三 なづき
人間の子供の名はなづきと言った。
私の事を鬼だと知りながらも、なづきは私に屈託のない笑顔で接してくる。
怖いもの知らずは母譲りか、と自然と顔が緩むのを感じる。
氷鷺には一人娘がいた。
しかし、話に聞いていた限りでは愛くるしく元気いっぱいの娘──いや、確かにそうだ。
確かにそうなんだが、何というか……違う。
愛くるしい笑顔とチョロチョロとした動き、活発なその様子は元気そのもの。
だが、兎を素手で捕まえその手で仕留めて、今、私の眼前で自ら火を熾してその捌いた兎肉を笑顔で焼いているのは「元気いっぱい」の一言で済ませていいのだろうか。
焼き上がった肉を笑顔で「いる?」と差し出す笑顔に私は遠慮した。
「美味しいのに」
「……私は腹がいっぱいだから、お前が食え」
死んでも食わん。
私の返答に、「ふーん」と存外素っ気なく呟き、なづきはガブリと肉に食らい付いた。
なかなかいい食いっぷりに面食らう。
……人間の子供とまともに接するのは初めてだが、どの子供もこういう風なのか?
だとしたら命が幾つあっても足りない。
道理で妖に比べて人間の親は過保護な筈だ。
妖の子供なんて、よっぽどでなければ放っとけば勝手に育つからな。
あっという間に食事を平らげると、「御馳走様でした」と手を合わせるなづき。
「何だそれは」と訊ねれば、今度はなづきが面食らったような顔をした。
「知らないの?」
「人間の文化なんぞ知らない」
「鬼にはないんだー」と暢気に目をぱちくりと瞬かせる。
そして、私が知らない事を自分が知っているのが嬉しかったのか、なづきは栗色の目を輝かせて身を乗り出す。
「御馳走様でした、っていうのはね、私が生きていく為に死んでくれてごめんね、ありがとう、美味しく頂きましたっていう意味なの。ご飯を食べる前には頂きます、って言うんだよ。……今日はお腹減ってて忘れちゃったけど」
ぺろ、と小さな舌を出してなづきは笑った。
成る程。
つまり食材に対する礼儀を表した挨拶みたいなものか。
数百年生きてきたが、この世には私が気にもしないだけで知らない事が溢れているようだ。
「いつも兎を食っているのか?」
「ううん。今日はたまたま。魚だったりキノコだったり……色々食べるよ!」
魚……。
なづきの事だ、勿論素手だろう。
こんな子供が何故この国で生き延びれているのか不思議だったが、接していく内にわかった。
それは他でもない。
なづきだからだ。
あのおっとり淑やかな氷鷺の血を引くとは思えない野性。
外見が似ていないし、なづきは父の血を濃く引き継いだのかもしれない。
氷鷺の夫は愛嬌のある快活な男、と一度だけ聞いた事がある。
正になづきだ。
腹がいっぱいになり眠くなったのか、いつの間にかうとうととし出したなづきを黙って見つめる。
何処にでもいるようなちっぽけな人の子。
しかし、どうしてか。
小さな体で懸命に生きるその姿は、深く脳裏に焼き付いた。
空気が冷え込み、夜の帳が落ちた頃。
漸く目を覚ましたらしいなづきが目を擦りながら私を見た。
そして開口一番、「わっ、鬼!」
──……複雑な心境だった。
寝ぼけているにしても一刻程前まであんなに喋っていたというのにそれはないだろう。
まぁどうでもいいか、とすぐにその気持ちを心の隅に追いやり、まだ寝起きでボーッとしているなづきを見遣る。
「よく寝ていたな」
そう声を掛ければ、なづきはへらりと笑った。
「うん! 久し振りに夢も見ないで眠ったよ。鬼さんのお陰だね」
なづきの言葉に思わず眉を顰める。
「……私の?」
「そうでしょ? 鬼さんがいるから安心して眠れたんだもん」
すっかり眠気も冷めたらしいなづきは当たり前にそう言い切り、私は曖昧に返事をした。
妙な事を言う子供だ。
そもそも私が立ち去らなかったのは、なづきが私の着物の袖をしっかり握って離さなかったからだが──……。
しかし眼前の笑顔を見て、喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
言う必要はないと判断した。
それまでの事。
「そういえば、鬼さん。鬼さんにも名前はあるの?」
ふと思い付いたように訊ねたなづき。
「静」と短く答えれば、なづきはもごもごと何度も復唱する。
そしてそれを数回繰り返した所で漸く納得がいったのか、嬉しそうに笑って私の名を呼んだ。
「静さん!」
子供特有の甲高い声は、まるで鈴の音のように私の心に沁みる。
久しく名を呼ばれ、妙な心地だった。