二 風光る
──国は滅びた。
……とは言っても、いつの間にか人間が勝手に境界を作り国として機能させていたものが壊れただけで、私にとっては変わりない。
一晩にして主やその身辺の要人を失った国が滅びるのは簡単で、雪が解ける頃には亡き国となっていた。
ただ一つ意外だったのは、壊れたこの国に周囲の国々が一切手出しをしてこなかった事だった。
風の噂によれば、この国の主が寵愛する絶世の美姫に惚れた一匹の鬼が嫉妬に狂い城を落としたのだとか……そして、今はこの国はその鬼の手中にある。
手を出せば自国までもが同じ末路を辿るという事で、小賢しい人間達は皆、素知らぬ振りをしていると。
……まぁ、中らずとも遠からず。
確かにあの娘は絶世の美姫といってもいい程に美しかったし、この国の主に病的なまでに寵愛されていた。
そして城というか屋敷を落としたのも鬼である私だ。
……ただ、娘に惚れて嫉妬に狂ったという尾ひれが付いたのは驚いたが。
まぁ、周囲から見ればそうかもれないしそうでないかもしれない──……詰まるところ、どうでもいい。
私があの娘の為に屋敷を燃やしたのは事実だ。
そう、ただそれだけの事。
かつて数多の人間が蔓延っていた国には今では野党や山賊といった有象無象のみが犇めき、母国を捨てまいと残っていた頑固な人間も今や数える程いるかどうか。
残った人間同士で殺し合い、妖に喰われ……。
獣や植物、そして妖の国と成り代わったこの国は存外、鬼の私には居心地が良かった。
木漏れ日の下、草木生い茂る地面から突出した岩に腰掛け瓢箪に入った酒を煽る。
喧噪のない静かな時間。
時折、足下を兎や狸といった小動物がじゃれるように駆けていく。
それを見るともなしに見ていれば、不意に少し離れた茂みの方から慌ただしい気配が近付いてきた。
──人間か?
私を人間と勘違いした賊が絡んでくるのはそう珍しい事ではない。
とっくに慣れていた私はちらりと一瞥したのみで、興味が失せたように視線を戻し何事もなかったかのように酒を煽った。
取り合うまでもない。
そう思っている内に気配はすぐそこまで近付き、ガサガサッと茂みが音を立てて、瞬間、小さな影が飛び出した。
──兎だ。
そしてそれを追って転がるように飛び出してきたのはやはり人間。
しかし、現れた思わぬものに私は思わず視線をそちらに向けた。
そうこうしていれば、まるで子鹿のように軽やかな足取りでその人間は兎を捕まえるとそのままの勢いでゴロゴロと草の上を転がっていった。
目をパチパチと瞬かせる私の視線の先で、人間はむくりと起き上がりその手に持った兎を目の前にぶら下げる。
国が滅びて二つの季節が過ぎようとしているが、今まで会った人間は、賊や意地でこの地に留まった頑固な人間のみ。
だから初めてだった。
こんな有象無象犇めく亡国で、人間の娘が──それも年端もいかないちっぽけな子供が、元気に駆け回っている姿を見るのは。
兎の首根っこを捕まえ満足そうに立ち上がった人間は、私の存在に気付く事なくそのままくるりと背を向ける。
そんな人間に、思わず「おい」と声を掛けたのに気付いたのは、人間が驚いたように目を丸くして振り向いた時だった。
栗色の髪が初夏の風に揺れる。
髪と同じ色をした目は栗鼠のように真ん丸でクリクリとしていて、柔らかそうな肌は元は白いのだろうが日に焼けて健康的な色をしていた。
あちこちが破れたボロボロの小袖は、汚いが悪くない仕立て。
にっこりと笑った無垢な微笑みに、何故かあの娘の面影が重なった。
「鬼さん、初めまして」
──嗚呼、そうか。
雰囲気も顔立ちも色彩も、何もかもが違うというのにこの既視感。
原因がわかったのと同時に腑に落ちた。
「……どうして私が鬼だと?」
問い掛ける。
私の質問に、一瞬キョトンとした人間は太陽のように笑った。
「何となく!」
『雰囲気です』
目の前の人間の声が、記憶の中の声と重なった。
似ても似つかない。
なのに、どうしてこうも。
氷鷺。
お前が命を賭して守り抜いた命は、確かに此処に在る。