・前編
智佐登は街を歩いていた。
そこには普段と変わりない街の風景があった。
しかし、智佐登は何か不安な気持ちを持っていた。
(…なんだろう…、この気持ちは)
不意に智佐登の足元が大きく揺れだした。
「じ、地震だわ!」
そして次々と建物が崩れていく。
そしてあたり一面が瓦礫の山と化す。
「ひどい…」
思わず智佐登はその場にしゃがみ込んだ。
その時、
「…誰?」
智佐登は不意に自分の前に何者かが立ちふさがっているのに気が付いた。
智佐登が顔を上げると一人の大男がそこに立っていた。
逆光になっているからか、顔はよく見えない。
「あ、あなたは…」
男は何も言わず、智佐登に向けて刀を振り下ろした。
*
「きゃあああっ!」
そう叫ぶと智佐登は思わず飛び起きた。
「はあ…はあ…はあ…」
そして智佐登はあたりを見回す。
そう、部屋の中は何の異常もなく、ただ部屋の中に智佐登が寝ている布団が敷いてあるだけだった。
「…また、あの夢か…」
そう、智佐登はここの所毎晩のように同じ夢を見ているのだった。
「…どうしてだろう。ここのところ毎晩同じ夢を見るわ…」
*
「ふああ…。おかあはん、おはよう」
1923(大正12)年8月31日、朝。
智佐登は大きくあくびをしながら真佐代に話しかける。
「智佐登、女の子がみっともないわよ!」
真佐代が言う。
「…ごめんなさい。でもなんだかよく眠れなくて…」
「また、あの夢を見たの?」
「うん」
「…それにしても、なんで毎日そんな夢を見るのかしらね…」
「それがわかればあたしだって苦労しないわよ」
そういいながら智佐登は壁にかかっている暦を見る。
「…今日は8月31日か…」
「それがどうかしたの?」
「ん? いや、なんでもない」
「…こんな時にお父さんがいればね…」
真佐代が呟く。
「でもお父さん、あと二、三か月は帰って来られないんでしょう? あたしは大丈夫だから心配しないで」
そう、智佐登の父親である防人忠孝は今、仏蘭西の巴里に行っていているのだ。
「そりゃあ智佐登は小さいころからそういうところがあったからいいけれど、お母さんもいろいろと心配なところがあるのよ」
*
「…はっ! …はっ! …はっ!」
智佐登が庭で木刀の素振りをしていると、
「智佐登、お茶が入ったわよ」
真佐代の声が聞こえた。
「あ、はい。今行くわ」
そして智佐登は家の中に入ると、真佐代が差し出した手拭いで汗を拭く。
智佐登は物覚えがついて間もないころから「自分の生まれた宿命」を知っていたからか父親の義孝と一緒に木刀の素振りや剣術のけいこをずっとしていたのだった。
そのためかどうか知らないが、こうして毎日鍛錬を繰り返していることで、今では剣術の腕前も同年齢の男子に引けを取らないくらいになっているのだ。
「それにしても、最近智佐登の素振りを見ていると、ずいぶんと力が入っているようね」
真佐代が言う。
「…そんなことないわよ」
そうは言うが、智佐登はここ数日心のどこかで不安を感じているのは事実だった。
なぜだかはわからない。今父親がこの場にいない、と言っても母親と一緒にいるのだから不安はないはずなのだが、それでも今の自分のこの平和な生活がある日突然崩れ去ってしまうのではないか、そんな不安があったのだった。
そしてそれを振り払うべく稽古をしているのだが、もしかしたらそれが母親の目には「力が入っている」と見えるのかもしれない。
「…智佐登、何考え込んでいるの?」
真佐代が話しかける。
「あ、いや、なんでもない。もう少しやってからお手伝いするから一寸待っててね」
*
9月1日。
明け方に降っていた豪雨が止み、厳しい残暑となったその日。
「ちょっと出かけてきまーす」
「お昼までには帰ってくるのよ」
「はーい」
そう言うと智佐登は外へ出て行った。
そして智佐登は街に出たが、何をするわけでもなく、道をフラフラと歩いていた。
と、その時だった
「…?」
不意に智佐登は立ち止った。
そしてあたりを見回す。
しかし、周りには誰もいない。
「…なんだろう?」
そう、智佐登はさっきから何者かが自分を見ているような感じがしたのだ。
智佐登は首をひねり、再び歩き出した。
*
智佐登は近くにあった時計を見る。
12時10分前を少し過ぎたところだった。
「あー、もうすぐお昼か。お母さん待ってるだろうな」
そして智佐登はしばらく歩いていたが、すぐに立ち止まった。
そう、またあの「視線」を感じたのだった。
智佐登は次第に自分の心の中で広がっている不安を振り払うかのように歩き出した。
そして家の前に来た時だった。
なぜか智佐登は家の中に入るのがためらわれた。
(…どうしてだろう?)
例の「不安」が家の中に入るのをためらわせているのか。
(そうよ、きっと気のせいよ)
そして家の中に入ろうとした時だった。
(…!)
智佐登は何か地鳴りのようなものを聞いた気がした。
(…まさか!)
智佐登は家の玄関を開けると、
「お母さん!」
家の中の真佐代を大声で呼んだ。
「智佐登、なんですか」
そう言いながら、真佐代が玄関の前にやってきた。
「すぐに外へ出て!」
「…どうしたの、いきなり」
「とにかく外へ出て! 早く!」
そう叫ぶと智佐登は真佐代の手を引いて表へと出た。
「いったいどうしたの、智佐登」
真佐代が来たその時だった。
不意に大きな揺れが二人を襲った。
「あっ、地震よ!」
「お母さん、しゃがんで!」
そう言うと智佐登は真佐代を座らせる。
その瞬間、激しい揺れが二人を襲い、周辺にあるものが次々と崩れ始めた。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の地震が関東地方を襲った。
これが後の世でいう「関東大震災」である。
*
揺れが収まった後もしばらく二人は茫然としていた。
すると、
「防人さん、大丈夫ですか?」
隣の家の女性が真佐代に話しかける。
その声に真佐代が気づくと、
「え、ええ。私も娘も大丈夫です」
「それはよかった。…そこの尋常小学校が避難場所に指定されたそうです。町内の人たちはみんなそこに避難してください、とのことです」
「わかりました、すぐ行きます。…智佐登、行くわよ!」
しかし智佐登はその場にじっとしたままだった。
「智佐登!」
真佐代の呼びかけると智佐登は、
「お母さん、先に避難所に行ってて! あたしも後で行くから」
「ちょ、ちょっと…」
「おばさん、お母さんをお願いします!」
真佐代の返事も聞かず、智佐登は家の中へと入っていった。
*
「…ひどい…」
智佐登は家の中を見て思わずつぶやいた。
そう、家の壁のあちらこちらにひびが入っており、箪笥や机が倒れ、その辺にいろいろなものが散らばっていたのだった。
智佐登は足元に気を付けながら自分の部屋に向かう。
自分の部屋もまた散らかり放題だった。
「えーと、あれは…」
智佐登は部屋の中を見回す。
「…あった!」
机の下から神剣を見つけるとそれを引っ張り出した。
なぜかわからないが、今の自分に一番必要なもののような気がしたのだ。
智佐登は鞘の中から刀身を引き出す。
あれだけの地震があったというのに刀身は全く変わらない輝きを持っていた。
「あとは…、と」
智佐登は鞄や風呂敷を探し出すと、その中に身の回りの物をかき集めて入れる。
あらかた荷物をまとめ、部屋を出ようとして忘れ物はないか、と見回した時だった。
「…?」
智佐登の目がある一点で止まった。
そう、床に散らばったものの中から一冊の帳面が目に入ったのだ。
「…あれは?」
そう、自分が子供のころに父親の忠孝が「将来必ず役に立つ」ということで智佐登にくれた帳面だったのだ。
智佐登は帳面を拾うと何頁がめくる。
「…これは…」
その時だった。
「智佐登ちゃん、何してるんだい!」
玄関のほうで声がした。
智佐登が声のした方向を見ると、近所に住んでいる男性が立っていた。
「あ、おじさん」
「お母さんが避難所で心配しているよ。それに通りも人がいっぱいでこのままだと逃げられなくなるから、早く避難しなさい!」
「ごめんなさい。今行きます!」
そう言うと智佐登は帳面を鞄に入れると、荷物を抱えて家を出た。
*
智佐登が避難所に行くまでの間、通りは大勢の避難しようとしている住民でごった返しており、ようやく避難所にたどり着いた時も大勢の人がそこにいた。
「智佐登、大丈夫だった?」
真佐代が話しかける。
「うん、あたしは大丈夫。あと、これだけしか持ってこれなかったけど…」
そういうと智佐登は家から持ってきた荷物を真佐代に差し出す。
「こんなことしなくていいのに。…それは?」
真佐代は智佐登が持ってきた刀に気が付いた。
「うん。なぜか持ってこなきゃいけないような気がして…。お父さんだって『どんなことがあってもこれだけは手放すな』って言っていたし…」
*
二人が避難所に逃げてきた後も次から次へと避難民や負傷者が運び込まれてきた。
そんな彼らの話を聞いているとどこそこで火事が起こっている、とか建物が崩れた、とかいうことでどうやら今までにない災害らしいということがわかってきた。
「すみません、ちょっと手伝っていただけませんか?」
智佐登たちのいる部屋で一人の女性が呼びかける。
「はい、わかりました」
真佐代が立ち上がった。
「お母さん、あたしも行くわ」
智佐登が立ち上がりかけるが真佐代は、
「智佐登はここで荷物の番をしてて」
そう言うと何人かの女性と共に部屋を出て行った。
「…そうだ、あの帳面!」
智佐登は鞄の中から帳面を引っ張り出すと再び頁をめくり始めた。
それには彼女の父親である忠孝と祖父である悌仁が若いころに会った一人の男とのことが書かれてあった。
「…阿那冥土…」
智佐登はその帳面にたびたび出てくる男の名を呟く。
60年近く前に祖父が、自分が生まれる少し前の18年前に父親が会った男のことは智佐登も小さいころから聞かされていた。
「…なんか気になるな」
なぜ急にその男のことが気になったのか、60年前に現れ、そしてまた18年前に突如祖父や父親の前に現れ、姿を消した男が今度は自分の前に現れるというのだろうか?
まさか、ここ最近自分の見ている夢や今回の地震とその男が関係するというのだろうか?
「…そんな、馬鹿なことは…」
しかし智佐登は自分の心の中の不安を打ち消すことができなかった。
(後編に続く)
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