第四十六話 悶着
少しして襖の戸が開き、中年の男が現れた。
「刃、久しぶりだね。息災でなによりだ。生きていてくれて安心したよ」
「わしを殺せる者などおるまい。お主も頗る元気そうだのう。士隆よ」
男は刃と一言の挨拶を交わし、座卓の向かいに腰を掛けた。
佐越の領主――神代士隆。齢四十。
領主には似合わない侍の袴を身に纏い、位の高さを感じさせない。
彼もまた、地種の道明と同様に身を窶しているのだ。それでも隠し切れない年の功が威厳を放ち、着座への一連の所作は上品であった。真っ黒な髪と瞳、丁寧に揃えられた口髭が目立ち、その面構えは年齢よりも若々しく映る。
領主を相手に知己のように振る舞う刃を見て、詩音は呆気に取られていた。
「師匠、お知り合いだったのですか?」
「ああ。士隆は、身寄りのないわしと雫玖を孤児院に入れてくれた恩人なのだ」
刃と士隆は目を合わせて、ニコリと笑みを預け合っている。
一国の領主と修羅狩り。初対面であれば互いに緊張しそうな間柄だが、二人の鼓動に異変がないことを詩音の異常聴覚が感知していた。それどころか高揚するような感情を両者から感じ取り、刃も領主も再開を心から喜んでいるようだった。
「八年前になるかな。刃も雫玖も、あの時はもっと小さかった」
「わしも、もう十六になる。あれから身体も大きくなっただろう?」
「そうだね、少し見ない内に大きくなった」
士隆の目は慈愛に満ちている。刃もまた、珍しく稚い笑顔だった。
「君のような子どもが、刀を置ける日が来ればいいが……」
士隆は目を伏せていた。刃が戦いに身を置いていることを心配しているのだ。
だが修羅狩り稼業は、刃が自ら選んだ道である。その信念が色褪せることない。
「わしが戦う理由は、日輪の和平だ。殺し屋を駆逐し、世界に安寧を齎すために。戦災孤児をなくし、子ども達が安全に成長できる世を創るために」
刃の瞳は淀みなく、真っ直ぐに士隆の双眸を見据えていた。
身体の心配をしながらも、士隆は刃の思想を誰よりも理解している。
刃の変わらぬ意志力を確かめ、士隆はニコリと微笑んだ。
「ああ、わかっている。それが修羅狩りの大義――だね?」
「そういうことだ。士隆、さっさと天下を獲れ」
◇
会話が一区切りついたところで、刃は来城の要諦を士隆に持ち掛けた。
「士隆、本題だ。佐越の周囲に位置する三国を含め、ここ一年間で近郊十二の国が地図から姿を消している。それも、修羅狩りとの契約が切れた翌日に――だ。それらの国には、間違いなく殺し屋が領地に入り込んでおったとわしは考えておる。恐らくだが、佐越にも紛れておる可能性が高い。わしらに調べさせてくれぬか?」
驚いた様子を見せた士隆だったが、納得したように首肯していた。
「そうだね。周辺諸国の訃報は耳に届いている。刃の言う通り、殺し屋が紛れている可能性は捨てきれないようだ。それでは――」
「――要らねぇよ」
士隆の承認が降りる直前――言下に何者かが口を挟んだ。
「な、何者ですか!?」
詩音は不穏な殺意を感じ取り、声の発信源を探るべく索敵を試みた。
しかし音の反響からして、室内には士隆、刃、詩音の他に誰もおらず、天井裏にも生物の気配を感じない。
詩音は最悪の事態を想定し、小太刀を抜いて士隆の懐に背を預けた。自らの異常聴覚を以てしても敵の居場所を特定できない上、これほど悍ましい殺意を放つ者の接近を許してしまうとは、修羅狩りとしての感覚が最大限の警戒をしている。
「どけ。チビッ子」
凄みのある声と共に足元の畳が捲れ上がり、詩音は転倒すると同時に激しい衝撃をその身に受けた。声と殺意の主によって、床下から蹴りを入れられたようだ。
しかし刃が寸前で間に入り、蹴撃が直接当たることを防いでくれていた。それでも尚、蹴りの衝撃を抑え切れず、詩音は対面の壁まで大きく吹き飛ばされる。
「くっ! なんて力……!」
詩音は着地と同時に小太刀を握り直したが、刃に手で制されたことで踏み止まった。刃は詩音に背を向けており、対象から目を離さない。
「てめぇら、死にてぇのか? ここは俺様の縄張りだぜ?」
詩音に蹴りを放った者は畳を元に戻し、ドスンと士隆の隣に腰を下ろしている。
現われた謎の人物の姿を見た詩音は、思わず息を呑んだ。鼻背を横断する大きな刀傷の痕跡に加え、爆撃を受けたかのように夥しい数の傷痕が顔面を覆い尽くしていたからだ。それだけではない。前襟から覗き見える胸元、更には袖口から露出している手や手首には、拷問を受けたかのような無数の傷が刻まれている。もはや傷のない肌を探すほうが困難である。
無造作に伸ばされた黄土色の髪、使い込まれた鈍色の装束、腰に佩く小太刀、見るからに熟達の忍びを彷彿させる姿だ。殺意を撒き散らせる藤色の眼光は鋭く、殺し屋に近い気配を感じられる。
得物を向けてはみたものの、詩音は足が竦んでいることを自覚した。
その者は禍々しい気配を放ち、刃を前にしても物怖じする様子はない。
「……大地、久しいのう」
大地と呼ばれる者の登場で、刃の心拍数が上がるのを詩音は感じ取った。残忍な性格の持ち主であるという、士隆が契約している修羅狩りだ。知人であるという刃の情報から仲が良いものかと考えていた詩音は、続く大地の返答に驚かされた。
「俺様がいれば佐越は安泰だ。刃、お前の出る幕はねぇよ。仕事がなくて困っているのか知らねぇが、探偵ごっこは他所でやってくれ」
久闊を叙することもなく、大地は刃を冷酷に突き放した。大地の纏う雰囲気は情報通りだ。爆薬のように危険な香りが充満している。
「大地、聞け。殺し屋が佐越に紛れておった場合、被害が及ぶのは城だけではない。周辺で暮らす民、それから孤児院をも危険に曝すこととなるのだ。修羅狩りは契約者に付く故、城内外の動向に目を向けることができぬ。わしは地種で、領主の調略にまんまと掛かってしまった……。大地、お主の実力を疑うのではない。修羅狩りとて人間。身体一つでは、護れるものも護れんのだ」
刃は毅然として反駁をする。大地の威喝に怯む様子はない。
「ごちゃごちゃとうるせぇな。俺様が契約している限り殺し屋の来襲は起こり得ねぇ。かつて現れた殺し屋には惨い殺し方をしてやったからなぁ。もし次に出てきやがったら同じ目に遭わせてやる。残念ながら、俺様の遣り方に穴はねぇよ」
刃の述べた意見に対して、大地は取り合う姿勢を見せなかった。
当然だが刃は引き下がることなく反論をする。殺し屋を佐越の地でのさばらせておくわけにはいかない。そうして滅びた国を、刃は何度も見てきたのだから。
「何かがあってからでは遅いのだ。佐越は銀山を始め、豊富な資材を調達できる土地なのだ。佐越が堕ちれば、日輪は殺し屋に蹂躙されてしまうのだぞ!」
「何と言われようが、佐越の平和は俺様が護る。余所者は出ていきな!」
「相変わらず……頭が硬いのう……」
刃は呆れて頭を抱え、再び狷介な大地に向き直った。
顔を上げた刃の眼には殺意が入り混じり、不穏な空気が漂っている。
「仕方ない……」
「――――!」
――突然、刃は士隆に向かって脇差を向けた。
殺気を感じ取った大地は小太刀を抜き放ち、士隆との間に入って刃の斬撃を受け止める。それから目にも止まらぬ攻防を繰り広げ、最後に二人は鍔で押し合った。
「刃、てめぇ……何の真似だ……? 血迷ったか?」
「大地、よくぞわしの殺意を感じ取った。腕は鈍っていないようだ。だが仮に、わしが領主を狙う殺し屋だったとしよう。お主は士隆を護り切れるつもりか?」
「へっ、やるなら構わねぇぜ? 表へ出ろよ。その自信を打ち砕いてやる」
得物を納めた両者は立ち上がり、額を合わせて睨み合った。
大地は常に殺意を漲らせ、今にも爆発しそうな危うさがある。日輪に於いて屈指の実力を誇る詩音でさえも、この場から逃げ出したくなるほどの殺気だ。
殺し屋にとっては、佐越を攻め入る勇気など湧き出るはずがない。外敵の抑止にこんな方法もあるのかと、詩音は強制的に大地の脅威を理解させられた。
止めに入ろうとした詩音だったが、二人の剣幕に気圧されて動けない。刃から発せられる殺意もまた、朱穂で詩音に向けられたものとは一線を画している。
こういった大地の言動はよくあることなのか、領主である士隆が焦って止めに入る様子はない。やれやれと肩を竦めて、穏やかに両者を見守っている。
「自信ではない。確信だ。お主など、十秒もあれば事足りる」
「じゃあ、俺様は素手やってやるよ。死んでから言い訳しても遅ぇぞ?」
「馬鹿は死なねば治らぬようだのう。来世ではもう少し賢くなってこい」
「死ぬのはてめぇだ。七年越しの決着を、今ここで果たしてやる!」
口撃が白熱し、猛る両者が互いの胸倉を掴んだ。
腕には血管が浮き上がり、着物の襟がミシミシと悲鳴を上げている。二人とも繊手に似合わず、尋常ではない力が込められていることが見て取れる。
目に見えぬ殺気がバチバチと火花を散らし、両者が同時に拳を振り上げた。
「「――――!」」
しかし、二人が振り上げた拳が振り下ろされることはなかった。
突如として洪水が部屋を襲い、二人を壁に打ち付けたのだ。激流に流された刃と大地は受け身を取ることができず、壁に打った頭を抱えて悶絶している。
「な、何だ!?」
「痛ぇ!」
いつの間にか応接間入口の襖が開いており、雫玖が凛と立っていた。
雫玖が水の妖術を発動し、無理矢理に二人の暴走を止めたのだ。
「いい加減にしてよ! 刃ちゃんは喧嘩をしに来たの? 大ちゃんは馬鹿なの?」
珍しく雫玖が柳眉を逆立てている。
その様子を見て、詩音の目には刃と大地が萎縮しているようにも見えた。
「……雫玖、すまぬ。まぁ全面的に、この馬鹿が悪いのだ」
「お嬢、先に手を出したのは刃だぜ? 俺様は悪くねぇ」
「仲直りしないと、もう一発食らわすわよ?」
応接間を襲った水流は、雫玖の制御により畳を浸すことはなかった。部屋を埋め尽くすほどの水量であったが、雫玖の掌に全ての水分が集束していく。
慣れたことなのか、士隆は二人の喧嘩を楽しそうに眺めていた。
「君達が孤児院にいた時のことを思い出したよ。二人の喧嘩を止めるのは、いつも雫玖だったね。刃、大地、久々の再会だ。仲良くしなさい」
びしょ濡れの二人の頭に、士隆は押入れから取り出した大きな手拭いを被せた。
「……すまぬ」
「……わかったよ」
刃、雫玖、大地の三人にとって、士隆は育ての親に近いものがある。いつもは達観して立ち振る舞う刃だが、士隆の前では年相応の少女らしく従っていた。




