだろう。

 比重婆と出逢った頃、私は今よりももっと若く、寧ろ幼いと言った方が正しい子供だった。

 人で言えばなづきと同じ年頃だったかもしれない。

 数百年も前の事だ。

 私にしてみればそれなりに昔の事だが、その頃から比重婆は変わらない。

 数百年前など、きっと彼女にしてみればつい最近の事なのだろう。

 そしてなづきにしてみれば、数百年前など想像も出来ない程に遥か昔の事なのだろう。

 時の流れは、等しいようで千差万別だ。


「また今度、子供の着物を仕立てるのは……いつになるかねェ……」


 呟かれた言葉に、私は鼻を鳴らした。

 極上の糸に確かな腕──右に出る者はいないその仕立ては認めるが、年寄りの戯れ言は好きではない。

 冷めた態度の私に比重婆はまた小さくしわがれた笑い声をこぼすと、長い蜘蛛の足を伸ばして何処からともなく古びた着物を引っ張り出して寄越す。


「娘に掛けておやりな」


 比重婆の言葉に黙って着物を受け取ると、言われた通り膝ですやすやと眠るなづきにそっと掛けた。

 蝋燭に照らされた子供らしいふくよかな頬を撫で、徐に視線を小さな窓へ映す。

 夜も深い。

 数刻もすれば太陽の下で駆け回るであろう元気ななづきの姿が目に浮かび、私は静かに瞼を下ろした。

 この世に生まれ落ちた日は定かではない。

 だがしかし、こんなにも一日をゆっくりと刻むように生きた日はないだろう。

 そしてこれからも、きっと。

 人の子と生きたこの時間は、色は褪せども忘れる事はない。

 決して。





「美味し~っ!!」


 夜が明けた。

 起きて一番にニコニコと頬を落とす勢いでなづきが貪るのは、昨夜比重婆から貰った握り飯の残りだ。

 心底幸せそうに握り飯を頬張るなづきを横目に、私は渡された小袖を見つめていた。

 山吹色の生地に散りばめられた蝶をまるで結ぶように施された薬玉。

 艶やかで滑らかなしっかりとした作りのそれは、しかし羽根のように軽く肌に馴染む。


「見事だな、比重婆。礼を言う」


 小さく笑みを浮かべれば、比重婆は血のように赤い目を細めて笑う。


「ひっひ……このアタシが丹精込めて仕立てたんだからねェ……。当たり前だよ」


 僅か一夜にしてこの出来だ。

 曰く、すっかり老いぼれたらしい比重婆もやはりまだまだ現役という事か。


「なづき。新しい着物だ」

「えっ、もう出来たの!?」


 握り飯に夢中になっているなづきに声を掛ければ、驚いたように顔を上げた。


「わぁ……」


 握り飯を取り上げ、その小さな手に出来上がった着物を渡せば、恍惚とした表情で魅入るなづき。

 食い気だけではないのか、と妙に感心する。

 一頻り着物を眺めた後、なづきは徐にちょこちょこと前に出ると、自身よりも遙かに巨大な大妖を笑顔で見上げた。


「えっと、比重婆様。綺麗な着物をありがとう!」


 そして精一杯の言葉で礼を言うと、嬉しそうに着物を抱き締める。

 そんななづきに比重婆は鬼の顔にしては穏やかな笑みを浮かべ、長い足でなづきの小さな頭をそっと撫でた。


「お前さんが気に入ってくれたんならアタシも嬉しいよ……。年寄りは子供が好きだからねェ……」


 比重婆に頭を撫でられながら、なづきはキョトンと首を傾げる。


「比重婆様は、人間の子供も好きなの?」


 素朴な疑問。

 確かにこんな風貌では愛でるよりも寧ろ食う方だろう。

 なづきの疑問に比重婆はしわがれた声で「いいや」と穏やかに答える。

 穏やかと言っても比較対象は比重婆自身であって、端から聞けば地獄の底から響くような声だが。


「まぁ、好きでもないけど嫌いでもないといった感じかねェ……。人間だけじゃない、妖もそうさ……どっちでもないねェ……」


 よく分からないと顔に出すなづきに、比重婆は「少し難しかったねェ」と笑った。


「要するにねェ……なづき、お前さんは特別に好きだって事だよ」


 その言葉に、顔を輝かせた。


「私も比重婆様の事好きだよ! 見た目はおっかないけど優しいから」

「ひっひ。素直な娘だねェ……」


 鬼の顔に虎の胴体、蜘蛛の足。

 そんな比重婆に臆す事なく物を言うなづきは器が大きいのか、それとも単なる怖いもの知らずなのか……。

 十中八九後者なのだろうが、恐怖と紙一重の微笑ましい一人と一匹の仲睦まじい光景は稀有なもの。

 日が高くなるまでには山を下りる。

 それまでの暫しの戯れだと、私は黙ってその光景を見つめていた。





 ぴちょん──

 若葉に光る雫が跳ねた。

 小さな足が、少し湿った朝の高原を吸い付くように駆け回る。

 比重婆が小屋を構える山は高山だ。

 薄い空気の中、地上と変わらない様子で転げ回るなづきを見守っていれば、比重婆がゆったりと長い手足を動かして隣に移動してきた。


「山を下りるんだろう。連れ戻さなくていいのかい……?」


 チロチロと紅い舌を覗かせながら、試すように笑う比重婆。

 そんな比重婆を一瞥し、また視線を前方へ戻す。


「……直に自ら戻ってくる。花でも持ってな」


 顎で指せば、比重婆がそちらに視線を遣った。

 そこにはしゃがみ込んで花を摘むなづきの姿。

 高山にしか咲かない花の群生。

 物珍しくて溜まらないのだろう。

 夢中なその様子に、口許が綻ぶ。

 暫く見つめていれば視線に気付いたなづきがこちらを振り向き、溢れんばかりの笑顔で手を振ってきた。


「ひっひ……可愛らしいねェ……。お前さんの事が余程好きなんだろう……」


 比重婆の言葉に沈黙する。

 それは即ち肯定の意──比重婆はそう受け取ったらしい。


「静や──」


 徐に口を開いた。


「小さく弱い子供……人の子は皆そうさ。脆弱で、すぐ泣いて、だが根性は大人よりもあったりしてねェ……。憎たらしく、愛らしいもんなんだ……。だけどねェ、そんなのも一瞬さ……奴等は生き急ぐ。目まぐるしい程に移ろい行く生き物なんだ……まるで季節のようにねェ……」


 そして、にたりと笑う。

 そんな比重婆に私は小さく鼻を鳴らすと、やがて手に花を抱えて駆け寄ってくるなづきを見据えた。

 はらり──

 一輪の白い花が、なづきの小さな手から零れ落ちる。


「……なづき」


 山吹色の着物が翻る。

 ひらめく蝶は、まるで舞っているよう。


「なぁに?」


 きょとん、と首を傾げるなづき。

 栗鼠のように真ん丸の栗色の瞳は真っ直ぐに私を映し出す。

 手から零れた一輪の花の行方。

 多くの花々の中から零れた落ちたそれを、誰も気にも止めないし、気付いたとしてもわざわざ拾う事もない。

 花の命。

 それは美しく咲いて、瞬く間に散り行くもの。

 儚くて美しい。

 ──否、儚いからこそ美しいのか。

 知る由もないが。

 唯一つ言える事は、それが悠久ではなく刹那だからこそ、歌人は花を愛で詠うのだろう。

 そしてまた繰り返す命を待って、喜ぶのだろう。


 人とて、そして妖とて。

 命の長さは違えどもそうは変わらない。


「……いや。やっぱりいい」

「ふぅん? 分かった」


 不思議そうに首を傾げるなづきの手から花を一輪取り、その瞳と同じ色に輝く栗色の髪に挿す。

 白い花の中で唯一つの、薄い桃色の花。

 嬉しそうに笑うなづきは、この花にとてもよく似ていると思った。





 山から去る時、比重婆はなづきに訊ねた。

 「お前さんは幸せか?」と。

 迷う事なく頷いたなづきに、私もまた迷う事はなかったのだと確信する。

 隣で笑うなづきにとって、その問い掛けは愚問でしかないのだ。


 ──お前は今、幸せか?などと。


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