第九話 圧倒
横一文字に振られた豪剣斎の大太刀が、紙一重で刃の鼻先を掠めた。
この男の斬撃は想像以上に振りが速く、得物の重量をまるで感じさせない。初動を見てからでは対処に遅れが生じてしまい、ある程度の予測を織り交ぜなければ多大な危険を伴うことだろう。
更には斬撃による強烈な風圧により、当たらずとも周囲の草木を吹き飛ばしている。見かけ倒しの木偶の坊かと思っていたが、案外そうではないらしい。
続いて豪剣斎が放ったのは、諸手による唐竹割り。振り下ろされた大太刀の衝撃は地表に大きな亀裂を刻み、僅かながら大地を震わせた。その威力はもはや人間業ではない。城門を叩き斬ったという逸話は虚言ではなかったようだ。
鷲見兵を戦いから遠ざけたことは英断であった。豪剣斎は巨躯に似合わず俊敏で、近くにいれば巻き添えを食らう危険性が跳ね上がっていたことだろう。
扱う得物の長さも相俟って攻撃範囲が異常なほどに広く、大人数を護り切ることは困難を極める。
「ぬうん! そんな玩具で我輩と戦おうなど、笑止千万!」
「脇差を侮るな。人を護るのに、これ以上の凶器は無用だ」
自らの刀で敵方の斬撃を受け止めるという、常人では到底為し得ない超絶技巧。
想像を絶する難度に反して戦いの基本とも呼べる技術であるが、ここに剣術の精髄が詰まっているといっていい。一撃必殺をぶつけ合う刀剣での戦闘に於いて、この常軌を逸した行為は反攻に転じるための必要不可欠な防御手段であるからだ。
しかしながら一刀でも食らえば死であるが故に、実行するにはどうしても気の迷いが生じてしまうものである。受けを誤れば次はなく、もし一命を取り留めたとしても肉体の欠損を招き、少なくとも耐え難い激痛を負うことは免れない。
一度でも刀傷を受けた経験がある者であれば誰しもが思うことだろう。
もう二度と味わいたくない――と。そして、それを体験することの恐怖心は盤面を不利に導き、思い浮かべた最悪の想定を現実にしてしまうのだ。
だが豪剣斎は自ら刃との戦いを望んだ。越えてきた屍の数に裏打ちされた自信が、豪剣斎の心を強固に繋ぎ止めているのだろう。
対峙した相手が一騎当千の猛者か否かを見分ける方法は極めて簡単である。
それは、得物の切っ先を相手に向かって突き立てることだ。回避、受け、弾き、受け流し――どれも時機と精度を求められる高等技術であるが、刺突の対処こそ最も難度が高く、剣士としての技量が試されることなのだから。
実力を推し量るべく刃が初手で放った喉元への刺突に対し、豪剣斎は易々と太刀の平地で受けていた。紙切れほどの厚さしかない鋒鋩の突撃を狂いなく見切ったその技量は、紛れもなく本物であると認めざるを得ない。
そんな万夫不当の凶手を前にして、刃には逃げも隠れもできない事情がある。
当然ながら刃には修羅狩りとしての責務があり、領主の命をその双肩に担っているのだから。
つまり、それは一国をその身に背負っていることと同義である。
己の敗北は契約者の死に直結するため、敵が何者であろうとも修羅狩りは常に百戦百勝を求められる。
砂埃を巻き上げて太刀を振り回す豪剣斎に対して、刃は防御と回避に徹していた。これは防戦を強いられているわけでも、攻め手を決め兼ねているわけでもない。
持ち手の実力に拘わらず、振るわれる凶器は剥き出しの抜き身。掠り傷ですら致命傷になり兼ねない上、急所に食らえば絶命は必至。
戦場では判断の遅れが命取りとなるため、まずは情報を集めて敵方の観察を行うことが刃の基本戦術なのだ。敵の戦型によっては立ち回りを変える必要があり、手札が不透明な相手に安直な手出しをすることは大きな危険が伴う行為である。
相手が格下であろうとも、刃は更なる警戒を怠らない。頭が切れる者であれば、切り札を隠し持っている場合があるからだ。相手の動きを見て流派や手癖を見切り、効果的な戦術をその場で編み出していく。これが常勝の秘訣であり、刃は初見の相手でも落ち着いて戦うことができるのだ。
戦闘中に刃が意識を割いているのは、主に敵の眼である。眼球にはあらゆる情報が宿っており、斬り合いの中で視線を謀ることはできない。眼を見て思考を読み取ることで、不意打ちをも許さない盤石な戦況を実現させるのだ。
豪剣斎が放つ斬撃の脅威を刃は察知していた。真正面から受ければ武器ごと破壊され、身体を真っ二つに両断されてしまうことだろう。刃の膂力を以てしても純粋な力比べでは分が悪い。受けるのではなく力の方向を変え、脱力して往なす技術が求められる。至難の業だが、刃の剣技はそれを容易に熟していた。
刃の手捌きは類を見ない一級品である。
力を込めた斬撃が、固体にぶつかることなく受け流されてしまうのだ。豪剣斎にとっては流水、否、風を相手にしている感覚だろう。
大木のような刃渡りを持つ豪剣斎の大太刀に対して、刃の脇差は一尺程度。しかし刃は得物の不利を気にも留めず、一糸乱れぬ動きで敵の猛攻を捌き切った。
刃は既に盤面を支配している。
豪剣斎は、刃の術中であることに気が付いていない。
そして大太刀を躱して生まれた僅かな間隙を縫って、刃は大男の懐に入り脇差を振るった。地を這うような低姿勢から繰り出される神速の逆袈裟斬り。
刃の斬撃はその速度と威力が相俟って、殺し屋の間では毒蛇に例えられることがある。父の剣技を見て学び、独自の進化を遂げた自己流剣術。
一切の狂いなく放たれる斬撃の精度は、まさに正確無比。刃が敢えて急所を外さなければ、相手は斬られたことにさえ気付けずに命を散らせることとなるだろう。
「――うぐっ!」
豪剣斎の持つ得物が大きな手から零れ落ちた。
刃の神業によって、豪剣斎の五指を刎ねたのだ。
「お主は強い。だが、わしには遠く及ばぬ。……次は左手の指を頂く。刀を持てぬようになりたくなければ、早々に立ち去れ!」
豪剣斎は、斬られた指を押さえて蹲っている。
しかし、男の闘気は治まるどころか増幅していた。
「剣客として、尻尾を巻いて逃げることも……敗北することも許されぬ!」
「この……わからず屋め! 剣客としての矜持を持ちながら、お主はなにゆえ殺しを請け負うのだ!」
豪剣斎は太刀を左手に持ち替え、再び襲い掛かってきた。
――しかし、豪剣斎の太刀が振るわれることはなかった。
豪剣斎は凍結したように身体を硬直させて動かない。振り上げられた腕からは得物が零れ落ち、少ししてその巨体を力なく横たえた。
「――!?」
一体何が起きたのか、刃は即座には把握ができなかった。
更なる敵の奇襲に備えて、刃は景吉の傍に付いた。
辺りは次第に、薄い靄に包まれていく――。
鷲見軍の陣幕を覆う靄は徐々に濃さを増していった。視界がなくなるほどの濃度であるが、鷲見兵は誰一人としてこの奇妙な現象を気にする素振りを見せない。
刃は結論付けた。この不気味な霧は自分にしか見えていない――と。
「これは……妖術? まさか毒か?」
気が付いた時には遅かった。周囲の鷲見兵がバタバタと倒れていく。
「景吉、伏せろ! 極力息をするな!」
「わ、わかった……!」
景吉の隣で周囲を窺っていると、倒れた豪剣斎の上に座る女が目に入った。
紫色の長髪に奇術師のような黒い外套。見たところ、明らかに堅気ではない。
「お主、いつからそこに?」
「おチビちゃん、どうして死なないの?」
「わしに毒は効かぬ」
「へえ、どうして毒だとわかったの? 色も臭いもないはずよ」
「わしには瘴気が目に見える。この手の奇襲は通じぬ」
謎の女は、鼓動のない豪剣斎の背から飛び降りた。
やはりその身の熟しは、常人では有り得ないほどに隙がなかった。
「私の名は天禰。砂呉に雇われた殺し屋よ。豪剣斎も同様にね」
天禰と名乗る人物は、あっさり名と所属を開示した。刃は相手が答えないとわかっていながら質問をしていたので、思わぬ回答に少し動揺してしまった。
「雇い主を言いおったな。それは規約違反ではないのか? いくら悪行とはいえ、約束は守らねば信用を失うぞ。そこの男は素直に黙秘しておったというのに」
「あら? 殺し屋事情に詳しいのね」
「元殺し屋を知っているものでな。わしの名は――」
「――黒斬刃でしょう? あなた、殺し屋界隈では超有名人よ。あなたに挑んでも命を取られないから、腕試しをしたくてウズウズしている輩が大勢いるわ」
「……………………えっ?」
天禰の言葉を聞いて、刃は漏れそうになった驚声をなんとか小声に抑えた。
刃は契約者を護るためにこれまで何度も降り掛かる火の粉を払ってきたが、実を言うと修羅狩りと契約を締結した国が襲われること自体が不条理な事態なのだ。
田鍋が刃との契約を延長しなかったのもこれが理由であり、実力者である彼女がなかなか長期の契約に至らない所以である。刃はその真相を初めて突き付けられ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったと臍を噬んだ。
幸運なことに犠牲者を出すことはなかったが、契約期間中であるにも拘わらず国が危険な状況にあったことは紛れもない事実であるのだから。
「急に襲われることがあるのは、そういうことであったのか……。迷惑な話だ。修羅狩りとして、わしの恐ろしさを馬鹿どもに周知する必要があるのう」
脇差を鞘に納めて目を閉じると、刃の身体を中心に黒い渦が立ち上っていく。
それを見た鷲見兵からは驚きの声が続々と上がり、得体の知れない脅威を感じ取った天禰は震え上がったまま動かない。
――抜刀。
黒の妖気を纏った斬撃が空間を切り裂き、場を満たす瘴気を消し飛ばした。
「なっ――!?」
天禰は事態を飲み込めず、目を見開いて言葉を失っている。
「これがわしの妖術だ。天地万物、わしに斬れぬものはない」
驚く天禰に隙を与えず、刃は斬り掛かった。
正中線に斬撃を加え、天禰の身体から鮮血が弾け飛ぶ。
「うっ!」
天禰は苦悶の表情を浮かべたが、何とか踏み止まった。
己の身体から吹き出る血を見て戦慄し、歯を食いしばって傷口を押さえている。
「天禰よ、帰ってお仲間の馬鹿どもに喧伝しろ。わしは命を取らぬが、向かってくる者に容赦はせぬ。半殺しは覚悟しろとな!」
刃による追撃の正拳突きが、天禰の水月を正確に捉えた。
天禰は噎せて苦しむ間もなく、息を引き取ったように崩れ落ちた。




