水の中の声
風はないのに涼しかった。
陽が当たらないわけでもない。取り囲む木々で円形にくり抜かれた空に、晩夏の太陽は遠く顔を覗かせている。
街にいたらこんなことはありえない。山の中だからこその涼しさなのだろう。
何よりその湖が、私の気に入った。
草木をかき分けて入ってきた山奥に、こんな美しい湖があるとは思っていなかった。
涼しげなその湖面にいくつもの波紋を揺らし、たたずむその姿は妖精の棲家のようだった。
「これはいいところを見つけた」
誰もいないのに、私ははっきりとした声で呟いた。
「今度、釣り具セットを持ってまた来よう。何が釣れるかな?」
明らかに人工の湖ではない。
自然の芸術ともいえるその景色に、私はしばらく見とれていた。
泥の上に敷き詰められた草の絨毯に腰を下ろすと、ジーンズの尻がしっとりと濡れた。構わない。どれだけ汚れても気分は綺麗だった。
こんなところに私のような者が一人でいるのはおかしいだろうか。もし私に恨みをもつ人間が後を尾けていたら狙撃されても完全犯罪となるかもしれない。こんな場所に死体があっても発見はされないだろう。
いやいや──警察の捜査能力は意外なほどに高度なものだ。私はそれをよく知っている。彼らはきっと私の遺体を見つけてくれる。そんな願望を空に投げ、私は無心で湖を眺めた。
静かだ──
風はまったくなく、森は葉擦れの音すら立てず、私を取り囲んでいる。
湖面には無数の波紋──
おかしいと気づいた。
風がないのに、なぜ波紋が──? アメンボなら丸い波紋が広がるはずだ。しかし湖の上には、まるで風が撫でて作るような、縦の波紋が無数に走っているのだった。
湖面には風が吹いているのか? しかし森はまったく揺れていないのに?
これは音だと直感した。
湖面が震動しているのだ。おそらくは水中で発している何かの音によって──
私は立ち上がり、トレッキング・シューズを水の中へ少し踏み入れた。足が少し泥の中へ沈む。
おそるおそる身を屈め、湖面に耳をつけてみる。
水中の音が聞こえてきた。
はっきりと──
「痛かった」
少年の声のようだった。
「ものすごく痛かった」
外した眼鏡を尻ポケットに入れ、顔を洗面器につけるように湖面につけ、下を覗いた。
タナゴが何匹も泳いでいるのが見えた。水草が揺れている。小さなエビが泥の上に踊っている。それだけだった。
しかし耳まで水の中に入れると、無数の子どもたちの声がはっきりと聞こえてきた。
「助けて」
「怖かったの」
「ここは暗い」
少年の声も、少女の声もあった。
水の中特有のくぐもった声は、遠くから聞こえてくるようでもあり、すぐ耳元で泣いているようでもあった。
「これは大変だ」
私は水の中から顔を上げると、大急ぎで眼鏡をかけ、サファリハットを被り直し、顎紐をきつく締め、麓に停めてある自分の車へ駆け戻った。
家へ帰るとスーツに着替え、またすぐに出かけた。
「あら、あなた」
妻が不思議そうに声をかけてきた。
「帰ってきたかと思ったら……またどちらへ?」
「署だ」
「今日はお休みでしょ?」
「気になることがあるんだ。晩飯はいらない」
車を停め、警察署の中へ入ると、刑事課の愛田谷くんが声をかけてきた。
「あれっ? 署長、休日出勤ですか?」
私は彼に聞いた。
「気になることがあってね。ほら、小学生の連続失踪事件、あるだろう? あの事件、キミは担当だったかな?」
行方不明になっている小学生は六名──
男子も女子もいる。
どの子もあの湖がある場所から15km以内に家があった。
「もう少し証拠がほしい……」
夜の資料室で、資料を次から次へと読みながら、一人で私は呟いた。
「いくら署長命令でもオカルトで大規模な捜査はできん。……またあそこへ行ってみるか」
次の日、署長の仕事を一日署長の女性アイドルに任せ、私はまたあの湖へ出かけた。
「よし……」
やはり風もないのに波紋が踊っている湖面を見つめながら、私は気合いを入れた。
「泳ぐか」
トレッキング装備をすべて脱ぎ捨てた。オレンジ色の水着一丁の姿になる。こんなところを見られては恥ずかしい。一人で来てよかった。証拠となる音声が録音できたらみんなにも聞かせよう。
ぶよぶよのお腹を揺らして湖の中へと入っていった。水中の音を録音できるハイドロフォンだけ持って──
「助けて」
「ここにいるよ」
「怖かった」
湖の中は声で溢れていた。
答えがあるかどうかはわからないが、話しかけてみたかった。しかし水の中で人間は喋ることができないのだと、今さらながら思い知った。
見渡す限り、死体のようなものは見えない。底は結構深く、暗くてよくわからない。
ハイドロフォンに録音はできた。再生してみてこの声が入っているかはわからないが……。しかし今日、できることはここまでだ。私が湖の中から上がると──
ベージュの空調服に身を包んだ男が、そこにいた。
眉間に深い皺を寄せて、上から私を睨みつけている。
そんな表情でなければ優しそうな、三十歳ぐらいの、無職風の男だ。
左脇に男子小学生の死体らしきものを抱え、右手に持ったピストルを私に向けてきた。
「オッサン、ここで何をしてる?」
悪魔が喋ったらこんな感じか──と思うような声だった。
私は急いでまた水の中へ潜った。
男が発砲する音が聞こえたが、当たらなかった。
『くっ……!』
後悔した。やはり誰か刑事課の若いのを一緒に連れて来ればよかった。
『しかし……! 素潜りには自信がある!』
若い頃はよく海へ潜ってウニなどを捕ったものだ。
しかしぶよぶよのお腹が邪魔をする。
みっともなく肉のついた身体が勝手に上へ浮こう、浮こうとする。
「あの男だ!」
私を取り囲む声が、騒いでいた。
「あの男だよ!」
「やってけて、おじさん!」
応援されて少し力が湧いた。
向こう岸まで水中を泳ぎ、脱出しようか──
しかし、息が続かない──
ピストルの音がまた2発、水の上で聞こえた。
影で私の居所がわかるのか、結構正確に、私の目の前を弾丸が走っていった。
息が苦しい──
顔を出せば撃たれるだろう──
ジリ貧というやつか──
湖底から手を伸ばすように、いくつもの気泡が上がってくるのが見えた。
宇宙服のヘルメットのように私の頭をそれが包む。少し息ができるようになった。
私の前に、端正な顔立ちの、青白い男子小学生が、泣きそうな顔に黒い穴を空けるような表情で、底から浮かび上がってきて、言った。
「コッチダヨ」
少年について行くと、人間一人通れるほどのトンネルがあった。泥まみれになりながら潜り抜けると、水の上に出た。モグラのようち顔を出してみると、あの男の後ろ姿がすぐそこに見えた。
ドボン!
湖の上に、おおきな石を投げたように飛沫が上がるのが見えた。跳ねるような魚はいなかったはずだ。
男がそちらへ銃口を向ける。
私はその背後から襲いかかった。
今こそ柔道三段の腕前を見せる時──!
極め技で男の動きを封じ、銃を取り上げ、両足に一発ずつ、弾丸を食らわせた。手錠を持っていてよかった。両手にかけると、脱ぎ捨ててあった自分の登山服からスマートフォンを取り出し、救急車を呼んだ。
男の抱えていた少年は、綺麗な顔をしていたが、とっくに事切れていた。死後硬直もまだ始まっていなかった。殺害されたばかりなのだろう。わめき叫ぶ男をよそに、私は黙祷を捧げた。
ふと見ると、湖の中からあの少年が半分顔を出し、見ていた。
安心したように少し目を細めると、青白いその顔をゆっくりと水の中に沈めていった。
後日の捜索で、湖の底から六人の小学生の遺体が引き上げられた。
あの誰も知らないような湖の、暗い水底の泥の中で、一番長い子で四十五日間、寂しく助けを待ち続けたのだった。見つけてあげられたのはよかったが、できれば事が起こる前になんとかしてあげたかった。
男は快楽殺人者だった。高校生の頃から近所の野良猫に酷いことをして有名人だった。自分よりも弱いものを虐げることでしか自分の存在価値を認識できない、哀れな人間だった。
私はしばらく鬱が入ってしまった。警察の捜査能力はちっとも高度などではなかった。何より事が起こった後にようやく動き出す我々など、何の意味があるというのだ。
あれから私は何度もあの湖へ足を運んだ。
それぞれの子のご両親に聞いた、それぞれの子が好きだったお菓子などを持って──
その場所にはやはり風は吹かず、手を合わせる湖面は凪いでいた。
もう、波紋は、どこにも見当たらなかった。




