天馬が空を飛んだ日
明るくて前向きな話を書こう、というのがコンセプトでした。
自分では結構うまくいったかなあと思っています。実際どうかは正味よく分からないのですが。
暗い話の気配がすると絶対ダメ、という方は避けたほうがいいかもしれません。
それは昔々の物語。
月と星とが語り合い、獣と鳥とが笑い合い、魚と木々が心を交わし合っていた、そんな頃のお話です。
*
広い広い草原の真ん中、見渡す限りの緑に囲まれて、たくさんの馬と、もっとたくさんの蛇たちが暮らしていました。
彼らは蛇つかいのおじいさんに育てられ、のびのびとした日々を送っています。その中に一頭、少しだけ自分に自信のない、けれど、きれいな白の毛並みを持った子馬がいました。
四頭家族の次男坊として生まれたこの白馬は、やさしい兄とおおらかな両親、そして気のいい仲間たちと一緒に、広い草原を駆け回ったり、色んなことを教わったりして、楽しい日々を送っていました。
白馬は外の世界に出たことはありませんでしたが、彼はここいるだけで、十分に幸せでした。
(素敵な家族と仲間に囲まれて、僕は幸せ者だ。でも……)
ただ、たった一つの悩みを除いては、ですが。
「僕は何なんだろう?僕はなぜ生まれてきたんだろうか?」
それはしばらく前から考え始めた悩みで、数え切れなくなるくらいに太陽が行き来をするあいだ考えても、答えが出せなかった悩みでした。
お兄さんのように早く駆けられるわけでもなく、
お父さんのように力が強いわけでもなく、
お母さんのように優しいわけでもなく、
おじいさんや蛇たちのように賢いわけでもない。
だとすれば、自分が生きている意味は何なのだろうか。
自分には何ができるのか、何をするために生まれたのか。
「……僕は僕で、他の誰かじゃない。
他の誰かのようにはなれない」
それは、とても不安なことでした。
不安で不安で仕方が無くて、でも自分では解決ができなくて。だから白馬はとうとう決心して、三歳の誕生日を迎えたその日の夜、他の人たちに悩みを打ち明けることにしました。
「兄さん、兄さん。
僕はなぜ生まれてきたの?」
「それは、みんなや神様に望まれたからだよ」
「うーん……でも僕、何をして生きればいいのか分からないんだ」
「そういうことなら、お父さんに相談してみなさい」
お兄さんは、そう言って去っていきました。
「お父さん、お父さん。
僕は、何をして生きていけばいいの?」
「…それは、お前が決めるべきことだよ。
自分の望んだ道を進みなさい」
「うーん……でも僕、何が自分のしたいことなのか分からないんだ」
「そういうことなら、お母さんに相談してみなさい」
お父さんは、白馬をお母さんの下へ連れて行きました。
「お母さん、お母さん。
僕は、自分が何をしたいのか分からないんだ」
「……それは、自分の足で歩いて見つけなさい。
そうね、旅に出るといいわ。私は少し寂しくなるけれど」
「うーん……でも僕、ここから外に行ったことないよ」
「そういうことなら、おじいさんに相談してみなさい」
お母さんは、おじいさんを呼んできました。
「やあやあ白馬君、旅に出たいそうだね」
「うん、僕は、僕が生きている意味を探しに出たいんです」
「なるほどのう……ならば、北西に駆けていきなさい」
「その後はどうすればいいんですか?」
「森を出て、髪の毛の谷を抜け、北西の果てにいる水瓶を持った女神と、アンドロメダと、白鳥を探しなさい。きっと相談に乗ってくれるだろう。わしや蛇の専門は医術だから、君の望む答えをわしが与えてやることはできんのじゃ」
柔和な笑みを浮かべたおじいさんは、白馬に旅の道具を与えました。白馬の背中に旅の道具を乗せると、おじいさんは改めて白馬に語りかけました。
「白馬君、森を通るには日が沈む前でないと危ない。夜の森には犬が出るからのう。
じゃから、朝早くに出発した方がいいじゃろう」
「分かりました、すぐに出ます」
「うむ……気をつけていくのじゃよ。
とはいえ、その前にみんなへ挨拶をしていった方がよい。
今、平原のみんなを呼んでこよう」
おじいさんはにっこり笑って、白馬に少し待つように言います。そして、どこかへ行ってしまいました。
*
やがて白馬が気づくと、草原に住むみんなが、白馬を見送りに集まっていました。みんなの励ましに、白馬は少し照れくさくなりましたが、それ以上に勇気づけられました。
(少し怖かったけれど、もう後にはひけないな)
そう思うと、不思議と白馬も覚悟が決まりました。旅に出て、答えを見つけて、きっと帰ってくる。白馬はそう固く誓ったのでした。
「さて、そろそろ夜明けだ。行きなさい、白馬君」
「うん……」
白馬はおじいさんにうなずいて、
「それじゃあ、お母さん、お父さん、兄さん。
行ってきます!」
そう元気よく言い放ちました。朝焼けの中を、矢のような速度で白馬は走り始めます。
「大丈夫かしら、あの子……」
「なに、俺たちの子どもだ。きっと元気で帰ってくるさ」
白馬のお父さんとお母さんは、白馬の駆けていった先をじっと見続けていました。
いつまでも、いつまでも。
「はあ、はあ……」
一方、最初から全速力で走り出した白馬でしたが、すごい速度で走ったものですから、すぐに息が切れてしまいました。しかし、自分ではそれに気づかないのか、どんどんと速度を上げます。
そして、草原から五キロも離れた頃、白馬はようやく自分が疲れていたことに気づくのでした。
「ああ、疲れた。でも……」
速度を遅くしようと思った白馬でしたが、少し悩んでしまいました。いきなり走り出したのは、勢いをつけて走り出さないと引き返したくなるから。悩んでいるのは、引き返したくなる気持ちを自分で分かっていたからでした。
しばし悩みながら、それでも速度をできるだけ緩めず駆けていると、ふと何かの声が聞こえた気がしました。
「ん、あれ、これって」
思わず立ち止まった白馬の周りには、たくさんのポプラが生い茂っていました。ポプラは風に乗せて、白馬に声を届けます。
「白馬君、白馬君。あなたは何を怖がっているのかしら?」
「ポプラの木……でも、僕は」
「進みなさい、白馬君。あなたならできるわ。だって、あなたは自分で最初の一歩を踏み出すことができたんだから。
最初の一歩が一番大変なの。それをあなたは成した。
だったら、自分を信じてあげて」
「………………」
「ここは私たち、ポプラの森。私たちの花言葉は『勇気』。
だから、あなたも勇気を出して。
大丈夫、森にいる間、あなたには私たちがついているわ」
「……ありがとう」
「どういたしまして。がんばってね、白馬君」
うん、とポプラに肯くと、落ち着いた白馬は駆け足ほどの速度で再び進みだしました。
一番初め、に駆けたこともあって、恐ろしい猟犬に遭うこともなく、夕方には無事に髪の毛の谷の入り口へとつくことができたのでした。
*
「……うわ、すごい。ここが、髪の毛の谷、か」
夕焼けを背に負って、白馬は髪の毛の谷を覗き込みました。
髪の毛の谷はとても深く、夕日の光すら、谷の上半分を照らすことができているだけのようです。
覗き込んでいると、不意に何かの音が聞こえました。それは紛れも無く、白馬も使っている、この地方の言葉です。
気になった白馬が言葉の主を探しに行くと、思わぬものに出くわしました。
「……これ、岩?」
どう見ても、それは喋る岩でした。
喋る言葉はまちまちでしたが、どれもあまり気持ちのいいことを喋ってはいませんでした。
「くそ。おれはえらいんだぞ」「おれが本気を出せばなんだってできるんだ」「おれは勉強ができたんだ、あんなやつらよりずっと…」「おれはできないんじゃない、やらないだけなんだ」「なんでおれが認められないんだ……」
それは世界に対する恨みつらみのようでした。白馬は彼らに話しかけてみようと思いましたが、彼らは恨みを吐き出すばかりで、白馬のことに気づくことはありませんでした。
「どうしようかなぁ……」
今日はここらで野宿するつもりだったのですが、その許可を取ることもできません。
と、途方にくれている彼に、一つの岩が話しかけました。
「やあやあ見知らぬ馬君。こんなところにどうしたんだい?」
「あなたは?」
「ぼくらはイワナビ(Iwannabe)。罪人だよ」
「罪人……?なにをしたんですか?」
少しおびえた様子の白馬に、イワナビは苦笑しました。
「何もしなかったんだよ。それが僕らの罪だ」
「……そんなことって、あるんですか?何もしないのに罪に問われるなんて!」
「君には分からないかもしれないね。願うばかりで何もしなかった。自分の手で何かをつかもうとしなかった。
だから僕らは、何もできない岩に変えられたんだ」
「そんなの……」
「ひどくはないよ。僕らにはお似合いの末路さ」
顔も身体も手足もないイワナビでしたが、その声が自嘲の色を含んでいることは、白馬にはよく分かりました。
「それより、もう日没が近い。旅の途中なんだろう?
僕に寄りかかって寝るといい、ここなら暖かいから」
「分かりました、ありがとうございます」
何もしない罪、という意味が分からない白馬は少し釈然としない気分でしたが、素直に好意に甘えることにしました。
その日の夜は、大きな満月がよく見えていて。森の奥の草原から見た景色を思い出した白馬は、なんだか少し眠れなさそうでした。
「……眠れないのかい?」
そんな白馬の様子を見て、ふとイワナビが白馬に話しかけました。
「ええ…」
「ふむ、そうかそうか、実は僕もなんだ。
よければ話し相手になってくれないかな」
「え……いいんですか?」
「いいも何も、僕は君にお願いしている立場だよ?」
「あ、はい、よろしくお願いします」
そうは言うものの、イワナビが白馬を気遣って話しかけているのは、間違いありません。
「いやいや、そう固くならず。
そうだな、もし君がよければ、でかまわないんだが。
君が旅をしている理由を聞かせてくれないか?」
「かまいませんが……」
白馬は語りました。
自分は森の奥の草原で暮らしていたこと。
周囲と比べて、自分があまりにも平凡に思えたこと。
自分の生まれた意味、生きている意味が分からなくなり、家族に相談したら、旅に出るように言われたこと。
全部を話し終わったとき、イワナビは先ほどと違った、やさしい笑い声を上げていました。
「ふふ、君は勇気があるんだね」
「ええっ、そんなことはないですよ」
「謙遜しなくていいんだよ。君は自分の意思で歩き出した。
それはとてもとても素晴らしいことなんだよ」
イワナビの声は何処までもやさしくて。あるいはそれは、自分の経験や、自分にできなかったことを子どもに託す、父親のような心境だったのかもしれません。
「……よく、分かりません」
「今は分からなくてもいい。でも、覚えておいて欲しいんだ。
僕らは“I wanna be”しか……願うことしかできなかった。でも、それじゃあダメなんだ。大事なのは“I will be”だ。
――自分の意志をもつことなんだよ」
「自分の、意志……」
「そう、意志だ。意志を持って行動することは、自分の芯になる。芯は信念になって、信念は君の生きる法になる。
大事だと思ったことなら何でもいいんだ。運動でも、勉強でも。家族や友人を誇りに思うことでもいいし、約束や決まりごとを大切にすることでもいい」
「何でもいいの?」
「何でもいいのさ。大事なのは、自分の意志でそれをすることだ。意志を法にした者は……強い。
身体ではなく、心がね。めったなことでは折れない」
「そうしてなければ、折れてしまうの?」
「……僕らは折れたのさ。法を持たない者は、たやすく折れる。そう、髪の毛のようなものだよ。芯がないから、あっさり切れてしまうのさ。そして切れてしまったら、何もできなくなった。馬君はそうはなってはいけないよ」
「……よく分からないけれど、分かった」
「ああ、それでいい。
さ、もう夜も遅いからね、寝るといいよ」
*
翌朝早く、白馬は出発する準備を済ませました。白馬は名残惜しかったのですが、そうした方がいい、とイワナビが勧めたのです。
「あの……ありがとうございました」
「いや、僕は何もしてはいないよ。『われわれは人に何も教えることはできない。できるのは、その人自身が自分で見つけるのを助けることだけだ』さ。僕の話で、君が何かに気づけたのなら幸いだ」
「何かが……まだはっきりとはしていませんが、何かが見えてきたような気がします」
「そうか、それなら僕も話をした甲斐がある。
さて、北西に走るんだったね。それなら、ちょうどここから一日ほど北西へ移動した辺りに大熊がいる。
彼に会っていくといいだろう」
「大熊ですって?!大丈夫なんですか?
僕なんかあっという間に食べられてしまいそうですけど」
「ああ、そうすることはできるだろうね。赤子の手をひねるよりも簡単に、彼は君を殺して食べてしまえるだろう。
それでも彼は、絶対にそうしない。それが彼の法だからさ」
「法、ですか」
「うん、そうだ。彼なら一晩くらいは泊めてくれるだろう」
「分かりました。
それじゃあ、大熊さんの住処を目指してみますね」
「ああ、気をつけるんだよ」
「はい!本当に、ありがとうございました!」
元気よく返事をして、白馬は一直線に駆けていきます。それを見届けると、動けないイワナビは白馬の無事と成功を願って空を見上げました。それは何もかもできなくなった彼にもできる、唯一つのことでした。
谷を越えると、あとは荒野がずっと続いていました。
草原に生まれ、暮らしていた白馬には走りづらい場所ではありますが、持ち前の前向きさと、馬としての能力が白馬を支えました。
「うん、大分慣れてきた。草のないところって、普通と違う走り方をしなきゃいけないんだなぁ」
走って、休んで、また走って、時々、荷物からご飯を取り出して食べて。一人でいると、少し寂しさがぶり返してきましたが、それを振り払って駆け抜けて。
そうして二〇里ほども進んだ頃でしょうか、白馬はとうとう、荒野の終わりにたどり着きました。目の前に広がる草原にしばし目を奪われる白馬でしたが、草原と荒野の境目に、ぽつんと一つだけ存在する洞穴に気づきました。
なにやら、中から声が聞こえてきます。
「たいぎぃー……」
「お父さん!もう、いい加減にして!」
「……あのー、どうしたんですか?」
生き物の気配に誘われて、白馬は思わず声を掛けていました。地下へと続いている洞穴に入ることはできませんでしたから、入り口に立って、暗闇に向けて声を上げます。
「怪しいものじゃありません。僕、猟犬の森の奥に住む白馬です。今は旅の途中です」
そう名乗りを上げると、暗闇の中から大きな影が這い出てきました。それはそれは立派な大熊です。
思わず悲鳴を上げそうになった白馬でしたが、やさしげな目を見るとあわてて自分の口をふさぎました。どうやら、イワナビの言っていた大熊のようです。
「んー、猟犬の森の奥の……?
ってことは、アスクレピオスさんのところの」
「あすくれぴおす?」
白馬には聞き覚えのない名前でした。
「ああ、へびつかいのおじいさんの名前だよ。
知らなかったのか?」
「僕、ずっとおじいさんって呼んでたから……」
家族同然のおじいさんの名前をはじめて知ったことに気づいて、白馬はちょっと恥ずかしくなりました。
「で、そのアスクレピオスんとこの馬がこんなとこまでどうしたんだ?旅の途中、とか言ってたが」
「北西の果て、水瓶を持った女神と、白鳥と、アンドロメダのところまで行くんです。それで、髪の毛の谷のイワナビさんに、此処へ寄るといい、って言われて」
「……そうかい。ならここで野宿していくといい。
だが、かまってやるこたぁできんからな。悪いが、今は誰の面倒も見てやれる気分じゃねぇんだ」
「いえ、それはかまいませんが……何かあったんですか?」
「………………なんでも、ねぇよ」
どこか辛そうにそっぽを向く大熊が、白馬は少し心配になりました。何せ、イワナビの紹介してくれた大熊なのです。白馬は、大熊の力になれたらと思いました。
その夜。
洞穴の隣で野宿をしていた白馬の下に、一匹の小熊が訪れました。あの大熊の息子でした。
「……白馬、さん?」
「あ。どうも……ええと、」
「ああ、小熊と呼んでくだせぇ。あの大熊の息子です。
このたびは本当に申し訳ないでさぁ」
「そうなんですか……いえ、僕は気にしてません。
それより、あの、大熊さんはどうされたんですか?
なにか辛そうになさっていたんですが……」
「……なんでも、近くの暴れ獅子に力比べで負けちまったらしくて。『俺は強いから、弱い奴を守る義務があるんだ』って言ってた親父は、落ち込んでしまって」
「それは……」
白馬はイワナビの言っていたことを思い出しました。折れたら何もできなくなった、と。それは、誇りを持っていた者でも同じことなのでしょうか。
「まあ、でも、きっと親父はそのうち立ち直りまさぁ」
「え?」
それは、白馬にとって意外な言葉でした。
白馬は見ていたのです。すっかりしょげてしまった大熊の、丸まった背中を。それは白馬が、自分の何倍も大きいはずの大熊から、なんだか故郷の草原の小さな蛇たちのような弱弱しさを感じてしまったほどでした。
「……あんなに落ち込んでたのに?」
「あんなに落ち込んでたのに、ですよ。
それでも親父は、それを誇りに生きていくしかないんだ。
親父は馬鹿ですからね」
「……お父さんを、馬鹿、って」
「馬鹿親父だよ。誇りにしていることを失ったら、自分には何もない、って思ってんだ。本当はそれしかできないわけじゃねぇのに、そう思い込んでる」
「そうなの?」
「そうだよ。何かを誇る奴はみんなそうだ。誇りを失えば生きていけない。でも、だからこそ、きっと立ち上がる。
折れたままで、自分には何もないって思ったままでいられる奴らじゃないからね」
「お父さんのこと……信じてるんだね」
「ああ。二度と折れないように、二度とこんな気分を味わわないように、心も身体も、より強くなって這い上がるよ。
きっと、親父ならそうする」
最初は父親を馬鹿と言ってはばからないことに驚きましたが、それ以上に大熊への敬愛を感じて、白馬は嬉しくなりました。
「大熊さんのこと、好き?」
「自慢の親父だ」
お互いの目を見て、くすり、と笑うと、白馬と小熊は同時に寝転がりました。
「俺、いつか親父みたいになるんだ」
「弱い人を、守れるように?」
「そう。親父は俺の誇りだからな」
「ああ、そっか。だから、大熊さんのやってることを、自分も引き継いで生きたいんだね」
「そういうこと。でも、親父は反対なんだって」
「なんで?」
「『心の折れた奴が、必ず立ち上がれるわけじゃない。なるべくならそうそう心が折れたりしないようなことをして、平和に生きて欲しい』ってさ」
「……そっか。信念を持ってても、それで心が折れないわけじゃないんだね」
白馬は、イワナビたちを思い出していました。あの中にも、自分の信念を持っていた人もいたのだろうと思うと、ひどく寒々しい気分に襲われました。
「そりゃそうさ。むしろ、強い信念ほど、壊れたときは心をひどく傷つける。心の支えが一気に崩れるから」
そう言うと、小熊の顔が少し暗くなりました。
大熊のことを思い出しているに違いありません。
「大熊さん、早く良くなるといいね」
「……なるさ、きっとなる」
二人はその日、寄り添いあって眠りました。
*
翌朝、白馬が出発の準備をしていると小熊が起き出してきました。どうやら手伝いと見送りをしてくれるようでした。
「白鳥とアンドロメダと水瓶の女神、だったな。だったら、まずアンドロメダに会いに行ったらいい。ここから南南西……まあ、お前のいたところから世界を半周してるから、感覚的には東北東って行ったほうが分かりやすいかもしれないが」
「世界を半周だって!?」
「そうだよ、気づかなかったか?アンドロメダたちに会うだけなら、蛇つかいの森から、うちとは逆方向に進めば同じぐらいの距離にあったんだぜ」
「おじいさんは、何も言ってなかったけど……」
「ま、十中八九、広い世界を見て回ってこいってことだったんだろうな。いいじいさんじゃねぇか」
「うん、自慢のおじいさんさ。おかげで君にも会えたしね」
「やめろよ、照れるなぁ」
二人とも、しばらく笑い合っていましたが、不意に頭を突き合わせました。
「また会おう、約束だぞ」
「うん、絶対。それまでに、小熊君は立派に大熊さんを助けるようになっていること」
「お前は、この旅の目的を果たして、自分自身の答えを見つけること。忘れるなよ?」
「もちろん!」
誓いを立てて頭を離すと、白馬はさっと進行方向へ鼻先を向けました。それと同時に、小熊も自分の洞穴の方へ振り返ります。二人はちょうど背中合わせになりました。
「「それじゃあ、また会おう!」」
二人はそのまま、顔を向け合わずに別れました。
名残惜しくて、寂しくて、それから、二人ともちょっと不安で。けれど、だからこそ、
お互い、泣き顔は見られたくなかったのです。
*
「ええと、アンドロメダさんは南南西だっけ」
小熊からもらった地図を見ながら、白馬は走り出します。
どうやらアンドロメダの住処には何日もかけなければならないようでした。
「ううっ、怖いなぁ……」
見渡す限りの草原とはいえ、誰もいないところでの野宿は中々怖いものでした。なにせ、良く考えてみると、今までは旅の途中でも、誰か一緒に寝てくれる人がいたのです。
孤独は白馬の心をくじけさせようとはたらきかけましたが、今までに出会い、お世話になった人たちのことを考えると、もう少しがんばってみよう、という気持ちが不思議と湧いてくるのでした。
そうして三日三晩の移動の果てに、彼はやっとアンドロメダの家にたどりつくことができたのでした。
「あ、ここだ!」
アンドロメダの家は海沿いに建っていました。
品のいい三角屋根の家で、中庭のような部分には花瓶の置かれた丸テーブルと肘掛つき椅子のセットが置いてあり、一枚の絵画のようです。
白馬は身だしなみを整えると、家の前で声を上げました。
「すみませーん!アンドロメダさんはいますかー?」
一拍置き、二拍置き……すわ不在か、と白馬が思い始めたその瞬間、何処からかおっとりとした声がしました。
「アスクレピオスのところの白馬君ですね?
お話は聞いています、よくいらっしゃいました」
「うゎわっ?ど、どこから?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと空から、ね。
さて。では早速ですが、ご用件を聞きましょうか。
こちらへおいでなさって?」
自分の頭上にふと現れたアンドロメダに、最初は驚いた白馬でしたが、彼女の物腰柔らかそうな様子と、全てを包み込むような笑顔を見ると、そっと息をつきます。その様子を見たアンドロメダは、あらあら、と口に手を当てて笑いました。
アンドロメダは、子どもの喜びそうなお菓子を持ち出し、白馬を中庭に招きます。彼女は白馬に問いかけました。
「貴方、迷子のような顔ね。ここへは何を探しに?」
何もかもお見通し、といった風情のアンドロメダに、白馬は少し戸惑います。が、やがてぽつぽつと語り始めました。
「……僕の生まれた意味、生きる意味を見つけたくて」
「そう。でしたら、それは旅をする中でだんだん分かってきたのではないかしら?」
「そうかもしれません。少なくとも、自分の意志で進むことが大切なんだ、ってことは分かりました。
けれど、自信がないんです」
「自信?」
少し意外そうな顔をして、アンドロメダが問い返します。
「ええ、自信です。なんだか今までに会った方たち、みんなすごい方ばかりで。僕は何ができたんだろう、って」
「すごい、っていうのは?」
「両親や兄さんは、僕より身体を良く動かせます。蛇とおじいさんは賢くて、ポプラたちの声は美しく、イワナビのお兄さんはとても思慮深かった。小熊君は理想に一直線で、大熊さんは小熊君の理想になった、すごい方です」
「なるほど、自分だけは信念も能力も足りない、と感じているわけですか。そんなことはないのですけれどね」
ある意味予想通りだった、とアンドロメダは苦笑します。
「ならばこうしましょう。
白鳥のところに行きなさい、貴方なら半刻ほどで着くでしょう。そして、これをお渡しになってください」
アンドロメダは一息にそう言うと、手紙をさらさらと書き、蝋を垂らして花押を施しました。それを白馬の荷物に差し込むと、今度は白馬の食料や飲み物の補給をしてくれます。
「もう終わりも近いとはいえ、旅にはまだ必要でしょう?」
「何から何まで……ありがとうございます」
「いいえ、気にすることはありませんわ。では、良い旅を」
「本当に、ありがとうございました。機会があれば、またお会いできたら光栄です」
くるくる、と特徴的な笑い方をする貴婦人に、少しだけどきどきしながら、白馬は駆けていきました。
西へ。白鳥の住処へと向かって。
*
白馬が白鳥と出会ったのは、アンドロメダの言う通り、ちょうど半刻ほど走った頃です。
駆け続ける白馬の目の前、鼻先数尺といった距離に、突然、純白の何かが現れたのでした。
「あなたが蛇使いのところの白馬ね?」
「うわっとと……はい、あなたが白鳥さんですか?」
「ええ、その通り。わたくしは貴方を導く者の一人。
わたくしの教えを受けられる光栄に打ち震えなさいな」
「えっと、ありがとうございます」
白馬の目の前に飛び込んだのは、彼の半分ほどの体躯で、少し細身の美しい白鳥でした。ぶつかっては事だとあわてて止まる白馬でしたが、白鳥は白馬の様子なんてお構いなしに話すのでした。その上、
「ついてきなさい」
などと言ってあらぬ方向へ飛び立つのですから、白馬はたまったものではありません。待ってと、少し情けない声を上げて追いかける羽目になったのでした。そして、この後、白馬は旅を始めて一番の驚きを迎えることになります。
突然目の前に現れたことよりも、自信に満ち溢れた口調よりも、細い身体の白鳥が、白馬と同じかそれ以上の速度で進んでいくことに、何よりも白馬は驚きました。
自分が置いていかれることに、不安と少しだけの不満とにじませながら、白馬は叫びます。
「待ってよ、何処へ行くんだい?」
「馴れ馴れしいですわよ。わたくしには敬意を払って接してもらいたいものですわね……。けれど、まあ、いいわ。
これからアンドロメダのところへ向かいます」
「アンドロメダさんの?……あ、それで思い出した、アンドロメダさんから白鳥さんへ、手紙を預かっていたんだ」
「何ですって?それを早く言いなさいっ!」
白馬の言葉を聞いて、白鳥は不機嫌な顔をして白馬の背中に降り立ちました。聞かなかったのは自分じゃないか、と白馬は思いましたが、結局何も言わずに口を閉ざしました。
「ふんふん……なるほど、分かりましたわ。
白馬?」
「はい?」
「背筋を伸ばしなさい」
「はぃ……痛てててててててててっ!?」
言われた通りに背筋をピンと張った白馬を、突然の鋭い痛みが襲います。原因が背中の白鳥であることは明らかでした。
「情けない声。男なら我慢しなさいな」
「痛ったぁ……えっと、何をしたの?」
「背筋に今までなかった感覚があるでしょう?
それが答えよ」
「えっと……え、これって」
「そう、翼よ」
なんと一瞬にして、白馬の背中には立派な、白い鳥の翼が生えていたのでした。
白鳥は言います。
「アンドロメダの手紙にはこう書いてあったわ。
『自由の翼を与え、水瓶の女神の元へ向かわせなさい』と。そして、――『白馬君をこの世界から離しなさい』と」
「世界から……離す?どういうこと?」
「いずれ分かるわ。白馬は海を超え、南に進みなさい。
対岸にいるわ、世界をつなぐ水瓶の女神が」
「君はどうするの?」
「わたくしも行きますけれど、その前に寄るところがあるわ。無論、白馬などより目的地へ着くのが遅いなんて事は世界が平らなお盆に変わってもありえないから安心なさい」
「……わかった」
白馬など、といわれてしまった白馬は、しぶしぶ、といった様子で肯きます。それでも、なぜか白馬は白鳥に逆らう気がしないのでした。
「飛び方はその翼が教えてくれますわ。
白馬はただ海の向こうへと願うだけでいいですわよ」
そういうと、白鳥は堂々と、自分の飛ぶさまを見せ付けるようにして飛び去っていきました。
まるで、白馬へ『こう飛ぶのだ』と教えるように。
「願う、願う……強く、願う」
白鳥の姿を見届けると、白馬は目を閉じました。
想うのは、優雅に飛ぶ白鳥の姿。空を舞う喜びを全身で表現する、純粋でけがれのない天使のような飛び方。
「うわっ」
自分も飛びたい、と想ったその瞬間、白馬は空に居ました。
そして、
「…すごい……」
見渡す限りの、天。
初めての景色が白馬の瞳を埋め尽くします。
何処までも蒼く、広く、そして自由な空。
それは、白馬の心をとりこにしてしまうのに十分な魅力を持っていました。
「すごい、すごいすごいすごい!
僕、飛んでる!今、空の上に居るんだっ!」
一度自覚すると、後は簡単でした。白馬はただ心のままに翼を駆けさせます。もっと強く。もっと速く。もっと高く。
ふと下を見ると、雲の中を泳ぐイルカが居ました。
白馬が一ついななくと、イルカは鳴いて返します。
目だけで笑みを交わして、白馬は更に高く飛びました。
「この辺が一番高いのかな……?」
高く高く飛び続けた白馬は、やがてそこ(・・)に辿り着きました。
そこ(・・)は紺色とオレンジ色の混じった不思議な場所で、昼と夜の混じった奇妙な、いえ、神秘的な場所でした。奇妙というには、太陽と空と星たちが、あまりに美しすぎたのです。
「世界で一番高いところへ飛ばされた気分はどうかしら?」
しばらくその様子に見とれていると、いつの間にか、白鳥が白馬の横に立っていました。
「すごい…ね。それ以外の言葉が、本当に、見つからないよ」
「たとえ、自身の意志で訪れた場所でなくても?」
「……?
此処へ、高いところへと望んだのは、僕の意志だよ?」
「それは意志ではなく願望ですわよ?」
何が違うのか、という疑問を浮かべた白馬に、白鳥はこう続けます。
「ただ翼に運ばれてきただけでは、意志を持って行動したとは言えませんわ。馬に乗っても手綱も持たず、ただ馬の高さや速さにはしゃぐ子どものようなものですわよ。
確固とした意志には、行動と責任が伴いますの」
白鳥の口調はむしろ、無知な子どもに教え諭す大人のようで、その顔には『そんなことも分からないのか』という感情が表れていました。
「……行動と、責任」
かみ締めるようにして、白馬はつぶやきます。
「でも、真実、僕は翼に運ばれただけだ。それこそ子どもが馬に乗せられたみたいに、僕は飛べないから飛ばされた。
そこに、意志が入り込めることって、あるの?」
「そのためにわたくしたちが――大人がいるのです。
誰も最初から何もかもできたわけではありませんわ。
わたくしたちもかつて、先人に支えられました。
ですから、そのわたくしたちには、あなたに意志の通し方を教えて差し上げる、義務と権利がありますの」
そして、『踏み出す勇気はありますか?』と手を差し伸べた白鳥に。
白馬はゆっくりと、しかし力強く肯きました。
*
二人が高度を下げていくと、雲間の間から大きな湖が見えてきました。ひょうたんのような、或いは水瓶のような形をしたそこは、先ほど通り過ぎた海と地下でつながっているのか、海で見かけた魚たちが跳ね回る姿を見ることができます。
そして、その湖のほとりに、一軒の家が立っていました。あれが水瓶の女神様の家か、とつぶやく白馬に、白鳥が肯きで返します。
「ええそうよ、準備と覚悟はよろしくて?」
「それは、猟犬の森を出たときにすませたよ。忘れそうになったこともあるけど、今は、大丈夫」
「結構ですわ。ではスマートに済ませましょう」
二人は速度を緩めません。地上はぐんぐんと近づいて、そして白鳥と白馬は全く同時に地へと足をつけました。
「思ったより早くお着きになられましたわね」
「アンドロメダさん!それと……」
「うむ、ここまでの道、大儀であったな。妾が水瓶の女神だ」
迷いなく降り立った軒先には、二人の女性がいました。
一人はアンドロメダ、もう一人は水瓶の女神様です。女神様は、神様の肩書きにふさわしい威厳を持った、長い金髪に切れ長の目をもったりりしい女性でした。
「さて。おぬしは自分が何をするか聞いておるか?」
女神様が威厳を持って聞きます。
その問いに対して、白馬は首を横に振って答えました。
「いいえ、女神様。僕は僕が何をすることができるのか、全く知らないのです。僕には何ができるのでしょうか?」
「『できるできないではなく、やるかやらないかだ』、だ。
……どれ、河童よ、来るがよい。客だぞ」
白馬の返答に、かすかに微笑むと、水瓶の女神は湖を見やりました。そして、手をかざしてつぶやくと、突如として水面がはじけます。
現れたのは、女神様の言うとおり、河童でした。ただ普通の河童と違うのは、その河童が、黒ぶち眼鏡とスーツに身を包むという奇妙な格好をしていたことです。
河童はかかか、と高く笑うと、
「ようこそ若い者よ。君の勇気を歓迎しようではないかっ」
胸を張り声を張り、そして白馬に手を差し伸べました。
それはお話の中の紳士や貴族のようで、けれど河童がやるものですからひどくこっけいな姿に見えましたが、白馬は不思議とそれを笑う気にはなりませんでした。
「よろしく、紳士の河童さん」
だから、白馬は微笑んで返答します。それを見て、河童はほう、と、感心した声を上げました。やっぱりその動作も芝居がかっています。
「これはこれは、最近にしては珍しい、中々できた子じゃあありませんか」
河童はそう言って嬉しそうに笑うと、つい、と他へ目をやりました。するとその先には、やはり感心した様子の女神様と、やさしく肯くアンドロメダと、当然のことと言わんばかりに胸を張る白鳥が居ました。
河童は彼女達に対して肯きを返します。どうやら、白馬を除いた四者の間で何かの決定がなされたようでした。
「さて、白馬よ。事前に聞いておるとは思うが、妾たちはおぬしを導くためにおる。
……が、それは決して妾たちがおぬしの手を引いてやることではない。妾の役目を知っておるか?」
「ええと……確か、世界をつなぐ、って白鳥が。
でも、それがどういうことかはよく分かりません」
白鳥が言っていたことをそのまま口に上らせてみる白馬でしたが、自分で言ってみてもよく分かりませんでした。
自分で話しながら首をかしげる白馬に、女神様はおう揚に肯いてみせます。
「うむ、正直なのは良いことだ。その感性は大切にするのだぞ、白馬よ。
……世界をつなぐ女神、という役はな。
要するに、世界の門番をするということなのだ」
「門番?」
「そう。おぬしは知らぬかもしれぬが、世界は一つではない」
そう言って、女神様はおもむろに空を見上げます。
女神様の言葉の後は、アンドロメダが引き継ぎました。
「そう。そして、ここは神様に愛された世界。やさしくて、緩やかで、穏やかな、神様に守られた世界」
アンドロメダが言葉を途切れさせると、
更にその続きを、白鳥が。
その次は、女神様が。その次はアンドロメダが。
そうして彼女らは、かわるがわる、言葉を紡いでいきます。
「ですけれど……ただ守られているだけでは何も、いつまでも変わりませんわ」
「そして、立ち止まっていても周りは動くのだ」
「だとしたら。この世界にいて、他の世界を知らない方がおられたとしたら、その方は」
「周りから見れば、緩やかに退がり続けているのと変わらないのですのよ」
「白馬よ。おぬしには、全ての子らには、知る権利がある」
「他の世界。この箱庭の外のことを、知る権利が」
「それは苦痛かもしれませんが…でも、それが生きるということですわ」
そして、彼女達は白馬を見据えました。
彼女達の視線を受けて、白馬は、
「難しいことは、やっぱりよく分からないけれど……」
一歩。
前へと進みました。
「僕はきっと、僕として生きたいんだと思う」
白馬の目は、しっかりと女神達を見返していました。
白馬の足は、しっかりと地面を踏みしめていました。
白馬の意志は、自分で立つことを選びました。
そう、と、嬉しそうに、少し寂しそうに、アンドロメダが笑いました。
*
白馬が――いえ、天馬が、飛んでいます。
蒼い空のカーテンを抜け、夜の帳をくぐり、その先、無限に広がる黒い天を、天馬は駆けています。
あの後、河童に連れられて水瓶の形をした湖に入った白馬は、気づけば高い空の更に先、世界の外に立っていました。
そのとき隣にいた河童は叫びました。
「アンドロメダ様から、『アンドロメダを西南に』と。
そして、白鳥様から、『スワンの星座を東南』と。
それぞれ言伝を預かっている。
――さあ白馬、いや天馬、今こそ己の意志で駆けよっ!
意志だけが先を与えてくれる。先へ先へと進むことだけが、生きるということを実感させてくれる。
走り抜けたその先に、きっと君の望む答えは見えてくる。
さあ、飛び立ちたまえ!」
お芝居をするように大袈裟な身振りで口上を述べると、再び、かかか、と笑って、河童は消えました。
あの世界へ戻ったようでした。残されたのは天馬一人。しばし呆然としていた天馬でしたが――
「走る」
ポツリ、つぶやき。
「走る、走る」
「走る、走る、走る、走る――――」
やがて、白い流星となって駆け出しました。
前を向いて、足を動かし、自分でも気づかぬうちに、翼さえも自分の意志でもって羽ばたかせて。
天馬は世界と世界の間を駆け、走り、飛び始めました。
口から漏れ出るのは、ただ二言の言葉だけ。
アンドロメダを西南に。
スワンの星座を東南の。
河童の言葉をつぶやきながら、天馬は走り続けます。
そして、走りながら、天馬は一番はじめの問いを、もう一度繰り返していました。
(僕はどうして生まれた?)
(僕は誰だ?)
(僕は何だ?)
(僕は何処にいる?)
(僕は何をなす――?)
何度も何度も問いを繰り返しながら、ずっとずっと天馬は駆け続けました。天馬以外誰一人としていない、世界の外側を、何年も、何年も。
そして、その日がやってきます。
(ここには誰もいない)
(じゃあ、誰もいないここにいる僕は?)
(僕は誰だ?誰でもない僕は――)
天馬が飛び立ってどれくらい経ったのでしょうか。数え切れないほどの膨大な時間の果てに、天馬の問いは、だんだんと収束を始めていました。
既にアンドロメダ座もはくちょう座も通り越して、周りにあるのはただ延々と続く暗闇だけ。その先にあるものなど何一つないことを思わせる黒い天の中で、白馬は一人、
「誰でもない……?」
答えに辿りつきました。
*
「そうか、そういうことか……!」
白馬は喜びをにじませて叫びました。
「僕は僕なんだ!誰でもないから僕なんだ!」
何だ、簡単なことだったじゃないか!
「逆だったんだ!僕が誰でもないんじゃない、誰でもないって、そのことが僕だったんだ!
みんながいて、僕じゃないみんながいて、それが僕を形作ってたんだ!みんなと違うから僕だったんだ!」
僕は僕だ!
そう叫びながら、天馬はもう一度駆け始めます。
「僕は誰でもないから、だから何にだってなれるんだ!
誰にだって、何にだって!
だから――だから、僕は僕でなきゃならないんだ!
僕として生きなきゃならないんだ!」
なんだ、そうだったのか。
天馬は思わず笑ってしまいました。
「そして…僕として生きることで、僕は何かをなしとげることができる。遺すことができる。僕の生きた証を」
天馬が思い浮かべだのは、お父さんとお母さんの姿でした。
きっと、二人にとっての生きた証は。
「僕は。僕は何をする?僕の意志は何を望むんだろう?」
目に入るのは、黒と白のコントラスト。
思い出したのは、ここに来るまでの冒険。
孤独におびえ、ポプラに助けられた。
イワナビに、教えを受けた。
熊の親子の誇りに触れた。
スーツを着た河童に、ここへ連れてこられた。
アンドロメダと、白鳥と、水瓶の女神様に導かれた。
「……そうか」
天馬は目を細めました。
「僕は導き手になりたい。僕が彼女たちに導かれたように、僕も誰かを支え、導いてやりたい」
(でも、どうしたらいい?)
どうやって導けばいいのか分からない。そう悩みこもうとした天馬は、不意にうつむいてそれを見ました。
「……あ…………」
天馬が元いた世界がありました。
美しい世界でした。
この瞬間、天馬は自分の意志で、自分の道を決めました。
天馬は空を飛ぶことにしました。
ただ一人で空を飛ぶ、その姿を世界中に見せるために。
自分と同じ悩みを持った誰かが、少しでも早く答えを見つけられるように。答えに気づく手助けになるように。
今でも、天馬は空を飛んでいます。
終わり