第五十八話 伯仲
嫋やかに舞う雫玖。やはり実力は類を見ない。滔々と放たれる水の形体は千差万別であり、流水の如く無限に形状を変えるため捉えようがない。
しかし、妖力を纏う攻撃が刃に効かないことは雫玖も承知している。通常であれば簡単に勝負がつく場面でも、刃が相手では決定打には成り得ないのだ。
剣術で隙を作って水の妖術を当てるのか、水を牽制に使って斬撃を当てるのか、勝利への道筋は二つに一つである。
雫玖は後方へ飛び、屋根の上に溜まった水を集束させて刃へと向かわせた。大きな水の玉が意志を持つようにうねり、刃を飲み込むべく追尾する。
しかし刃は脇差に黒の妖気を纏わせ、水の砲弾をあっさりと弾き落とした。黒の妖気が飛来した水を覆い尽くし、攻撃に宿る妖力を消滅させたのだ。
続いて地表の水溜まりが暴走し、刃の心臓を目掛けて水柱が立ち上がる。朱穂の殺し屋の多くを瞬殺した水の波動だが、刃はいとも容易く躱してみせた。
そのまま跳躍の勢いを利用して、次は刃が攻勢に出た。しかし頭上を目掛けて真っ向斬りを放つも、雫玖は易々と半身で斬撃を躱している。
その行動を読んでいた刃は着地して間もなく逆袈裟に切り替え、雫玖を追跡するように斬り払った。この逆袈裟斬りも回避されたが、これも読み通りである。躱されようとも刃は続けざまに高速の連撃を繰り出し、雫玖に反撃の暇を与えない。
雫玖ほどではないものの後の先を取る戦法が得意なことは刃も同様であり、返し技に対して互いに返し技を繰り出すという高速の剣戟が繰り広げられている。
そんな技の応酬の中で、雫玖の斬撃に幾つかの罠が張られていることを刃は見逃さない。雫玖は剣速を落とすことや振りを大きくすることで敢えて隙を曝し、返し技を当てるための餌を撒いているのだ。
自身の剣速であれば一瞬で勝負を付けられそうだと期待してしまうが、迂闊に手を出せば手痛い反撃を受けることを刃は知っている。
互角に見える打ち合いは、若干だが刃に傾きつつあった。刃が放つ牽制技の速度は他を圧倒し、返し技の名手である雫玖でさえ捌き切るのは困難を極めている。
分が悪い状況を覆すべく雫玖は逆に先手を取り、刃の返し技を誘うことで反攻を狙った。随一の反応速度を誇る刃を相手に先手を取ることは悪手であると言えるが、このまま後手に回り続ければ押し切られてしまうと勘付いたからだ。
だがこの行動によって、刃が得意とする速度の領域に引き摺り込まれたのだと雫玖は瞬時に悟った。雫玖は思考に意識を割く余裕を失い、幾つか返し技の選択を誤ってしまっている。
両者とも戦術を練る暇のないほど切迫しているが、どちらが有利な戦況かを刹那の間に判断しなければならない。攻めるのか、受けるのか。囮の牽制か、はたまた本命の一撃か。互いの有利と不利が即座に入れ替わるこの戦場では、常に最善手を選び続けなければ勝機はない。己が得意とする土俵に持ち込み、優位を維持し続ければ相手を崩すことはできないのだ。
しかしながら互いに難攻不落であり、防御を崩されたことなど一度もない指折りの剣豪である。それでも僅かな糸口を手繰り寄せ、攻城を成し遂げなければならない。
そうしてお互い大振りの一撃を放ち、その衝撃で一定の距離が空いた。
「雫玖、今どんな顔をしておる? その仮面を外せ。それは殺し屋の真似事か?」
「…………」
雫玖は答えない。
「術のキレが落ちておるぞ? もう限界か?」
「…………」
雫玖は応じず、黙って太刀を鞘に納めている。
降参かと思った矢先に、雫玖から途轍もないほどの妖力が膨れ上がった。雫玖を取り巻く空間が陽炎のように揺らいでいる。
隙のない居合の構えと、込められた異常なまでの妖力――雫玖が繰り出そうとしている技は間違いなく、刀身に水流を纏わせる防御不能の斬撃だ。
雫玖が繰り出そうとしているのは、朱穂の城壁を断ち斬った例の技である。妖力の通う攻撃であるとはいえ、刃の妖術を理解している雫玖が満を持して発動しようというのだから何か通用する策があるのだろう。
雫玖は決着をつける気だ。この期に及んで何を期待しているのか、対話を試みる刃にうんざりしたのだろう。一撃必殺の奥義を以て、黒斬刃がこれまで勘違いしてきた偽りの友情を標的の命と諸共に断ち切るために――。
「……いいだろう。受けてやる」
刃も脇差を鞘に納めて同様に構えた。刃とて戦いを長引かせる気などない。早々に白黒をはっきりさせ、士隆の護衛に付かなければならないのだから。
雫玖との距離は約六間程度。刃の脇差は雫玖の小太刀よりも短く、初太刀に全てを懸ける居合では圧倒的に不利である。得物の長さを見越して標的まで近付く必要があり、判断の遅れが命取りとなるだろう。抜刀術での勝敗は剣速だけで決するものではなく、適切な距離で抜刀を開始することが生死を分ける分水嶺となるのだ。
樹木の枝から滴り落ちる水滴を皮切りに、二人は一斉に駆け出した。決着は一瞬であり、勝者は一人だ。油断など決して許されない。
刹那の勝負を制するために、互いに距離を牽制し合った。駆け引きの末、雫玖の小太刀が届く間合いにまで近接する。雫玖はまだ抜刀をしない。
通常であれば、言わずもがな先手必勝の距離である。
もはや真剣勝負の間合いとは思えないほどに近接しているが、相手の動体視力を警戒してお互いに安易な手出しができない。万が一にも初太刀を躱されようものなら、圧倒的な不利を背負うこととなってしまうのだから。
生死を分かつ緊張が張り詰める中で、刃の集中は極致に至っていた。踏み込みによって舞い上がった砂粒を目視で数えられるほどに、周囲との時間の流れに大きな乖離が発生している。脊髄反射で最速の攻撃を繰り出せる――無我の境地である。
転瞬、刃の射程圏内まで距離が詰まった。
ここまで接近することができれば、回避はもう間に合わない。遂に捉えた絶好の勝機。伸ばせば相手の命まで簡単に手が届く、両者――必殺の間合いである。
刃は勝ちを確信するに至った。機先を制するなら――ここしかない。
――抜刀。
脇差の刀身が高速で鞘を辷り、刃の斬撃は雫玖の身体を斬り裂いた。
「――し、雫玖!?」
なんと、雫玖は最後まで抜刀をしなかったのだ。
雫玖は全身を血に染め、その場で力なく倒れた。




