8.クラーケン撃退
船が大きく揺れた。海面が弾け、無数の水滴が舞う。
ユウは反射的にオールを握りしめた。
リリィは舵を押さえながら、すぐさまランタンで元に戻せるものを確認する。
しかし、収めたものは日用品ばかり。戦いに使えるものなど、一つもない。
「……警告。攻撃転用可能な品、なし」
リリィは悔しげに顔をしかめた。
その間にも、触腕はぎゅうぎゅうと船体を締め付ける。
理解しているのだろう。
水中では、多くの人間が無力にも等しい事を。
あの大きさなら、人間も問題なく咀嚼できるに違いない。
一万年前の記憶はないけれど、少なくともこんな大きさの怪物が、いなかった事はわかる、とユウはリリィに振り向いた。
「なんでイカなのにこんな大きいの!?」
リリィは声色一つかえず、淡々と報告する。
「現在の地球では標準的。もっと大きな生物もいる」
なんでかなぁ!とユウは眉をしかめる。
そんな事を話している間もクラーケンは待ってはくれない。
バキ、という音が端から聞こえた。
木材の一本が折れた音だ。
辛うじて縄で繋がっているから流れていないだけで。
一本抜けたら、バラバラになって、おしまいだ。
船の周囲には、何本もの巨大な触腕がうねっている。
今巻き付いている触腕をどうにかした所で、その次がすぐ襲ってくる事は想像に難くない。
潮風だけでやけに穏やかで、脂汗が流れた跡をぬるく乾かしていた。
「……風?」
ユウの脳裏に、昨日の戦いの記憶がよみがえる。
――あの時、翼のあった青年のランタンから風が吹き出していた。
「リリィ、ランタンで〝大気〟を格納できる?」
ユウの言葉に、リリィは一瞬驚いたように彼を見た。しかし、すぐに意図を察し、頷く。
「空気を帆にぶつければ、前に進む事が可能。問題、巻きついた触腕。」
「──っ、だったら、火を使おう」
ユウは手にしたオールを掲げ、持ち手をリリィに向ける。
「リリィ、これに火をつけてくれ」
リリィは小さく息を吸うと、船の隅に置いていた火打ち石と、油を染み込ませた布──たいまつ用だ──を手に取った。
カチン、カチン。
火花が散り、やがてオールの持ち手に炎が灯る。
ユウは迷わず、それを振りかぶった。
「――っ!」
船に絡みついていた触腕を、勢いよく叩く。
ジュッ――!
水気を帯びた表面が焦げ、焼け焦げた臭いが立ち上る。
クラーケンが、海を揺るがすような咆哮を上げた。
「今だ!」
リリィはユウに叫ぶと、ランタンをかざした。
シュウウッ!
収めていた空気が一気に解放され、強烈な風が帆を押す。
「伏せて!」
リリィの声に、ユウは即座に身を伏せた。
瞬間──船が飛ひだす。
猛烈な勢いで海面を滑る船に、必死にしがみつきながら後ろをみれば、目標を失ったクラーケンの触腕が静かに蠢いていた。
◆◆
数分後。
二人の船は、穏やかな波の中を進んでいた。
後ろをみても、クラーケンの姿はすでに見えない。
ユウは荒い息を吐きながら、手にしていたオールを見る。
焼け焦げ、今にも折れそうになっているそれをオールだと言うものは、あまりいないだろう。
「……せっかく作ったのに」
ぼやくユウの前に、リリィがすっと何かを差し出す。
それは、クラーケンの触腕の一部だった。
「これは……売れる」
「……本当?」
焦げたオールと同じく焦げたゲソを交互にみてユウは笑う。
その視線はもう前に向いていた。
港町は、もうすぐ目の前だ。