第六十二話 心力
刀乃は恵まれた体躯を遺憾なく駆使し、縦横無尽に太刀を振り回している。
闇雲に暴れているようにも見えるが、これも扇流の技の一つなのだ。全ての動きが緻密に計算されており、安易に手を出すことは大きな危険を伴う。
だが刃には見えている。どんな攻撃にも存在する――曇りのない一点の隙。刀乃の剣技を前にしても、刃の持つ勝利への確信は揺るがない。
暴れ狂う刀乃の斬撃を躱し、刃は擦れ違い様に脇差を振るった。
「ぐっ!」
刀乃の斬撃が空を切った。それと同時に、刀乃の左腿から鮮血が弾け飛ぶ。
「扇流、破れたり。期間はお主に及ばぬが、剣を手にしてから十三年間欠かさずに研ぎ続けた斬撃の境地。お主ではわしの動きを捉えられまい」
「くそっ! まだだ!」
再び刀乃は太刀を振るったが、刃には当たらなかった。続いて刀乃の右腿に傷が入り、血が溢れ出す。刀乃が何度太刀を振り下ろそうとも、刃には一向に当たらない。斬撃が空を切る度に、刃は刀乃の下肢に切創を刻んでいった。
刀乃の実力を以てしても、流水の如き刃の足運びを捉えることができない。禍神の力を借りることなく、刃は人間の届く領域を遥かに超越している。
意地を見せた刀乃だったが、とうとう膝を突いた。膝はがくがくと笑い、痙攣して立てないようだ。刀乃は愕然として目を剥き、眼前に立つ刃を見上げた。
「ど、どうして……! どうして当たらない……?」
このまま刀乃の首を飛ばすことは造作もない。だがそれではあまりにも不憫なため、刃は呆れながらも刀乃の呟きに答えた。
「心の強さが全てを凌駕する。心力こそ修羅狩りが最強たる所以なのだと、わしは父上から教わった。何度やっても、わしは心を失った輩には負ける気がせん」
刀乃の台詞は回答を求めたものではなかったが、返ってきた刃の答えには納得がいかなかったようだ。刀乃は苛立ちを露わにし、片膝を突いたまま声を尖らせる。
「心の強さ……だと? 何を馬鹿げたことを……。俺は幕府の武力を牽引し、数々の敵と戦ってきた! 剣客も忍びも妖怪も……幕府に背く者は誰であろうとも修羅狩りの威信に懸けて葬ってきた! 俺とお前、一体何が違うと言うのだ!?」
「やれやれ、そんなこともわからぬまで盲信していたようだのう。筋力はお主が上、剣術は互角……いや、若干わしが上か……? つまり決するのは心――すなわち覚悟の差だ。既にお主の心は殺し屋と変わらぬところまで堕ちておる。そんな腐った心持ちでは、わしを斃すことなど到底できぬ。それは、幕府に尽くしたお主が一番よくわかっていることではないのか?」
――流派が違えど、剣術の行き着く先は同じである。
威力、手数、間合い取り。より効率的に攻撃を相手へ届けるため、改良を重ねて日々工夫を凝らすことが武芸の精髄である。
しかし刃と刀乃、両者には技量では埋められない決定的な差が存在している。
武術に於ける『心・技・体』。これはまやかしでも何でもなく、勝負を決する重要な要素である。心と身体は対を為し、確固たる信念を以て修羅狩りの強さは完成をみる。近しい実力を持とうとも、この戦場は乱れた心で抗えるほど甘くない。
「俺が殺し屋だと? 幕府が望む修羅狩りの大義も知らずに何を言う! 禍人を滅さねば……泰平の世は訪れんのだ!」
刃の言葉は、刀乃の信念を真っ向から否定するものである。
想定通り刀乃は激昂し、刃に向かって声を荒らげた。
「幕府の亡霊ども。お主の覚悟の重さは理解したが、人民を蔑ろにした者の覚悟など脆く崩れ去るのみだ。お主ら幕府の修羅狩りが見て見ぬ振りを決め込んでいる間に、どれほどの犠牲があったと思っておる? 大地が言っていた通り、既にわしらにとってお主は殺し屋と変わらんのだ。お主のやっておることは万人の死に直結する。大義なんて言葉で罪悪感を誤魔化すな! 幕府に縛られず、自分の頭で考えてみたらどうだ! 真っ先に目を向けるべきは民であろう!」
怒り狂う男の主張に耳を貸さず、刃は膝を突く刀乃の胸倉をグイと掴んだ。巨躯が浮き上がるほどに力を込め、刃は刀乃の眼をじっと見据えている。
「…………!」
刀乃は刃の戒飭が心に刺さり、崩れ落ちて額と上腕を地に突けた。言葉にならない嗚咽を漏らし、ガタガタと戦慄している。
幕府の時代、刀乃は優秀な修羅狩りであったことだろう。高い実力に加え、信念を貫き通す意志力――それはなかなか身に付けられるものではない。
今朝に刀乃は、刃達をすぐには殺さなかった。処刑が確定した者であるにも拘わらず己が使命を説き、刃達を納得させようとしていた。全てを懸けて果たそうと奮起しているという点では、刃に近しいほど刀乃の信念は強固なものである。優先順位さえ間違えなければ、刀乃は現代でも立派な修羅狩りとなっていたことだろう。
まだ抵抗するというのなら、この場で刀乃を処刑せざるを得ない。
しかし、一抹でも改心の余地があるのであれば生かしておくべきである。人間の生死などという倫理観の問題ではなく、単純に実力者である刀乃が惜しい。
刃は相手が殺し屋であろうとも、修羅狩りへの道を用意している。そうして大地や詩音は修羅狩りとなり、和平に大きく貢献することとなったのだから。刀乃が幕府への盲信をやめた時、道を正せる可能性は充分にあると刃は考える。
額を地に突けたまま動かない刀乃に向かって、刃は脇差の鋒鋩を突き付けた。
「わしの強さの源は、禍神に血に非ず。これでもまだ、禍人とやらを差別するのか? それとも、まだ懲りずにわしの前に立つのか?」
刃は刀乃の本心に迫った。刀乃がこうして地に伏せているということは、己の信念に迷いが生じている証拠である。脳内では幕府の指令と人民の保護、二つの狭間で大きく揺れ動いていることだろう。
少しして刀乃は、動かない脚を太刀で支えてゆっくりと立ち上がった。
「……認めよう。禍神の血ではなく、お前自身に敗北したことを……」
刀乃は敗北を認めて、悄然と目を伏せている。もう戦意はないようだ。
だが刃の実力を認めたことで、刀乃は信じてきたものが覆されてしまった。
妖力が厄介な異能であることに変わりはないが、目の前の少女は妖力に頼らずとも刀乃を打ち負かしたのだ。それに、刀乃自身も妖力を使うことで剣技の幅が狭まり、実力が落ちていたことを刃に気付かされてしまった。
結局のところ、妖力は使い手の実力や鍛錬に依存する代物なのだ。禍人を誰彼構わず処理してきた幕府の意向は、完全に間違っていたと言わざるを得ない。
「では、俺は一体何のために戦ってきたのだ……。何のために禍神の血を絶ってきたのだ……。俺という存在は……一体何なのだ……」
生き甲斐となっていた信念の誤りを知り、刀乃は悔悟の念をボソボソと呟いている。刃を認めつつも、なかなか頭の整理のつかないようだ。
ぼやく刀乃に向かって、刃は己の考えをぶつけた。
「かつての起源は存ぜぬ。だがわしら現代の修羅狩りは、殺し屋による殺戮の螺旋を断ち切るために戦っておる。わしらが信用できぬか? 禍人が人間と共存する道はないか? 和平を求めるのは同じであろう?」
「………………」
刀乃は黙っている。己の過ちを認めつつも、まだ一歩を踏み出せない様子だ。
その相貌を見て刃は刀乃の肩を掴み、揺れ動く心に強く訴え掛けた。
刃の主張は、幕府が元来から掲げてきた理念と一致しているはずなのだから。
「刀乃よ、何を恐れる? 己の理解の外にあるものがそんなにも怖いのか? わしと契約してくれた領主は、殺し屋の脅威から身を護るために信用して傍に置いてくれたのだ。わしはその信頼に応えるべく身命を賭して尽くした。お主らが危険だと断じる存在は和平を望んでおる。もし禍憑が人間を脅かした時には、わしらが責任を持って対処に当たってやる。それでよいのではないか?」
「………………」
刀乃はふっと息を吐き、糸が切れた木偶のように脱力してその場に座り込んだ。
「黒斬刃、俺の負けだ。君と対話を試みなかったのは、何と愚かなことか……。真の修羅狩りは君だ。俺がしたかったことを、君は続けてきたのだな……」
刀乃は天を見上げている。踏ん切りがついたのか、清々しい表情だ。




