第五十六話 試練
詩音は刃の指示で孤児院に急行していた。刃が狙われる理由が血筋にあるというのであれば、弟の剣斗もまた修羅狩りの粛清対象となるからだ。
剣斗を護るべく、詩音は孤児院の扉を勢いよく開けた。
「剣斗君!!」
部屋の中には子ども達の姿があった。どうやら無事であったようだ。
しかし、子ども達の様子がおかしい。部屋の隅で固まり、身を寄せ合っている。
その怯え切った視線の先には、予見通り不審者の姿があった。朱穂に現れた深編笠の男だ。男は院長の埜寺京子を拘束し、得物の鋒鋩を人質の首に当てている。
「よう、来たか。待っていたぜ。……ってあれ? 神楽詩音か。てっきり黒斬刃がここに来ると思っていたが、読みが外れたぜ……」
深編笠の男は物の怪のような挙動で、ゆっくりと詩音に向き合った。
「わたしは師匠にここを頼まれました。大嵐荒士、やはりここにいましたね。師匠の読み通りです。京子さんを離しなさい!」
「……いいだろう。こいつはもう用済みだ」
男は乱暴に京子を解放した。力任せに突き飛ばされ、京子は地面に勢いよく放り出される。
「ううっ!」
「京子さん!」
京子は腕を打った程度で、命に別状はない。
こうも簡単に人質を解放するとは、深編笠の男の目的は殺戮ではなさそうだ。もしくは人質を使わずとも、詩音に勝てると高を括っているのだろう。
子ども達に目を移すと、その中に震える剣斗の姿が確認できる。
安堵して小太刀を抜き放ち、詩音は臨戦態勢を取った。ここを任された以上、詩音は仲間を信じてこの場での任務を果たすのみである。
「神楽詩音――推して参ります!」
意気込んで詩音は男を強襲したが、疾風の如く放った斬撃を容易く躱されてしまった。だが狙い通り、深編笠の男を子ども達から遠ざけることに成功した。
「京子さん、子ども達を連れて奥へ避難してください! ただし、孤児院からは出ないでください。領内に殺し屋が現れ、どこにも安全な場所はありません!」
「わ、わかりました。詩音さん、どうかご無事で……」
京子は子ども達を連れて、孤児院の奥へと消えた。
荒士の動向を警戒していた詩音だったが、取り越し苦労だったようだ。
荒士は子ども達に見向きもしなかった。標的はあくまで禍人であり、初めから子ども達の存在は刃を誘き出すための餌に過ぎなかったのだ。
「安心しなよ。拙僧の狙いはお前だ、禍人。無垢な子どもを手に掛ける趣味はない。黒斬刃の弟は、お前さんの後を追わせてやるさ」
「わたしが生きている限り、剣斗君に手出しはさせません。くだらない講釈を垂れていないで掛かってきたらどうですか?」
余裕を感じさせる詩音の態度だが、荒士が容易な相手ではないことを理解している。朱穂で出会った時に見せた荒士の技は、詩音の目に映らなかったのだ。
この戦いでは刹那の油断が命取りとなるだろう。大嵐荒士の居合の速度は刃の剣速を凌駕している可能性があり、攻撃の起点となる殺意を感じ取ることができなければ瞬きと同時に首が飛ばされていることだって有り得るのだから。
これから始まる死闘を前に、詩音の背中には冷たい汗が流れていた。刃との修行によって掴んだ微かな糸口を、ここで完全に昇華させなければならない。
刃との稽古を除くと、相手の実力が格上であると認識して戦うことはこれが初めてである。戦場に於いて敗色の濃い戦闘に挑むことは絶対に避けるべきだが、自身が修羅狩りである以上は確実な勝利を求められる。
とはいえ修羅狩りとて初めから最強であるわけではない。こうした強者との戦闘を経て、より高みへと駆け上がっていくのだ。そのためにも旗色の悪い戦況を打破し、背水の逆境を乗り越えていかなければならない。
目の前に立ち開かる凶手を何としてでも打ち倒し、剣斗を無事に刃の元へと届ける。それこそが、修羅狩りとして詩音が果たすべき責務だ。
一方、荒士は腰の太刀の柄に上腕を預け、首を回して関節をポキポキと鳴らせている。荒士からは緊張や恐怖といった感情が一切感じられない。敗北する未来など欠片も想像していないことだろう。
「悍ましき修羅之子よ。ここで確実に殺す。己に流れる禍神の血を呪え」
「……何を言うのですか? わたしは禍神とは関係がありません」
「関係ないことはないさ。先祖返りの化物娘。その妖術で、どれだけの人間を手に掛けた? 修羅狩りごっこはいい加減よしてくれよ」
荒士のしつこい悪罵に、詩音は目を剥いた。怒りと共に妖力を解き放つと、紫の妖気が詩音の身体から立ち上がっていく。
「……そう、その力だ。お前さんに混じる血の正体を教えてやる。音の禍神――《呪禍杣》。呪詛を撒き散らせ、目に入る者を見境なく手に掛ける恐怖の怪異。姿を見て生きていられた人間はいないらしいぜ?」
「……まるで、見てきたように言いますね」
疑う詩音に向かって、荒士は嘲笑するように身体を揺らせている。
「拙僧は月輪の生まれだからな。向こうでは人間は奴隷も同然だ。だから拙僧も、禍神に魂を売る必要があった……」
嘘か実か、深編笠の男がとんでもないことを言い放った。
「月輪の……生まれですって……!? 禍神が生存していると……?」
驚愕する詩音に構わず、荒士は太刀の柄に手を掛けた。
それを見て、すかさず詩音は最大限に警戒をする。
「これは、黒斬刃を殺すために仕入れた力だ。風の禍神――《蟷蝟断》。拙僧に力を寄越せ――!」
「――!?」
――詩音は辺りを見回した。突然、音が消えたのだ。
この世に完全なる無音は存在しないはずである。しかし、自身に宿る異常聴覚を以てしても何も聞こえない。建具の軋み、風の音、そして、自分の鼓動さえも。
更に詩音は強烈な眩暈に襲われていたが、敵から視線を逸らさないよう頭を抱えながら目線を水平に保った。
しかし息ができない。これは一時的な真空状態だ。室内の空気が荒士の身体へと集束していく。荒士の手元の空間が歪み、うっすらと暈けているのが目に映る。
視認できたわけではないが、詩音は荒士の抜刀を推測した。だが両者の距離は完全に間合いの外であり、荒士の斬撃がこちらまで届くことはないだろう。
しかし懸念が拭えず、殺意の込められた荒士の抜刀に詩音は反射で身を翻した。
「うっ!」
詩音の頬から一筋の血が流れる。
違和感の正体を探るべく、詩音は周囲の状況を確認した。驚くべきことに、孤児院の壁や柱に鋭い切創が刻まれている。荒士の抜刀術は音を置き去りにしたのだ。咄嗟に躱さなければ、詩音の身体は真っ二つに両断されていたことだろう。
「まさか……斬ったのですか!? その場から動かずに!?」
荒士の身体から緑の妖気が立ち上り、周囲で轟く風籟が大きくなっていった。
殺気と共に荒士の妖力が増大し、建屋の壁や柱がミシミシと軋み始める。
「妖術……!? どうして……あなたも禍人だというのですか!?」
「お前と一緒にしないでくれ。拙僧は禍憑。禍神と契約し、後天的に妖術を使える者のことさ。刀乃から聞かなかったのか?」
「禍神と契約をしたのですか!? ど、どうして!?」
「お前ら修羅之子に抗うためさ。目には目を、歯には歯を、妖術には妖術を。化物を相手に生身で勝てると自惚れるほど、拙僧は馬鹿じゃないぜ?」
荒士は再び太刀の柄に手を掛けた。迸る妖気は旋風を生み出し、詩音は立つことも儘ならない。荒れ狂う暴威は、自然災害さえも凌駕している。
「拙僧の風についてこられるかい? 化物のお嬢さん」
「――――っ!!」
荒士の溢れる妖力により、建物中の窓硝子が砕け散っていった。




