9.港町と紫の影
港町アルヴェインは、潮騒に囲まれた小さな街だ。色とりどりの布があちこちにはためき、どこを見ても、声をはりあげ、笑う人の声が聞こえる。
木造の桟橋には大小さまざまな船が停まり、荷を積んだ労働者たちが掛け声とともに行き交う。港入口では、獲れたての魚が並び、日に干された海藻や貝殻細工が色とりどりに並んでいた。
焼き魚やスパイスの香りが潮風と共に漂い、ユウのお腹はぐぅ、と音をたてる。
そういえばお昼を食べ損ねていた、とユウは呟く。
リリィは島から携帯食をもってきてくれていたけれど、せっかくだしここで食べてもいいのかもしれない。
道行く人が、貝を串にさしたものを酒と一緒にながしこんでいるのを見ながら、ユウは唾を飲み込んだ。
だって、あんなに美味しそう、と。
貝の表面にはタレのようなものがかかっている。そのタレが焦げた、芳ばしい香りは、いっそ匂いだけで米が食べられそうだと思うほどだった。
リリィの料理は、けして栄養面では悪くない。悪くはないのは、わかる。けれど。
(塩分多寡で怒られるくらい濃い奴が恋しい)
そう思ってしまうくらいに、ユウは塩に飢えていた。
「それにしても……」
ユウは足を止め、周囲を見渡す。
「すごい、こんな賑やかな場所があるんだな」
記憶のない彼にとって、この光景はあまりに新鮮だった。いや、もしかすると、心の奥深くに眠る何かが揺さぶられているのかもしれない。
「目的地は、こっち」
不意に、リリィの冷静な声が響く。
「え、ちょっとくらい見てもいいだろ?」
「見る前に、売る」
ユウの浮かれた様子をよそに、リリィは淡々とした口調で言った。
彼女の視線の先に漂うのは、波間に揺れる小舟と、そこに積まれた巨大な触腕──もちろんクラーケンもの──だ。
「船と触腕、両方売る。そうすれば、路銀が手に入る」
「……まあ、それはそうだけど」
ユウは少し名残惜しそうに市場の方を見た。
焼きたての魚を売る屋台、香ばしいパンを運ぶ少年、派手な色のスカーフを広げて客を呼び込む商人たち。
胸の奥が不思議に弾んだ。こんな風に、人々の暮らしに紛れ込む事が酷く新鮮に感じる。
「リリィは、お金、持ってないの?」
名残惜しさから思わず、ユウはリリィに尋ねた。
「ない」
「……そんな」
「島では必要なかった。たまに来る漁師や冒険者とは物々交換で済んでいた。使う機会がない」
「そりゃあ……まあ、うん……。そうだよね……。」
ユウは肩をすくめ、自分のポケットを探る。しかし、当然のように何も入っていない。
「僕の財布は一緒に眠ってくれていなかったみたいだし……」
「なら、先に売るしかない」
淡々とした口調だったが、リリィの主張は正しい。それは、ユウにも十分理解できる。
ユウは、後ろ髪を引かれながらも、不承不承頷いた。
「わかった、そうしよう」
未練がましく市場をもう一度見やりながらも、ユウは仕方なく歩き出す。
そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺める影があった。
影は、紫の翼を僅かに揺らす。
日に輝くその羽は、大空で広げるためのそれだ。
その翼の持ち主──フェル、と呼ばれていた青年──は数度まばたきをして、それからもう一度ユウ達の顔を確認する。
その表情には警戒と、それから興味の色が浮かんでいた。




