彼女は援助交際
熟れ過ぎた、赤いトマトにかぶり付く。
汁が無骨な指を流れ、手首を染める。
置いてきたはずの夏の味がして、オレは泣いた。
『彼女は援助交際』
小林由香という女がいる。
援助交際をしてるという。
この間の金曜日に、隣のクラスの女子が40代位のサラリーマンと一緒にいるのを見たらしい。
今朝から、学校はその話題で持ち切りだった。
クラスの女子は汚い言葉でこそこそと彼女を罵り、男子といえば彼女の身体を蛇のようにいやらしく見つめた。
休み時間になれば違うクラスの人間も面白がって彼女を見にやって来た。
まるで、見世物小屋のそれだった。
――昼休み。
屋上に上がって一人でパンをほうばる。
最近の、オレの日課だ。
友達がいない訳ではない。
たまにはこうやって、錆びた手摺りの、ひびわれたコンクリートの屋上で、一人でいたい時もある。
パックのカフェオレを飲みほすと、重い扉が開く音がした。
「――先約、がいたか」
少し低めのハスキーボイス。
小林だった。
パックの牛乳を持ち、所々赤茶色になった白い扉を足で押し開ける。
少し色素の薄い肩まである髪が、風にそよいで揺れた。
スカートと、紺色のハイソックスの間から見える白過ぎる足は、初冬の風に吹かれてその白さを更に際立たせている。
ノーメイクに等しいその素顔は、そこらのどの女よりも美しかった。
「――パンツ、見えるぞ」
手摺りに寄り掛かっていたオレの元に近付いてくる小林に、ぶっきらぼうにそう言い放った。
「――見たいの?」
にぃっと小林は笑い、オレの隣に身を落ち着かせた。
校庭の上空を、何匹ものアキアカネが飛んでいる。
空が、高い。
「――井川。井川健介」
「――…は?」
彼女に、小林由香にフルネームで呼ばれたのは一年と二年で同じクラスになって以来、初めてな気がした。
「…あんたは、聞かないの?」
「え?」
「あたしに。みんなは、聞きたくてうずうずしてる」
小林由香という女がいる。
援助交際をしてるという。
「――別、に」
小林に向けていた顔を、再び飛んでいるアキアカネに戻した。
「あんたって、変わってる」
「…どっちが。よっぽど小林の方が変わってる」
この年代の女子の割には妙に大人びていて、決して他の人間と群れたりしない。
成績だって国立大にいける程なのに、あまり授業には顔を出さないし。
それに、
「――援助交際、してるから?」
くすり、とまた笑った。
彼女には、不思議な魅力がある。
みんなが一目おく存在。
人と違うから、みんなと同じじゃないから、周りは遠くから見ることしか出来ないんじゃないかと、オレは思う。
「――あたしが、どんなことしてるか、気にならない?」
そう言って小林は、オレの右手を強く掴んだ。
持っていたカフェオレのパックが静かに落下する。
そして、オレの手を、自分の胸へと押し付けた。
「――こ、林…ッ!!」
オレは慌てて手を振り解く。
心臓が、じんじんする。
白くて細い割に、膨らみの大きかった小林の胸の感触が、まだ手に残ってる。
心臓が、ぶっこわれそうだ。
風が、強く吹く。
小林の髪が、乱れる。
シャンプーの香りが鼻をくすぐる。
そして小林は、柔らかく、笑う。
「――井川ぁ」
「ッ…なん、だよッ…」
「あたしねぇ。あんたのこと、結構好きよ」
意地悪な風がまた吹いて、オレの気持ちを掻き乱した。
――次の日だった。
小林が、退学届けを出したのは。
いつものようにオレが屋上にいると、校庭をスーツを着た男と歩く小林の姿が見えた。
男に大事そうに支えられ、ゆっくりと歩く。
小林は、校門を出るとこっちを振り返って、大きく、何度も何度も手を振った。
オレはただそれを、二人がいなくなるまで見つめた。
クラスに戻ると、また女子が噂をしていた。
あの援助交際の相手とできちゃった、とか。結婚する、とか。風俗で働く、とか。
何が本当なのかは、誰にもわからない。
けど、オレは知ってる。
手を振っていた時の小林は、とても幸せそうだった。
――オレは、静かに瞳を閉じた。
昨日、小林と屋上で過ごした短い時間を思い出すように。
瞼に、アキアカネの赤が焼き付いて離れない。
小林由香という女がいる。
オレの、好きだった女だ。
end.