・後編
突如帝都・東京を襲った大地震の混乱が続く中、避難所に集まった人々は不安な夜を迎えた。
当然のことながら電気が止まっているからか、部屋の中も何本もの蝋燭が灯され、そして唯一の明かりとなっていた。
避難場所の隅に座っていた智佐登はその中で一心不乱に帳面を読んでいた。
すると、
「智佐登、智佐登!」
智佐登を呼ぶ声がした。
「あ、お母さん」
そう、智佐登の傍らに母親の真佐代が包みを抱えて立っていたのだ。
「あ、お母さん、じゃないでしょ。お母さんの方も手伝いが終わったから晩御飯持ってきたわよ。…と行ってもおにぎりとたくあんだけだけどね」
そう言うと真佐代は智佐登の前で包みを広げる。
智佐登は今まで読んでいた帳面を閉じるとおにぎりに手を伸ばす。
中には何も入っていなく、味付けといえば周りにまぶした塩だけだったのだが、それだけでも全身に染み込むようで智佐登は有難かった。
考えてみれば地震が起きたのは12時少し前であり、そのあとに避難やらなんやらでドタバタしていたこともあって、朝食以来何も食べていなかったのだった。
それなのに今まで空腹を感じなかったのは、地震ということもあってそちらのほうをすっかりと忘れてしまっていたからだろうか。
「かなり集まって来てるわね」
腹の中に食べ物が入ったこともあって少し余裕が出たか、智佐登が周りを見て言う。
そう、二人が避難したころと比べると、部屋の中にいる人たちはかなり増えた感じがするのだ。
「そりゃあんな地震が突然襲ったりしたら…。けがをした人たちも次々と運ばれてきているし、お医者さんもお薬も全然足りないのよ」
「そう言えば家から戻ってくるときに、あっちこっちで火の手が上がっているのを見たわ」
「まだ火事も収まっていない、って話だからね。…そういえば浅草では十二階が崩れ落ちた、って話よ」
「十二階が?」
明治時代に建設され、当時の東京において名所となっていた建造物で「十二階」と呼ばれて親しまれていた浅草凌雲閣は、智佐登が幼いころに両親に連れて行かれたこともあってか近所にある遊園地「花やしき」とともに思い出の場所だった。
「十二階だけじゃなく、あちこちで建物の被害が広がっているって言うわ。建物に押しつぶされたり、火事に巻き込まれて亡くなった人も多いって。…そういう意味ではお母さん、智佐登に助けられてよかったわ。あの時智佐登が外に出していなかったらどうなっていたか…」
「大したことじゃないわよ。二人とも助かってよかったじゃない」
「そうかもね。…それにしても、智佐登ってだんだんとお父さんに似てきたわね」
「お父さんに?」
「さっき、なんか帳面を読んでいたでしょ」
「う…うん…」
「お父さんもそうだったわ。お父さんと知り合ったのはお母さんが智佐登くらいの歳の時だったけど、そのころからお父さん、時々何か一人で考え事をしていることが多かったのよ。その頃はわからなかったけれど、お父さんと結婚してからはお父さんが何でそう考え事をすることが多かったのかようやくわかったんだけどね」
「あ、あのね、お母さん」
智佐登が言いかけた時、一人の男が智佐登たちの部屋に入ってきた。
「みなさん、変わりはありませんか?」
その声に部屋にいた智佐登や真佐代を含めた全員が男のほうを向く。
「あら、町内会の会長さんじゃない」
真佐代が言う。そう、その男は智佐登たちが住んでいる町の町内会の会長だったのだ。
周りは何が始まるのかささやき合っている。
「まずみなさん、あれから変わりはありませんか? もしお体の具合が悪くなった、とか急を要する方があったら遠慮なく名乗り出てください」
そしてあたりの様子を見まわした会長は、
「本当に今日は皆さん大変だったと思います。聞いた話では町内でも不幸にして亡くなられた方やけがをされた方が出た、とお聞きしておりますが、まずはそういった方々にお見舞い申し上げます。皆さん、ここからはお願いなのですが、夜の間、決して一人では外に出ないでください」
「どういうことですか?」
質問の声が聞こえた。
「実は、いくつかの場所で暴動が起こっている、という話を聞いたんですよ」
「暴動ですか?」
確かにあれだけの地震が起きた後では、いろいろと庶民も混乱してはいるだろう。それにしても暴動を起こすまでになるとは事態はかなり悪くなっているようだ。
「ですので皆さん、暴動に巻きこまれないようにするためにも決して夜に一人で出歩かないようにして下さい。どうしても、という場合は私のところに相談に来てください。そして十分に気を付けて行動してください」
「あの…すみません」
智佐登が立ち上がった。
「あ、防人さんのところの…。どうかしましたか?」
「いえ、その、何か気になることがあって」
「気になること?」
「はい。何か暴動で情報が入ってきてるかどうか聞きたくて」
「さあ、ちょっとそこまでは。…今日の夜遅く、遅くても明日の朝には警察の方が来るということですので、その時に詳しい話を聞いてみます」
「お願いします」
そういうと智佐登はぺこり、と頭を下げた。
*
夜が遅くなり、そろそろ日付も変わろうか、という頃になったが、避難所の中で寝ているのは、幼い子供たちばかりで、ほとんどの被災者は眠れぬ夜を過ごしていた。
不意に智佐登の傍らに町内会長が近づいてきた。
「…防人さん、防人智佐登さん」
町内会長が小声で智佐登に呼びかける。
「あ、はい!」
その声に智佐登が立ち上がる。
「ちょっといいですか?」
「え、ええ」
「お母さん、ちょっと智佐登さんお借りしますね」
町内会長は真佐代にそう言うと智佐登を廊下に連れ出した。
「実は智佐登さんにも聞いてほしいお話がありましてね」
「聞いてほしい話ってなんですか?」
「いえ、先ほどこちらに来た警察の方に聞いたんですが、住民の暴動が起こっている、という話はしましたね」
「はい」
「いや、実はその暴動を起こしている人物の中に何やら怪しい人物がいた、という話を聞いたのですよ」
「怪しい人物?」
「はい。警察のほうで何人かを逮捕したそうですが、話を聞いてみるとこの機に乗じて政府を転覆させようとかなんとか男に煽られた、というんですがね」
「男に煽られた?」
それを聞いて智佐登は先ほど読んだ帳面の内容から思い当たることがあった。
60年前に祖父が、18年前に父が会ったという「あの男」阿那冥土は確か祖父の時には尊皇か攘夷かで揺れる幕末の京に現れ、そして父の時は露西亜との戦争に勝ったものの、賠償がないことに起こった民衆が暴動を起こした横浜に現れ、民衆に時の幕府や政府転覆を煽っていたはずだ。
「…だとしたら…」
智佐登がつぶやいた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。どうもありがとうございました」
そう言うと智佐登は町内会長に向かって頭を下げる。
*
ついウトウトとしてしまっていたのだろうか。
「…!」
真佐代がふと目を覚ました。
ろうそくの明かりの中に浮かぶ時計を見るとまだ午前3時を少し回ったころのようだ。
そして真佐代はあたりを見回す。
「…智佐登!」
そう、隣にいたはずの智佐登がいなくなっていたのだ。
「…智佐登、智佐登?」
真佐代が辺りを見回すと、傍らに1枚の紙が置かれてあった。
それを拾い上げる真佐代。
その紙には、
「 お母さんへ すぐに戻つて來ます。 智佐登 」
とだけ書かれてあった。
その文を見たとき、真佐代は智佐登が何をしようとしているのかを悟った。
そして智佐登が避難所に戻ってきたときから何を考えていたのか、ということも。
「…やっぱり智佐登はあの人の子供だったんだわ」
真佐代は遥かかなたの巴里にいる夫の顔を、そしてその夫・防人忠孝が18年前に遭遇した、という出来事を思い浮かべた。
真佐代も母親であるから自分の娘を危険な目に遭わせたくない、という気持ちを持っていたが、しかし智佐登は自分でその運命を受け入れ、そしてその時が来たら自分が戦わなければいけない、ということを決めていたのであろう。
そして今、智佐登はその「運命」に立ち向かっていったのだ。
「…智佐登、無理はしないでね」
*
智佐登は明かりひとつないくらい道を歩いていた。
あちらこちらで火の手が上がっているのか、まだ遠くでは空が赤く染まっており、そしてあちらこちらで夜を徹して生き埋めになった者たちの救出作業が進んでいた。
しかし智佐登はそれにも目をくれず、道を進んでいた。
どの位歩いただろうか、智佐登の目の前を一人の男が歩いているのが目に入った。
黒っぽい服を着ていた等で、最初はわからなかったが、確かに一人の男が歩いている。
その後ろ姿を見た瞬間、智佐登はその男が目指す相手だというのを悟った。
なぜかはわからないが、そのような直感を覚えたのだった。
「…待ちなさい」
智佐登が男に向かって呼びかける。
しかし男は智佐登の声が聞こえないかのように道を歩いている。
「待ちなさい、阿那冥土!」
智佐登が叫ぶと男が足を止めた。
「やはりね。そんな気がしたのよ」
智佐登がそう言うと男が振り返った。
「…小娘。なぜ、私の名を知っている?」
そう、目の前の男は智佐登が思った通り、祖父、そして父が出会ったという阿那冥土であることは間違いがなかったようだ。
「あたしは小娘じゃないわ。防人智佐登って名前があるのよ!」
「防人だと? …まさか、防人忠孝の娘か?」
「あら、お父さんのことを知っているのね。あなたがお父さんのことを知っているように、あたしも小さいころから、会ったことはないけれど、あなたのことを知っていたのよ」
「そうか…」
「いったいあなたの目的はなんなの?」
「目的、だと?」
「失礼ながらあなたのことはいろいろと調べたのよ。60年前、おじいちゃんの前に現れた時には尊皇派や攘夷派を煽って京の都を不安に陥れた。18年前、お父さんの時には日露の講和に反対した民衆を扇動して暴動を起こさせた。そして今回は地震が起きた混乱に乗じて民衆をけしかけて暴動を起こさせる。…いったいあなたはこの日本をどうしようと思っているの?」
「そんなことを知って何になる?」
「あなたをその醜い野望を止めるためよ。それが防人の血を持って生まれたものなのだから!」
そういうと智佐登は神剣を引き抜いた。
「ほほお、相手になるというのか。…よかろう、かかってこい小娘!」
智佐登は何も言わずに神剣を上段に構えると切りかかった。
しかし阿那冥土は何も言わずにその刀をかわした。
(この男、できる!)
そう、これまで何人もの人間を(たとえ木刀や竹刀とはいえ)相手にしてきた智佐登はその動きで相手の力量を悟るくらい訳のないことだった。
そして智佐登は神剣を握りなおすと切りかかる。
「なかなかできるな、小娘」
阿那冥土が言うと智佐登に向かって腕を振り下ろした。
次の瞬間、智佐登は阿那冥土の体に飛び込むと横に真剣を払う。
「何っ!」
咄嗟に阿那冥土が交わしたため致命傷には至らなかったが、右腕を傷つけたか、右腕から血が流れ出る。
「くっ…」
その瞬間を見逃す智佐登ではなかった。
「せいやあっ!」
そう叫ぶと智佐登は大上段から神刀を振り下ろす。
(…決まった!)
智佐登がそう思った時だった。
「…え…」
そう、刀身が顔まであとわずか、というところで阿那冥土が開いたほうの左手で刀身を止めていたのだった。
(…この男、できる…)
そしてしばらくの間二人は睨み合っていた。と、
「…ここまでだ!」
そう言うと阿那冥土が神剣を払った。
「なかなかやるな、小娘。いや、防人智佐登といったな。お前の祖父や父親に引けを取らぬ剣の腕前を持っていることは認めよう。だが、まだまだ私を倒すことはできぬ」
「…なんですって?」
「私はお前たち想像もつかないくらい長い時間を生きてきているのだ。そう簡単には倒せはしない」
そういえば祖父の代から数えて60年という月日が経つというのに、阿那冥土の顔はちょてもその歳を重ねているとは思えない顔だったのだ。
「今日はここまでにしおこう。でも忘れるな、私はまたお前たちの前に必ず現れる。それがいつになるかはわからないがな」
そういうと阿那冥土は智佐登に背を向け暗闇の中を走り出した。
「待ちなさい!」
そう言うと智佐登は後を追ったが、すでに姿は見えなくなっていた。
「く…」
あと一歩のところまで追い詰めながら倒すことができなかった智佐登は奥歯をかみしめる。
「…覚えてなさい、阿那冥土。必ずいつか、あなたを倒して見せる」
そして智佐登は神刀を鞘に納め、踵を返すと今来た道を引き返した。
周りは明るくなり、夜が明けようとしていた。
(エピローグに続く)
(作者より)この作品に対する感想等がありましたら「ともゆきのホームページ」BBS(http://www5e.biglobe.ne.jp/~t-azuma/bbs-chui.htm)の方にお願いします。