序
私が彼女に出逢ったのは、緑の豊かな小さな国、秋の終わりだった。
烏の濡れ羽のような美しい黒髪に、雪のように白い肌。
ゆっくりとした所作には優しさが溢れていて、穏やかなその微笑みは鬼の私が目を奪われる程に美しかった。
だが、輝くような美しさというよりは、今にも散ってしまいそうな、儚い花のような娘だった。
初めて私と対面した時、一目で人ではなく妖だとわかったそうだ。
私は鬼だが、見た目は黒髪だし着物も妖が好んで着る大陸のものではなく、そこらの人間と変わらない藍色の着流しを纏っている。
鬼の象徴である角も今は引っ込めているから、何故わかったのかと問えば「雰囲気です」と穏やかな笑みが返ってきた。
何処かふわふわとした浮き世離れした娘だが、どうやら勘は鋭いらしい。
名前は氷鷺と言った。
彼女、氷鷺はこの小さな国を治める殿の傍らにいつもいた。
──まぁ、いつもと言っても殿は忙しく傍にいない事が大半だが、それでも氷鷺は何も言わずにただ静かに時を過ごしていた。
「寂しくないのか」と問えば、「寂しいです。だけど、私はここから離れる事はできないのです」
縁側から月を眺めて囁くようにそう言った氷鷺は、やはり儚げで、今にも消えてしまいそうだった。
ある日、いつものように氷鷺の許にふらりと立ち寄れば、彼女は苦しそうに咳をしていた。
人間は弱い。
「大丈夫か」と身を案じた私に、氷鷺は「ただの風邪です」とコロコロと笑った。
しかし、季節は冬になっても彼女は相変わらずゴホゴホと咳き込み、ただでさえ細かった体が益々細り、見るからにやつれていった。
ただの風邪ではない。
そう思った時には既に、彼女の手の平は赤く染まっていた。
「妖様。私、貴方にお話したい事があるのです」
人間は弱い。
放っておいても勝手に年老い、百年もすれば死んでいく。
悠久に近い、長い長い時を生きる鬼の私にしてみれば過ぎ去る景色の一部であり、気にも留めない瞬く間の命。
人間は弱い。
毒に侵された訳でもないのに、咳をし血を吐き痩せ細り、聞けば不治の病だと言う。
「もう長くはないのか」
「はい」
もう十分だとでも言うように穏やかな微笑みを浮かべて頷く氷鷺は、まだ若い。
何故そうも生き急ぐ。
全てを諦めたように笑いながら。
「残された夫はどうする?」
「さぁ……。また、新しい妻でも娶るのでしょうね」
そして一言、付け足した。
「私はもう十分に生きました。愛する家族の許へそろそろ参りたいのです。いい加減、寂しいので」
氷鷺に出逢って、一月程だろうか。
毎日のように他愛もない話をして、その内殿にバレてしまい、殺気立った家臣達を適当にあしらい、やっと引いたかと思えば何処ぞの名のある寺の坊主を雇われ、私を滅そうと血眼で追ってくるのをあしらう日々。
その間にも氷鷺は衰弱し、いつしか立ち上がる事さえできなくなり、やれ妖に誑かされただの、やれ鬼の祟りだのと言い掛かりを付けられ。
それでも以前と変わりなく気儘に氷鷺の許を訪れていれば、ぽつりぽつりと氷鷺は小さな声で語り出した。
自分は形だけの殿の妻だという事、本当の家族は自分を娶る為に惨殺されたという事、娘を人質に取られ、死ぬ事も逃げる事もできないという事。
──そして、殿が殺したい程憎いという事。
弱り切った体で、か細い声で、しかしその漆黒の眼に強い光を宿しながら殺気を滲ませた彼女は月の光に映えて、とても美しかった。
「夫がひとり、待っているのです」
布団に横たわったまま、天を仰ぎながら氷鷺は静かに微笑んだ。
──それが氷鷺と過ごした、最期の時間だった。