第三十三話 教戒
天涯孤独の詩音は、ずっと手加減をして生きてきた。
全力を出せる相手がいなかったのだ。相手がどんなに強面でも、どんなに体格が良くても、どれだけ束になろうとも、詩音は本気を出さずとも全てに勝ってきた。
蛭間組に所属していた時には仲間の矜持を傷付けぬよう実力を隠し、己の妖力を知った時には周りに妖術の影響を与えぬよう立ち回った。
類をみない戦闘技術、生まれ持って己に宿る妖力、神に授かった戦いの天稟。
だがどんな才能でも正しく努力しなければ枯れてしまう。力を抑えることが癖付いた結果、ああいった神都での体たらくを招いてしまったのだ。
神都での動乱の際、刃は「よくやった」と詩音の働きを褒めた。だが城に残っていたのが刃であったなら、領民は誰一人として殺されることはなかっただろう。
刃による称賛は、相手がまだ歴の浅い詩音だったからだ。つまり神楽詩音は、まだ『修羅狩り』が意味するところまでの域に達していないということである。
修羅狩りに強さは必須事項だが、それだけで務まるものではない。
護るという行為は、相手を打ち倒すことより遥かに難しいことなのだ。それに、敵の実力が自分を上回ることもあるだろう。この戦いは、その場面を想定した模擬演習だ。勝てずとも死力を尽くし、相打ちをも辞さない覚悟を求められる。
傷だらけになりながらでも標的を討とうと考える者は少なく、殺し屋とて自身の命には執着するだろう。つまり手傷を負わせられる力と気概を相手に見せ付けることができれば、勝てずとも格上を退けられる可能性があるということだ。
刃は壁を越えさせるために立ち開かり、詩音に全力を出すことを許した。
普段は優しい刃が、こうして敵役を演じていることには理由がある。詩音の奥底に眠る力を呼び覚まそうと、刃はあえて厳しい態度を取っているのだ。
そんな刃が、目の前で音の妖術に嵌まっている。胡乱な目には気力を感じない。
妖怪はその限りでないが、人間は首を刎ねれば死ぬ。黒斬刃といえど例外ではない。完全に切り離せずとも首への損傷は致死性が非常に高く、時が経てば失血死は免れない。
千載一遇の絶好機。術に落ちる刃に対して、詩音は躊躇うことなく斬り掛かった。狙うは首筋一閃。一抹の油断なく、死角を突いて背後から斬撃を繰り出した。
一撃で仕留めるべく、詩音は全ての力を小太刀に乗せた。
しかし――。
詩音の斬撃はあっさりと躱されてしまった。だが驚いている暇などない。詩音は反撃に備えて距離を取り、刃の様子を窺った。
刃は悦に入るように数度頷き、詩音をじっと見据えている。いつの間に拾ったのか、その手には愛用の脇差が握られていた。
「……いい攻撃だ、詩音。威力、速度、狙い、どれを取っても申し分ない。それから、慌てて追撃しなかったことも良い判断だ。修羅狩りは敵を打ち倒すことよりも、自身が手傷を負わない立ち回りを求められる。わしの殺意を感じ取れたのかは知らぬが、そのまま攻撃を続けていればお主は死んでいた」
「…………」
刃の物言いには驚かされたが、詩音は顔に出さなかった。
詩音は、刃の殺意を感じて距離を取ったわけではない。刃の言っていることが事実であれば、こうしてまだ生きていることは運が良かったと言わざるを得ない。
修羅狩りの戦闘には、詩音の知らない次の舞台があるようだ。その技術をこの戦いで身に付けなければならない。これはそのための戦いなのだ。
しかし、闇雲に戦っていては答えを見付けることができない。どういった絡繰りなのかと詩音が考え倦んでいると、刃はお見通しかのように示唆を与えた。
「詩音、『殺意』を飼い慣らせ。それが最強への一歩だ。まぁ、本当に死なれても困るからのう。戦いの中で見出し、わしを納得させてみせろ」
「…………」
詩音は無言で首肯した。既に集中は極限に達している。
実践できるかはさておき、刃の一言で詩音は全てを把握した。自身の攻撃は、無意識に込められた殺意によって軌道を読まれていたのだ。
刃の反撃を未然に防ぐことができたのは直観による僥倖であったが、込められた殺意を感じ取り、攻撃を避けることが必要であることを詩音は理解した。
己の殺意を隠しつつ、敵方の殺意を感知する――この技術を身に付けることができれば、詩音の実力は新たな次元へと進化を遂げることだろう。不意打ちも多勢も脅威ではなくなり、戦いに於いて無類の強さを発揮することとなるだろう。
まさに神の御業。修羅狩り――黒斬刃が最強たる所以である。
「――!」
詩音は背後から強烈な殺意を感じて振り返った。目の前に立っていた刃が消えたと思いきや、すぐ背後で脇差を振り上げている。回避は間に合わない。
咄嗟に小太刀を横薙ぎに振り抜き、詩音はなんとか刃の斬撃を弾いた。
「――!!」
またもや背後からの殺気。まさかと思ったが、その殺意の先には刃がいた。続けざまに放たれる刃の攻撃を読み、詩音は斬撃の嵐を完璧に防ぎ切った。
殺意を隠し通す技術を持ちながら、どういうわけか刃の放つ斬撃には殺意が込められている。これは手心を加えているわけではなく、何か理由があるはずだ。
「…………!」
その答えは、すぐ目の前にあった。
攻撃を全て防ぎ切ったはずが、詩音の装束の裾に一筋の傷が入っている。
刃の攻撃の中には、殺意の通わないものが含まれていたのだ。そいつを見つけ出し、こちらは殺意のない攻撃を繰り出す――それこそがこの戦いの要点である。
理解したところで分が悪いと言わざるを得ないが、それでも詩音には確固たる自信があった。
人知れず研ぎ続けた――その身に宿す音の妖術。音は空間を支配しており、防ぐことは能わず。いくら耳を塞ごうとも、音振の波動には抗えない。先般はどうやって破ったのか不明だが、刃にも音の妖術が通用することは実証済みである。
それに、刃には全ての技を見せたわけではない。付け入る隙は充分にある。
度肝を抜いてみせると意気込み、詩音は刃に立ち向かった。
◇
刃と詩音の戦いは四半刻ほど続き、とうとう決着となった。あまりに高速な技の応酬、目紛るしく切り替わる攻防に、戦いの顛末を理解できた者はいなかった。
「……勝負ありだ。詩音、強くなったのう」
刃は労いの言葉と共に、脇差の刀身を詩音の首に突き付ける。
詩音は敗北を認めて、手から滑り落ちるように小太刀を手放した。
「ひとまず合格だと言っておこう。お主はもっと強くなる。これからも精進せよ」
続いた刃の言葉を聞き、詩音の瞳が涙で溢れている。
「刃……どうやって破ったのですか? わたしの妖術は完璧だったはず……」
「お主の妖術が音速を超えるなら、わしは更にその上をいくまでだ」
「音よりも早く動いたというのですか……!?」
「それでお主の妖術を破れるかは賭けだったがのう……」
「刃……凄い……」
「む……?」
喉元に突き付けられた凶器を見もせずに、詩音は刃に抱き付いた。あまりに敢然な詩音の行動に対し、刃は咄嗟に拘束を解いて受け入れてしまうのだった。
「あなたはやはり……わたしの憧れです。〝師匠〟って呼んでもいいですか?」
「お、おう。そうか。好きに呼べ。褒めても何も出ないぞ?」
返答に困る刃に対して、雫玖が横から茶々を入れた。
「刃ちゃん、もしかして照れていない?」
「わしは照れとらん!」
縋り付いてくる詩音の背に腕を回し、刃は力一杯に詩音を抱き締めた。
詩音の持つ心意気が本物であると刃は確信している。
詩音は刃に対して臆することなく抗い、あろうことか善戦してみせたのだ。後はもっと経験を積むことで、詩音は修羅狩りとして更なる力を得ることだろう。
「詩音、お主にはまだ教えておらぬことが山ほどあるのだ。神都から地種に雇われるまでしか、お主に教授する時間がなかったからのう」
「……師匠、教えてください」
「……それに、父上から聞いた教訓には続きがある。よく聞け。続きだ。『其之肆――修羅狩りは殺し屋に与するなかれ』。『其之伍――殺し屋には一切の慈悲なく天誅を下せ』……だ。早とちりをしおって……」
刃の言葉を聞き、詩音は固まった。
「……え!? そんな教えがあったのですか? 早く言ってくださいよ!」
「わしも殺生をせぬ故、全ての教えを守っておるわけではないがのう。しかし殺し屋に雇われるとは……。お主、かなりの天然っ子だのう」
「ううっ、面目ないです……」
省察した詩音は、いつもの調子に戻っている。
修羅狩りの禁忌を犯した詩音に対して、刃は譴責することなく迎え入れた。
詩音は意地っ張りだが、契約を従順に守る姿勢に刃は感心していたのだ。
「やれやれ……。どうなることかと思ったけれど、詩音ちゃんを取り戻せてよかったわ。とりあえず家へ帰りましょう。刃ちゃんの家に食材を置きっ放しなの。二人に何か美味しいものを作ってあげるわね」
「悪かったのう。つい指導に熱が入ってしもうたわい」
「やったぁ! 先輩の料理は大好きです!」
「…………」
紅蓮は失った意識を取り戻していたが、詩音が刃に敗れたことで目を開けることができないでいた。瞑目したまま、じっと修羅狩りが立ち去る時を待っている。
修羅狩りへの恐怖心から、取り囲む殺し屋の集団も立ち尽くすのみであった。




