第六十話 超克
詩音と荒士の戦いは異常なほどに静かだった。互いの斬撃が放つ風切り音のみが、絶えることなく孤児院の場内に響き渡っている。
手数の少なさが弱点であるはずの居合斬りだが、荒士は難なく高速の連撃を実現させている。荒士の居合が異次元の速度で放たれるため、敵方の斬撃を弾いて反攻に転じるという――剣戟に於ける基本戦術を詩音は捨て去っていた。
居合が開始される時に生じる僅かな殺意を頼りに、詩音は間合いを調整して反撃の機会を窺っている。但し荒士の斬撃は風の妖気を帯びているため、振りと同時に烈々たる風の刃が放たれることを頭に入れておかなければならない。
更に風刃の有効射程には際限がなく、回避には斬撃の角度までを考慮する必要がある。紙一重で躱そうものなら、黄泉への門が開かれることとなるだろう。
神速の居合が次々に襲い掛かるが、詩音は全てを躱してみせた。鼓動すら聞き分ける詩音の異常聴覚は、空を切り裂く風刃の発生を完全に見切っている。
「おっと……?」
意表を突くべく放たれた袈裟斬りを詩音が躱すと、荒士はまるで酩酊したように踏み込んだ足を滑らせて転倒した。
「これが音の妖術か、頭が痛ぇ……」
「わたしは手加減ができません。早く孤児院から出ていってください!」
「うるせぇな。この妖術でどれだけの命を奪ってきた? 元殺し屋が偉そうに」
まだ口が減らない荒士に対して、詩音は真っ向から反論した。
「己の所業を正当化するつもりはありません。誹りは甘んじて受けましょう。わたしが咎人であることも否定しません。ですが、わたしには果たすべき使命があります。ここで殺されるつもりはありません!」
荒士は頭を押さえながら立ち直り、詩音に向き直った。口撃しておきながら論争を繰り広げる気はないようで、荒士は応えずに再び居合の構えを取っている。
荒士は耳から血を流しながらも斬撃の嵐を披露した。高速の連撃を次々に繰り出し、その速度は衰えるどころか更に速くなったような気さえしてしまう。
詩音はこれまで何とか軽傷で耐えてきたが、体力と集中力を余すことなく消費し続けていたため回避が間に合わなかった。否応なしに太刀での防御を試みたが、実際に受けてみると攻勢があまりに激しく、詩音は凌ぎ切ることができない。
なんとか致命傷を避けたが、詩音の装束がじわじわと血で滲んでいく。
風の妖気を纏った斬撃は、触れずとも身を切り裂くのだ。
「はぁ……はぁ……」
「……なかなか倒れねぇな。戦いはこれからだぜ。逃げるなよ? お前を殺した後に、黒斬刃の弟を殺す。自称修羅狩り、拙僧から少年を護ってみせろ」
音の妖術を受けてきた荒士は、深編笠越しに頭を抱えて揺れている。徐々にではあるが、詩音の妖術が効いてきたようだ。
荒士がこうして雑言を投げ掛ける理由を詩音は理解していた。音の妖術によって揺らされた脳の機能を立て直すために、会話をすることで時間稼ぎをしているのだ。
「自称……ですか。あなたにどう思われようが構いません。わたしは師匠から修羅狩りだと認められました。それで充分なのです。わたしは幕府とは関係がありませんし、起源など知ったことではありません」
詩音は荒士の意図を理解した上で舌戦に応じた。罵りを受け続けるばかりでなく、反撃をすることで力が湧いてくる気がしたからだ。
もう何を言われても詩音の心が揺らぐことはない。殺しの世界から自身を救い出してくれた刃の使命こそ、詩音が歩むべき道であるのだから。
「師匠は……わたしにこの場を任せてくれたのです。あなたに勝てると信じてくれたのです。大切な弟さんの命を……このわたしに託してくれたのです!」
刃の信頼は、怯懦な詩音に力を与えた。詩音は不撓の決意を胸に、雄渾に荒士と渡り合っている。盤面は既に詩音が支配しており、決着の時は近い。
詩音の身体から紫の妖気が立ち上がっていく。妖力の高まりは空間を支配し、荒士を幻覚へと誘った。背景が消し飛び、荒士の視界に映るのは詩音ただ一人。
荒士はすかさず妖力を高めるが、思うように力が込められない。荒士の生み出す風は勢力を失い、発動と同時に音もなく消滅していく。
「ほう……拙僧の妖術を封じたのか? これが禍神の血……規格外だな。だが拙僧を倒すにはまだまだ足りないぜ?」
詩音の放つ膨大な妖力を前にしても、荒士の表情を歪ませるには至らない。剣術の技量では勝っていると、荒士は確信を持っていたのだ。
余裕を感じさせる荒士の態度を見て、詩音は小太刀を鞘に納めた。荒士が得意とする土俵で打ち倒そうという、詩音なりの意趣返しだ。
「……剣速で拙僧と張り合おうって?」
「ええ、残念ですが、もう遅いです。さようなら……」
詩音は膝が地面に突く寸前まで腰を落とし、居合の姿勢を取った。間合いの外であるにも拘わらず、詩音の構えには寸分の隙もない。
師事している刃が得意とする――神速を誇る逆袈裟の居合斬り。その再現度はもはや模倣の域ではなく、荒士の目に黒斬刃の幻影が映るほどであった。
――抜刀。詩音は抑えていた殺意を零から百へと解き放った。
「なっ!!」
研ぎ澄まされた音の振動は不可視の斬撃となる。
荒士は全身を斬り刻まれ、血飛沫を上げて倒れた。
「わたしは修羅狩り。何人たりとも、敗れるわけにはいかないのです」
詩音は小太刀を鞘に納め、ほっと一息吐いた。
抜刀の直前まで荒士に殺意を気取られることはなく、完全な一撃を放つことに成功したのだ。刃による薫陶が実を結び、実戦で活きた瞬間であった。
柄を握っていた手に痛みを感じ、詩音は小太刀を逆の手に持ち替えて掌を覗き込んだ。小さな掌には、血腫の潰れた痕が痛ましく腫れ上がっている。
掌の傷を見て、詩音は偲ぶように思いを馳せた。太刀を手にしたばかりの頃、こうした手傷を負うことは常であった。しかし現在では長年の経験により手が岩のように固くなっており、肉刺ができることは滅多になくなってしまった。
この傷は、身体が慣れていない動きを続けていたことによる反動であろう。
詩音は修行時代を追憶し、此度もまた試練を乗り越えたのだなと実感していた。
修羅狩りとなった現在でも、まだまだ修練は終わらない。世界の闇を晴らせるまで、修羅狩りの道は果てしなく続いていくのだから。
少しばかり手の傷を眺めた後、詩音はグッと拳を握った。
「詩音さん!」
奥の扉から死闘を見守っていた剣斗が走り寄ってきた。詩音の居場所まであと二尺のところで躓いた剣斗を、詩音は支えるようにギュッと抱き留める。
「剣斗君、無事でよかった……」
刃譲りの美しい黒髪を撫でた後、詩音は京子に向き直った。
緩めた口元を引き締め、修羅狩りとしての業務を再開する。
「佐越城は殺し屋の襲撃を受けており、ここも安全ではありません。京子さん、子ども達と共についてきてください。わたしが責任を持ってお護りします」
「詩音さん、ありがとうございます。……一体、どこへ向かうのですか?」
「天守です。そこで皆が戦っています。わたしは加勢しなければなりません」
「わかりました。よろしくお願いします」
不測の事態であるが、孤児院の子ども達は慌てずに従ってくれた。
孤独を知る子ども達は、どうやら肝が据わっているようだ。




