第三十二話 教示
――詩音の妖術は音。空間を振動させることで、あらゆる事象を引き起こすことができる。しかし術の特性上、音による攻撃は契約者にも影響を及ぼしてしまうのだ。そのため扱いが難しく、安易に発動することはできない。
詩音の戦法は既に割れている。刃は細やかな足運びで俊敏に動き、詩音に的を絞らせない立ち回りをした。
「どうした詩音! そんなものか! わしを殺す気で掛かってこい!」
「くっ!」
その戦いはあまりにも一方的であった。詩音の剣術はかなりの腕前だが、刃には到底敵わない。得物の長さや切れ味の優劣も、技量差を埋めるには至らない。
刃は詩音の斬撃を往なし、隙を見て拳打で反撃をした。傍から見ても彼我の実力差は圧倒的であり、このままでは詩音に勝機はない。
しばらく剣戟を続けた後、鍔迫り合いの様相となった。刃の連撃についていくのが精一杯な詩音は、大きく肩を揺らせて息をしている。
詩音に息を整える暇を与え、刃は詩音に語り掛けた。
「詩音、お主が修羅狩りになったと知って、わしは心底嬉しかった。殺し屋には勿体ないほどの強さと心意気――お主はその力を殺生ではなく、護りに使う選択をした。この日輪の情勢に於いて、誰にでもできることではない」
「……刃……」
刃は詩音への讃辞を述べたが、慈愛に満ちた表情はほんの数秒で打ち切られた。
一度緩めた口元を引き締め、再び刃は闘気を漲らせる。
鍔の押し合いに注力する詩音に対し、刃は胸部を狙って前蹴りを入れた。蹴りは強烈な威力を放ち、詩音の小さな身体は間仕切りを突き抜けて吹き飛ばされる。
詩音は壁の残骸からゆっくりと身を起こし、目に涙を蓄えて刃を見上げた。
つい先ほどとは打って変わり、刃から厳しい言葉が投げ掛けられる。
「お主は強い。だが、まだまだ足りぬ。お主から勝つ気概を何一つ感じないのはどういう了見だ? わしが殺し屋となったらお手上げか? 敵が己より強かったらどうする? 相手が黒斬刃では仕方がないと、契約者に許しを請うつもりか?」
「そ、それは……」
力の差は歴然としており、詩音は既に戦意を失っていた。初めて出会った時にも力の差を見せ付けられたが、その差は全く縮まっていなかったのだ。
詩音は血の滲むような努力を積み重ねた気でいたが、差は更に開いているとさえ感じていた。どれだけ足掻こうとも、刃に勝つことが微塵も想像できない。
押し黙る詩音に向けて、刃は更に厳しい言葉を続ける。
「修羅狩りは常に最強でなければならぬ。完璧な守護と抑止を期待され、頑張りなど評価されぬ。相手が誰であろうとも、修羅狩りは征されてはならんのだ!」
「うぅ…………」
刃の言ったことが胸に突き刺さり、詩音の目から涙が溢れ出した。
詩音はなかなか立ち上がらない。怯える詩音に対し、刃は追撃を敢行する。荒々しく脇差を振り回し、蹂躙するかの如く詩音を追い詰めた。
詩音は震える脚を無理矢理に稼働させ、間際で刃の攻撃を凌いでいる。
だが防戦一方では戦況を覆すことができない。
隙を突いて放たれた刃の拳が、詩音の腹部を正確に捉えている。身体が浮くほどの一撃を受け、詩音は我慢しきれず嘔吐した。
「殺す気でこいと言ったのが聞こえなかったのか? 期待外れだ。不憫な契約者を増やす前に、もう修羅狩りなどやめてしまえ。お主では到底務まらぬわ!」
「うっ……あ……」
詩音は自身の身体を抱き締めた。全身が痛い。服を脱げば痣だらけだろう。
詩音は考えていた。刃がここまで厳しく当たってくる理由は何だろうかと。
刃の拳を受け、詩音は彼女の意図を汲み取っていた。
己に足りない何かを、刃は戦いの中で教えてくれているのだ。その答えを知るには全力で当たる他に道はない。刃の望み通りに――殺す気で。
詩音は刃に本気で立ち向かう決意をした。先ほどまでの泣き面はどこへやら、腹を括ったように表情を一変させている。
「いいぞ、詩音。お主の全てを、わしにぶつけてこい!」
刃は己の胸をドンと握り拳で叩いた。体格は詩音とさほど変わらないが、この時の刃の身体は熊のように大きく映っていた。
これは命を懸けた稽古なのだ。詩音は心の中で「ありがとう」と呟き、目の前の最強を討ち倒すべく闘気を漲らせた。
だが全力の戦いを始める前に、やるべきことが残っている。
詩音は大きく後方に飛び、護るようにして紅蓮の前に着地した。
真意を悟られる前に、詩音は契約者である紅蓮の顎に裏拳を掠らせる。
「うげっ!」
紅蓮は脳を揺らされ、魂を抜かれたように倒れた。どうやら気絶したようだ。
「これも契約者を護るためです。……これで、わたしの本気を出せます!」
刃が詩音の意図を理解したと同時に、少女の身体から紫の妖気が迸る。詩音が妖気を発したことにより、建屋を形作る材木がミシミシと音を立てた。
「修羅狩り――神楽詩音。推して参ります!」
詩音は刃に向かって、徐に掌を翳した。妖力を纏う超高密度の音波が波動のように広がり、刃へ向けて慈悲もなく襲い掛かる。
「むっ……?」
刃は空の手で額を押さえ、膝に手を突いた。
詩音の術により三半規管が乱され、視界が徐々に歪み始める。
それから次第に平衡感覚を失い、床が眼前に迫ってくる。常人であれば既に決着がついているほどの症状だが、刃は倒れる身体をなんとか踏み止まらせた。
術の効果はまだ続く。時の流れが急に遅くなったかのような錯覚を押し付けられ、鈍磨した身体を思ったように動かすことができない。
「――――!?」
刃は瞠目して辺りを見回した。途端に周囲の音が消えたのだ。
何も聞こえず、一時的な視野狭窄により詩音の居所が掴めない。現状把握に割く思考さえ儘ならず、気が付けば刃の手から脇差が零れ落ちていた。




