一 落日
白銀の雪が辺り一面を覆い尽くす月夜の晩。
いつものように氷鷺の住まう武家屋敷に足を踏み入れた私は、その違和感に眉を顰めた。
──痛い程に音がない。
私が音もなく歩くのはいつもの事だが、この屋敷は人が多く、常に何かしらの話し声や気配がしていたというのに、今はじっと息を潜めているかのような静寂。
この間までは家臣や何処ぞの寺の坊主といった面々が隙あらば私の命を狙ってきたというのに、それもなく。
妙な気が充満する屋敷内。
眉を顰めたまま足を進めれば、不意に嗅覚が捉えた臭いにハッとした。
足早に庭を横切り、いつも氷鷺がぼんやりと空を眺めている縁側へと向かう。
彼女はそこにいた。
柱に体を預けて座る小さな影。
病で思うように動かなくなった体を引きずったのだろう、懸命なその様子が目に浮かぶ。
私を見て穏やかな微笑みを浮かべていたその顔は、痩せこけても尚美しく。
骨と皮だけになってしまった体でも、その身が纏う優しい雰囲気は変わらない。
静かに目を閉じ、元より白かったのに益々白くなった肌に、長い睫毛が影を落とすその様子をただ見つめる。
それは束の間かもしれないが、私には数刻の時にも思えた。
氷のように冷たい頬を一撫でし、その手をそっと氷鷺の胸元へ持って行く。
そして、胸元へ深く深く突き刺さった刀を引き抜けばぐらりと傾いた体を支え、私は羽のように軽いその体を布団へと運び横たえた。
徐に庭を振り向けば、眩しい程の銀世界。
──しかし、目に焼き付いた鮮やかな赤色が私の脳裏を塗り潰す。
氷鷺は病を患っていた。
死の病だ。
そして、その命の灯は日に日に弱まり、あと一月持つか──今にも消えそうな、そんな命だった。
放って置いても散る命。
春を待たずして彼女は土へ還るだろう。
氷鷺もまた、それを望んでいた。
氷鷺。
お前に手向けの花をくれてやろう。
そういえば、私──鬼の退治の為に雇われた坊主が、私を「人の皮を被った鬼」だと言っていた事を思い出す。
確かにその通りだ。
厭味でも比喩でもなく、確かに私は人の姿を模した鬼なのだから。
手に持っていた血糊のべっとりと付いた刀がドロリと溶け出す。
立ち上る蒸気が次第に青白い炎を帯びて行く。
異変に気付いたのだろう。
バタバタと駆けてきた人間達が顔を出した。
「もッ──物の怪め!!」
威勢良く牙を剥く家臣の群れに目を走らせる。
あの男はいないようだ。
その事実にフッと嘲笑がこぼれた。
数十、数百の家臣を雇い手足とし、己は傍観し高みの見物を決め込む。
──そう、例え愛する女を殺す時でも。
「一つ訊く。この女を殺したのは誰だ」
「物の怪なんぞに答える義理はない! 大人しく滅されろ!」
「……そうか」
ゴキリ。
ドン、と落ちた首に家臣達は悲鳴を上げてたじろいだ。
立ち込める血腥い臭いに眉を顰める。
「誰だ、と訊いているのだが」
もう一度問えば、「ヒイッ」と人間達は道を空け一人の男を差し出した。
「ち、違います! お、お、おれは──……」
必死で後退しようとする男。
しかし自分の命の惜しい人間達は決してそれを許さず素知らぬ顔で男を晒す。
愚かなその光景に吐き気を感じつつも、私はゆっくりと一歩近付いた。
「──顔が白いな」
更に近付く。
ガチガチと歯を鳴らして硬直する男の頬に触れて目を細める。
「……まるで死人のようだ」
「だが」と続けた。
「氷鷺には劣る」
ゴキリ、耳障りな音と同時に勢い良く噴き出した鮮血に、人間達は悲鳴を上げ尻を着いた。
構わず、もぎ取ったそれをぶら下げたまま動けない人間達の間を通り過ぎる。
そして奥へ奥へと進み、胡座を掻いて酒を煽る男の背中を見つけた。
「貴様には負けるな」
驚き振り向いた男に、ゆるりと笑う。
「その心は鬼の鏡だ。何処で手に入れた?」
慌てて杯を放り出した男を制し、転がった杯を震えるその手に持たせて徳利を傾ける。
並々と酒を注ぎ目を細めれば、男はたじろぎながらも徐々に気を持ち直す。
「ふん……。鬼の酌か。悪くはない」
強ばりつつも得意気な表情。
相当飲んでいたらしく真っ赤な顔に肥え太った体は、とても見れたものではない。
男の体臭と酒の臭いで鼻が曲がりそうだ。
やがて上機嫌になった男は、ゴクリと杯を傾けた。
瞬間、目を剥く。
喉を掻き毟り、体中の穴という穴から血を噴き出して床に倒れる。
「た、だずけ──!」
乞うように手を伸ばすその手を冷めた眼で見下ろし、足で踏み潰した。
肉が裂け骨が砕ける音。
この世のとは思えない叫び声に嘲笑する。
そして髪を掴み上げ、男の眼前で囁いた。
「死してもその苦しみは未来永劫続く。あの世で待っているんだな」
しんしんと雪が降る。
まるで時が止まったかのように静かなその空間には、立ち込める血と死の臭い。
静かに横たわる美しい娘の前にそっと跪き、目を伏せる。
手には二人の男の首。
一つは氷鷺の命を奪った者、一つは氷鷺の心を、全てを壊した者。
小さな国の小さな村に産まれ、そこで出逢った男と一緒になりやがて子が産まれ、貧しくても愛する家族と死が訪れるその時まで過ごす──そんな、ささやかだがこの上なく幸せな人生。
鬼の私にはわからない。
人間の幸せなど考えた事もないし、これから先もきっと考える事はないだろう。
しかし、氷鷺が一度語った幸せはそんなものだった。
──愛する家族と死ぬまで一緒に。
そんな程度の幸せ。
しかし、こんな程度の幸せすらも手に入れる事のできなかった哀れな人間の娘。
氷鷺という、美しくも儚い生を終えた哀れな人間の娘。
「──安らかに眠れ」
ドン、と二つの首を投げ捨てる。
これで恨み辛みを思い残す事はないだろう。
青白い炎が屋敷を包む。
夜明けには跡形もなく燃えるだろうその屋敷を一瞥する事もなく、私はその場を後にした。