離宮の小夜子 1
今が朝なのか夜なのか、時間の感覚は曖昧だ。
寝ても覚めても小夜子の体には熱い体温が絡みついていて、自由が一切利かない。無駄に大きい寝台の外に出ようとすると、その熱はすぐさま小夜子に絡みついて寝台の中に引き戻されてしまうのだ。
意識ある内に体にも寝具にもこまめに清浄魔法をかけているので、衛生的には問題無い。
いつの間に差し入れられているのか分からないが、食事すら寝台の上で取らされるほど小夜子は寝台から離れられないでいる。
この爛れた生活が何日続いただろうか。
その日も目覚めれば小夜子の動きは封じられていて、身動きできない状況だ。小夜子の胸元にはずしりと重りが乗せられ、背中にはたくましい両腕が回されている。
「・・・ちょっと、アレク」
体重を掛けない様に気を使われているが、成人男性の頭部が胸元に乗っているのでそれなりの重さと圧迫感はある。皇弟のアレクシスは小夜子の胸元に顔を埋め、瞳を閉じていた。小夜子は黒獅子の鬣のような、豪奢にうねる黒髪をそっと梳く。するとアレクシスの口元が笑みを作った。
「アレク。起きてるわね」
「寝ている」
小夜子がため息を零せば、アレクシスはクツクツと喉を鳴らして笑った。
「ねえ、皇弟殿下。こんなに休んでいていいの?仕事は?」
「仕事はしている」
いつの間にと思ったが、小夜子が寝ている時間がいくらでもある。
無駄に広い寝室の窓際に置かれたライティングディスクは、すっかり最近のアレクシスの執務机になっているようで、書類やファイルが積み上げられている。小夜子の相手をしながら仕事をこなし、短い睡眠で過ごすその体力には小夜子も驚き呆れるばかりだ。
小夜子は時間が許す限り長時間寝ていたい質だが、逆にアレクシスはショートスリーパーのようだった。小夜子が目覚めると、大抵アレクシスは小夜子の寝顔を眺めている。
「私がここに来てどれくらい経ったの?」
「まだ2週間だ」
まだ。
いったいアレクシスはどれほどこの寝台に引き籠れば満足すると言うのか。
なんどもう起きようとアレクシスに声を掛けても、より深く寝台に引きずり込まれる結果となったこれまでだった。
「アレクがこんなに情熱的だなんて、驚いたわ」
「そうか」
アレクシスは小さく笑い小夜子の胸元で再び瞳を閉じた。
本当にあの俺様皇弟と同一人物なのかと小夜子は思う。アレクの髪を手櫛で梳いてやる内に、小夜子の瞼は自然と重くなる。2人の怠惰な時間はどんどん積み重なっていく。
結局小夜子とアレクシスが寝台から出るまでに更に3日が過ぎたのだった。
多少の攻防がありながらも、小夜子は衣服を整え、アレクシスはガウン姿だったが寝室を出る。その隣には居間があり、モーニングコートに身を包んだ老紳士が控えていた。
「おはようございます、アレクシス様」
「アンドリュー、紹介しておく。サヨコだ。私の離宮の滞在を今後許す。覚えておいてくれ。サヨコ、私の離宮を管理しているアンドリューだ。何かあればこの者を使ってくれ」
「サヨコよ。よろしく」
アンドリューは丁寧に小夜子に一礼した。
「アレクシス様、お食事はいかがなさいますか」
「そうだな。2人分用意してくれ」
「かしこまりました」
アンドリューは控えているメイドに指示を出すと、テーブルに着いたアレクシスと小夜子の為に紅茶の準備を始める。
「久しぶりに文化的な生活に戻ったわ」
「今までは違ったか」
「ここに来てからは本能の赴くままの、まるで獣の生活だったわね」
食事の準備をしていた年若い侍従の1人が、カチャンと小夜子の真横でカトラリーを鳴らした。
「大変失礼いたしました」
侍従達は下がり、アンドリューが紅茶をサーブし、1人で食事のセッティングをし始めた。アンドリューは気配を消して淡々とテーブルに朝食を並べていく。
朝食の準備が整い、小夜子はふわとろオムレツに舌鼓を打ち、焼き立てのバターロールを千切って口に放り込む。物凄い勢いで小夜子の目の前の皿から料理が消えていく。
アンドリューは小夜子に料理の追加の希望を確認しながら給仕をする。小夜子の食事のスピードは速いが、所作が美しく見ていて気分が良いほどだ。その小柄な体の何処に入るのか、オムレツの二度の追加、バターロールのバスケットを交換する頃にはアンドリューの口元にも笑みが浮かんでいた。
2人は存分に食事を楽しみ、そして食事が終わった小夜子はあっけらかんとアレクシスに言い放った。
「じゃあ私、そろそろ行くわね」
食後のコーヒーを小夜子の目の前で飲んでいたアレクシスは、コーヒーカップをソーサーに戻す。そしてゆっくりと長い足を組んで椅子に深く腰掛けた。
「サヨコ、私達には色々と話し合いが必要だと思う。その時間をくれないか」
アレクシスは人払いをしてアンドリューと侍従達、食事の途中から入室してきた護衛達も全員部屋から一度下がらせた。
雰囲気の変わったアレクシスの様子に、思わず小夜子も深く椅子に腰かけ直した。帝国人用に規格の大きい椅子は、小夜子の両足がブラブラと遊ぶことになるのだが行儀を気にするなど今更の話だった。
話し合う態度を見せた小夜子に、フッとアレクシスの目元が緩んだ。
「ここ数日の事が未だに現実の物とは信じられない。サヨコが私の気持ちに応えてくれるなど、夢にも思わなかった」
「あれだけあからさまだったら、私だって気付くわよ。さっさとハッキリ言ってくれたら良かったのに」
いつの頃からか、気付けばアレクシスの小夜子を見る目は非常に柔らかなものに変わっていた。小夜子を気遣うようになり、周囲を赤面させるほどに健気に毎日贈り物をしてくる。そのくせアレクシスからは決定的な事を言ってこないのだから、ついつい気の短い小夜子は自ら動いてしまったのだ。
「お前は怒っていないと言ってくれたが、私はサヨコに酷い態度を取った。私の発言は取り消せないし、この後悔は私が死ぬまで消えはしないだろう。臆面もなくお前に愛など乞えるものかと、私の想いは打ち明けまいと決めていたのだが・・・・。サヨコ」
帝国の至宝と言われる黒曜石の瞳が小夜子に向けられる。
「お前を愛している」
アレクシスは偽りも誤魔化しもなく、真っ直ぐに小夜子へ想いを伝えた。
ほんのひと時の、割り切った関係でも良いと考えていた小夜子だった。しかし、これほど真摯に自分の本心を見せてくれたアレクシスに、小夜子も真剣に向き合わなければいけないだろう。
「私もアレクが好きよ」
嘘偽りない、今の小夜子の気持ちだった。
アレクシスは小夜子の返答に、息を吐き出しながら背もたれに背中を預ける。
「嬉しく思う。サヨコ、これからはずっと私の傍に居て欲しい」
「愛人として?」
「・・・妃として迎えたい」
小夜子は考えた。しかしそれは数舜だった。
「いや、無理でしょ!」
甘やかな空気が小夜子の大声で霧散した。
「いやいやいや、無理!私が皇弟の妃?無理だから!」
「何故だ」
「逆になんで私に妃が出来ると思う訳?まあ妃が何たるかもよく知らないけど、色々公務とか、貴族達との交流とか、責務がある訳でしょ?そんな責任負えないわ!私は気ままに冒険者やっているのが性に合ってる。私は愛人の身分で十分よ。たまに帝国に遊びに来るから、その時はここで会いましょう」
「妃が嫌なら、私は皇族籍から抜ける。もともとその予定なのだ。公爵家なら結婚に問題はあるまい」
「あるでしょ!公爵夫人だって無理!」
「サヨコに妃や夫人の役割など、私はそもそも望んでいないぞ。サヨコは国が推挙した英雄だ。社会的な地位は私の妻としてよりも、国の英雄の側面が求められるだろう。サヨコは今と変わらずに思うまま過ごしてくれればいい」
「そんな、そんな・・・。そんなの私にだけ都合よくない?」
「都合が良いと思ってくれるのか?」
久しぶりに不敵に笑うアレクシスを見て、小夜子はハッとする。
さすがアレクシスは頭も良く弁も立つ。ついさっき、お互いの想いを確かめ合ったばかりだというのに、いつの間にやら結婚の条件の話になっているではないか。
小夜子は気持ちを引き締めてアレクシスに訴えた。
「アレクシス。私にはやらなきゃいけない事がある。それは帝国で終わらせる事が出来なかったの。次はコルネリアに行かなきゃいけないのよ」
「それは石像探しの事か?」
仕事の出来る部下のジムは、小夜子に関する事は余す事無くアレクシスに報告していた。
アレクシスが手元の鈴を鳴らせば、アンドリューが入室してくる。一度アンドリューが下がると入れ替わりでジムが入室してきた。
石像の件だとアレクシスに言われれば、ジムは一つ頷き話し始める。
「サヨコ、離宮の裏手に石像がある」
「本当?!」
帝国内ではこれ以上は見つからないだろうと思っていた石像の情報だった。
帝都では予想を上回る数の石像の修復が出来たのだが、6体以上は見つからなかった。更に運のランクを上げるためには探索場所を変えなければと思っていたが、なんだかんだと小夜子は帝都で一夏を過ごしてしまったのだ。
「ああ、離宮の警備を見直していて、山道の入り口の脇に石塊が並んでいるのを見つけた。これから行くか」
「行く!」
その日の内に小夜子とジム、カリンは離宮の裏手に向かった。
果たして、石像の残骸群は離宮の裏手、山道の入り口に整然と並んでいた。山道脇の木の根元に設置された石像は風雨に晒され全てが丸くなり、崩れかけていたが修復をすれば女神の道祖神へと全てが姿を戻した。その数は二手に分かれて4体ずつ、計8体の石像があった。
小夜子の運のランクには小さな+が14個並んだ。あと1つで15個となる。これまでは15個の+がランクアップの目安となっていた。
「もうこの辺りには石像は無いかしら。ジム、この山道の先へ行った事ある?」
「山道の上までは確認していないが」
「よし、行くわよ!」
「そうなるよねえー」
何の用意もせずに突発的に、小夜子達3人の離宮の裏手の登山が始まった。
人がほとんど分け入ることも無い山道は、整備は不十分とはいえ山の頂上に向けて細い道が伸びていて登れないことは無い。小夜子の体力的には問題無いし、ジムもカリンも曲がりなりにも軍人だ。
「ジム、カリン、置いていくわよ!」
「サヨコちゃん!置いてかないでえー!」
「待て、サヨコ!」
逸る気持ちのままに山道を上がっていく小夜子に、ジムとカリンは必死に食らい付く。
その日は数度の小休憩、一度の昼休憩を挟んで小夜子達はとうとう山頂に到達した。後半の小夜子は山道を駆け上がる勢いだったので、さすがのジムとカリンも声を発する事も出来ずに小夜子の後ろで呼吸を整えるために深呼吸を繰り返している。
「おお!良い眺めじゃない」
山を登り切った先は海に面した絶壁となっていた。一応木の柵が崖の手前には作られている。そして、頂上の開けた場所の端に風雨に晒され崩れた石ころが転がっていた。
小夜子が修復を施せば、その崩れた石は2体の小さな女神像となった。
これで運がAランクとなってから、今日で一気に16体の石像修復を終えた。
ステータス画面には運のランクと祝福の表記に変化はない。+の数は、16体目はカウントされず、15の表記となった。前回までと同じ流れであれば、今夜夢に女神が現れてランクアップを小夜子に告げるだろう。
目的を達成した小夜子は、ジムとカリンを連れて転移でアレクシスの離宮に戻った。
結局戻りは夕暮れ時になってしまったのだが、離宮に戻った小夜子をアレクシスは無言で抱きしめた。
「アレク?」
アレクシスはそのまま小夜子を軽々と抱き上げると、部屋の隅のカウチに座り、小夜子を抱きしめたまま横になった。
アレクシスはほうと、ため息をつく。
「戻ってきてくれて、良かった。もしかしたら、このままどこかに行ってしまうのではないかと、思っていた」
「石像を確認したら戻って来るって、約束したじゃない」
小夜子を抱きしめるアレクシスの腕の力は緩まず、小夜子はアレクシスの好きなようにさせる。
「・・・石像は、サヨコが望む物だったか?」
「うん。必要な数が見つかったわ」
「そうか」
会話は途切れたが、アレクシスは夕食の支度が整うまでカウチの上で小夜子を抱きしめたままでいた。
そして翌朝、アレクシスの腕の中で小夜子は目覚めた。
夢に女神は現れなかった。
運のランクがAに到達してから石像の修復は15体以上となったが、依然として女神ティティエは小夜子の夢に現れない。
小夜子の運のランクはA、女神の加護は大と表示されたまま変化もない。
ガルダン王国でも似たようなことがあった。いくら石像修復の数を重ねてもランクに変化は無く、15体以上の石像修復は次のランクに繰り越される事も無くあの女神はしれっとリセットしてくれやがったのだった。
女神は何の事情か知らないが、時々小夜子に接触できなくなる時期があるらしい。丁度今その時なのではないかと思う。
ランクアップのためにコルネリア行きが必要なのかどうかは分からない。現状打破のためにわざわざコルネリアに行ったとしても、行く必要は無かったなどとあの女神に後から言われても業腹ではないか。コルネリアはイメージ的に聖ハイデンの本拠地本丸である。行かなくて良いのなら行きたくはない。
離宮の裏手の石像を修復してから、手詰まりとなった小夜子は離宮の滞在をズルズルと伸ばしている。小夜子がアレクシスの離宮に滞在して一カ月が経とうとしていた。
アレクシスは小夜子を離宮に置いて政務の為に宮廷に出向くようになったが、離宮に帰れば片時も小夜子を離さない。普通の女性であれば、アレクシスに付き合っていれば寝台から起き上がる事も出来ずに寝たきりの生活になっていただろうが、無尽蔵の体力を持つ小夜子はアレクシスに難なく付き合えている。
しかし一月を共に過ごして、さすがのアレクシスも眠りにつく前に小夜子と語らう一時を持てるほどには余裕も生まれていた。
「サヨコ。お前がやらねばならない事は全て済んだのだろうか」
石像修復に関しては、必要な数が足りたとアレクシスに小夜子は報告していた。
「うーん。やるべき事はお陰様で済んだんだけど、望む結果に繋がらなかったのよねえ」
小夜子の運のランクがSランクに到達し、女神の加護もさらにランクアップがされたなら小夜子の旅の目的はヴァンデール帝国で達成されていた。
小夜子が不運や危険を周囲に巻き散らす事は最早なくなるし、聖ハイデンとの戦いは神力が十分漲ったであろう女神自身がすればいいのだ。
もしかしたら、ヴァンデール帝国で晴れて自由の身になれるかと思ったのだが、期待した分落胆も大きく感じる。旅をしながら人々と知り合うのも楽しいが、やはり小夜子は一所に腰を落ち着けてゆったりと暮らす事に焦がれているのだ。
考え込む小夜子を抱き寄せて、アレクシスはその額にキスを一つ落とす。
「その問題が片付かない限りは、お前も落ち着かないのだろうな」
「うん・・・」
「なら、行ってくるといい」
小夜子がアレクシスを見れば、穏やかな表情で小夜子を見つめていた。
想いが通じ合ってからのアレクシスの小夜子への溺愛ぶりは、当の小夜子も圧倒されるほどだった。小夜子も小夜子なりにアレクシスの事を想っているのだが、アレクシスの熱量は傍から見ても小夜子を上回っている。そのアレクシスが小夜子の出国に同意したのだ。
目線を合わせれば、アレクシスは穏やかに小夜子を見つめている。
「本心を言えば、お前と離れたくはない。だがお前の考えも尊重したい。だから、全てが片付いたら私の元に帰ってきて欲しい」
「努力するわ」
「サヨコ、その時は私と結婚して欲しい」
それには答えを返さず、小夜子はアレクの胸元に頬を寄せた。
「手強いな。何1つ約束をくれぬか」
アレクシスは1つため息をつくと、小夜子を抱きしめる。
「惚れた弱みだ。私はお前を黙って送り出そう。だが、忘れないでくれ。お前の愛を乞う哀れな男が、命尽きるまでこの国でお前の帰りを待っているという事を」
「・・・アレク、大好きよ」
何1つ将来の約束を交わす事は出来ないが、これは小夜子の本心だ。
これから女神と縁を切るべく全力を尽くすが、なんせ神相手の事だ。小夜子の思う通りに事が運ぶとは限らない。心の中でアレクシスに謝り、小夜子は今持てる想いだけをアレクシスに伝える。
しかし、この一冬の間位は休養を取っても罰は当たらないだろう。この1年、小夜子は急ピッチでランクアップを果たしたのだ。ベルトレイクダムの崩壊と、軍港や海上での大型魚介類の襲撃以降は、帝国での不運に小夜子は遭遇していない。
油断は出来ないが、女神からの接触を待ちながら冬を越す事にする。春になったらコルネリアに向かうと小夜子はアレクシスに告げた。




