五 コダマノモリ
──鬼だね。
──うん。夜色の鬼だ。
──人の子だ。人の子を連れてる。
あちらこちらから差す木漏れ日の中、柔らかい風が頬を撫でる。
さわさわと木々が葉音を奏でる音色に混じって、妖や精霊達──“森”がざわめく声がした。
「なづき、耳を傾けるな」
「うん」
──コダマノ守。
この森を守護する者達を総称してそう呼ぶ事から、いつからか“コダマの森”と呼ばれるようになったこの地は、この世であってこの世でない場所だ。
コダマノ守は妖や精霊が森と同化したものであり、森であり命であり、形なき存在。
彼等の声は命ある者の心を惑わせる。
それは鬼であっても同じ事。
この地では彼等、コダマノ守が絶対であり全て。
理なんぞ何の意味も持たない。
そして一度魅入られれば最後、二度と再び“こちら”へは戻れないという。
──そんな物騒な場所へわざわざ足を踏み入れたのには理由がある。
事の発端は昼下がり。
なづきは兎に角、お転婆というかじゃじゃ馬というか、正に野生児を体言したかのような娘だった。
昨夜酷使したはずの体は既に元気を取り戻し、固まった血と泥の臭いを足から撒き散らしながらも屁でもない顔で走り回る。
私が思わず首根っこを捕まえて「走るな」と注意をしても、「はぁい」と暢気な返事の数秒後にはまた走り回っている。
痛覚がないのかと疑うその有様に、私は頭を抱えた。
これでは埒が明かない。
走り回るのを止められないのなら、走り回れるよう足を治せばいいと半ば乱暴に結論を出した。
そして思い至ったのがこの場所、コダマの森だった。
「ねぇねぇ、泉はまだ?」
「まだだ」
──コダマの森の深部より少し手前。
少し拓けたその場所に、大きな泉がある。
どんなに雨風が荒ぼうと、どんなに大地が揺れようと、決してその水は濁らず水面も穏やかなままの聖なる泉だ。
そこの泉は大陸の金丹にも勝らずとも劣らずと云われており、誰もが喉から手が出る程に欲している。
しかし、コダマの森へ足を踏み入れる事は禁忌であり、尚且つ、入った所で待っているのは悲惨な末路。
そこまでして森へ入る者は命知らずの単なる馬鹿であり、そんな馬鹿は決まって二度と帰ってくる事はなかった。
私も命は惜しい。
人の子の為に、それもたかが足の傷を治す為に命を張る気は更々なく、私が目指しているのは泉が流れ出した遙か下流、泉といってもほんの小さな水溜まりのようなものだった。
……とは言っても、既に森の中。
なづきには耳を塞がせているが、長居は出来そうにない。
「まだー!?」
「……まだだ」
耳を塞いでいて聞こえるはずもなく。
再度、同じ質問を投げ掛けてきたなづきに溜息を吐く。
一体、誰の所為でこんな事になっていると思っているんだ……。
声が聞こえずともわかるように、なづきを振り向きゆっくりと口を動かせば漸く通じたらしく、にこっと笑った。
そのまま黙って笑っていろ。
悪態にも似た言葉を内心呟いている内に、古びた倒木を見つけて私は足を止めた。
続いて足を止めたなづきは、倒木を見るなり元から真ん丸の目を更に真ん丸にして口を開けた。
「うわぁ……おっきい……」
私の身長に三人足しても、それを遙かに上回る直径の幹を持つ巨大な倒木。
どっしりとしたその幹の断面に刻まれた幾重もの年輪は、幾星霜もの年月を表している。
「下を見ろ、なづき」
「え?」
倒木の余りの巨大さに魅入っていたなづきは、私の声にハッとして言葉に従い下を見た。
ひっそりとそこに在る、木々から除く晴天を映した澄んだ水溜まり。
「泉だ」
一言そう言えば、なづきは目をぱちくりとした後に遠慮なく顔をしかめた。
「静さんの嘘吐き!」
そんな非難の言葉に「お前は私に死ねと言っているのか」と肩を竦める。
「何もあんな大それたものに頼らずとも、その水溜まりで十分だ。適当に遊んでいれば足の傷くらい治る」
余程、期待を裏切られた事が堪えたらしい。
じとりと私を見上げつつ、恐る恐る水溜まりに傷だらけの足を沈めていく。
すると「冷たい!」と楽しそうな悲鳴を上げ、今度は笑顔で私を見上げてパシャパシャと遊び始めた。
現金なものだな。
そんな様子を目を細めて眺めながら、相変わらず聞こえてくる森の声と囲むような視線を牽制するように、なづきと私を覆う程度に妖気を滲ませた。
心許ないが結界の代わりにはなるだろう。
一頻り遊んだ後、満足そうに水溜まりから出された小さな足は綺麗に完治していた。
──人の子だ。
──うん。人の子だね。
──鬼もいるよ。また来て欲しいね。
二度と来るか、こんな所。