夜霧の中
突然長かったトンネルが終わり、左右に視界が開けた。
少し眠くなっていたのかもしれない。ぼんやりしていた私は我に返り、再びハンドルに意識を戻した。そのまま後ろに乗った客に声をかける。
「お客さん、この先は何も無い山奥だけど本当にこっちであってますか?」
後部座席に乗せた女の客に私は今夜何度目になるか分からない同じ質問を投げかけた。
「ええ、あってます」
客の女もこれまでとまったく同じ返事をした。バックミラー越しに彼女の表情を見てみるが相変わらず端正で整った顔立ちに頬笑みを浮かべているだけだ。
女の服装は白のコートにハイヒール。いかにも今風のOLという具合で、そんな彼女がこんな一時間ほど山道をドライブしないと辿りつけない所に住んでいると言うのは少々妙な気もしたが、個人タクシーを営んでいる私としてはどんどん料金メーターの数字が上がって行くので悪い気はしなかった。
視線をミラーから闇で見辛い山道に戻す。と、急に私は以前ここに来た事があるような気持ちになった。今と同じように女を後部座席に乗せて。
しかしそんなはずは無い。仕事で山道を走るなんて初めての事である。
「どうかされましたか?」
女が訊いてくる。気付かない内に運転が荒くなっていたのかもしれない。
「いえ、ちょっと慣れない山道で疲れたのかな。なんせここら辺の山に来るのは初めてで――」
「違う」
「――え?」
私の言葉を遮るようにして放たれた彼女の一言はなんだかとても冷たい響きを持っていた。それまでほとんど喋らず静かだっただけに私は驚いてミラーを見る。
「思い出して下さい、運転手さん。あなたはここに来た事があるじゃないですか。同じ山道を通って、同じ真夜中に」
彼女はあくまで冷静に、まるで宿題を忘れた子供を叱る教師のように冷静に私を見つめながら言った。
しかし彼女の言っている事は訳が分からない。私は本当にこの山道を通るのは初めてだ。仮に来た事があるとしても、赤の他人である彼女がそれを知っているとは考えにくい。
「……冗談はよして下さいよ、お客さん」
「そう。思い出せないならそれで良いの」
急に馴れ馴れしい口調になった彼女はシートの上でハイヒールを履いた足を組み、物憂げな様子で窓の外に視線を向けた。山の夜闇は濃く、灯り無しでは立ち込める霧すらも見えないだろうに。
「ここで良いわ」
窓の外を見たまま女が言った。
言われたとおりに車を止めるが辺りに人が住んでいる様子はまるで無い。こんな夜遅くにこの女は山に何の用があると言うのだろう?
「あれ? でも何もない山の中ですよ?」
そう問いかける私に彼女はただ「ここで良いの」とだけ答えるとドアを開けるよう催促した。仕方なく私は開閉スイッチを操作して後部座席のドアを片側開ける。彼女は支払いを済ますと車を降りた。
「すいません、少し来て頂けますか?」
外から運転席を覗きこみ、彼女が言った。本心を言えば私は早く帰りたかったのだが、何故か操られるように車を降り、落ち葉の積み重なった地面を歩いて彼女の後について行く。
「運転手さん、麗子とは仲良くやっていますか?」
私に背中を向けて進んでいく彼女が唐突に出した名前は私の恋人のものだった。同棲して半年になる。
「……! どうしてその名前を」
「仲良くやっていますか?」
壊れたオーディオが同じ所を繰り返すように彼女はまた言った。事情は分からないが彼女は麗子の知り合いらしい。
「先月出て行ったきり、行方が分からないよ」
「そう……でもね――」
女が立ち止まる。背中を向けたままなので顔は相変わらず見えない。
「――私は彼女の居場所を知ってるの」
そう言うと女は横にある一本の木の根元を指差した。何も無い、枯れ葉に覆われた地面の下を指差すように。
それを見た瞬間、激しい頭痛が私を襲った。
――どうしてこの女は知っている? いや、私はそんな事知らない! 私は知らない! 知らなかった事にした……。
「あの日あなたは彼女をあなたのタクシーに乗せてここまでやって来た」
――違う! そんな事は無い! 私はここに来るの初めてで……。
「そして彼女の首を絞めた。その後はここに埋めた」
――やって無い! 私が恋人にそんな事するはず無いじゃないか!
「それだけならまだ良かったの。でもあなたは自分に言い訳して、自分のした事を忘れちゃったの」
――私が……殺した?
女がこちらを振り返る。その顔を見た瞬間私は全てを思い出した。
「苦しかったよ」
こちらを見つめる女の顔は間違いなく麗子のもので、こちらを見つめる視線は間違いなく死の間際に麗子が俺に向けた切ない目だった。
辺りに叫び声が木霊し、それが自分の口から出ているのだと気付くのにしばらく時間がかかった。その間にも私は叫びながら木々の間を転がるように走り、タクシーをただひたすら目指して逃げ続けた。
立ち止まると彼女が追ってくるような気がして、足がもつれて何度も転びながらそれでも車まで辿り着いた。全身から汗が噴き出す。エンジンを入れるとすぐさま元来た道へ全速力。
「違う。私は殺してなんか無い! 私は殺してなんか無い!」
自分に言い聞かせるように呟きながら私はアクセルを踏み続けた。やがて例のトンネルの入口が見えてくる。
――もう少しだ。このトンネルを抜ければこの山から抜けられる!
「だけど私分からないの」
凛とした声が狭い車内に響いた。心臓を鷲掴みにされた思いで私はブレーキを踏んだ。
光の一切無いトンネルの中。後ろに誰が座っているのかは見えない。
「どうして私は殺されたのか分からないの。だから――」
誰かの冷たい手が後ろから私の顔を覆うのを感じた。
「――あなたが思い出してくれるまで繰り返そうね」
私が彼女にした事、ここまでのドライブ、木の根元を指差す背中を向けた女。それらの事が次々と私の頭から流れ出て消えて行く。
そして私はぼんやりとした意識のまま、もう一度アクセルを踏んだ。
突然長かったトンネルが終わり、左右に視界が開けた。
少し眠くなっていたのかもしれない。ぼんやりしていた私は我に返り、再びハンドルに意識を戻した。そのまま後ろに乗った客に声をかける。
「お客さん、この先は何も無い山奥だけど本当にこっちであってますか?」
拙い文章読んで頂き、本当にありがとうございました。
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