ヴァンデール帝国辺境にて 3
ローラの家を訪ねれば、ドアの向こうに顔を出したローラの母親は小夜子に笑顔を見せた。憔悴した様子だった母親も元気を取り戻したようだ。
「旦那さんとローラの調子はどう?起き上がれるようになったんだって?」
「はい、お陰様で。旦那はもう起き出しています。ローラは明日には床上げをしようかと思っていました」
母親に促されて、小夜子は部屋の奥に通される。
衝立の向こうを覗くと、ローラもベッドの上で起きていて丁度小夜子の方を覗いていた。小夜子と目が合うとローラの頬がパッと赤く染まった。
「ローラ、サヨコさんよ。ご挨拶しなさい」
小夜子は散々ローラの寝顔を見ていたが、ローラからしたら小夜子は初対面の相手だ。小夜子はベッドサイドの丸椅子にゆっくりと座った。
「起きている時に会うのは初めてね、小夜子よ。調子はどう?」
「ロ、ローラです。あの、魔法を、ありがとうございます」
どんな話を聞いたのか、ローラは頬を上気させ、キラキラとした瞳で小夜子を見てくる。
「元気になって良かったわね。カルロスがあなたの為に命がけで薬草を持ち帰ったのよ。お礼ならおじさんに言ってね」
小夜子の言葉にローラは素直に頷く。
「サヨコさん、ガルダン王国の人なの?」
「いいえ。ガルダン王国から来たけど、王国民じゃないわよ」
「サヨコさんは、黒い髪が、この本の魔法使いみたい」
ローラは擦り切れて角が丸くなった、一冊の薄い本を小夜子に差し出した。
「読んでもいい?」
コクコクと頷くローラから本を受け取って、小夜子はその本を捲った。
その本は小夜子の元の世界でも良くあるような英雄譚で、挿絵と文章で構成された児童書だった。勇者が仲間達と冒険を繰り広げる物語で、その勇者の仲間の一人が長い黒髪の女性の魔法使いとして描かれている。
「ローラは父親から貰ったその本が大好きで・・・。すみません、サヨコさんの魔法の話をしたらすっかり興奮してしまって」
「構わないけど、私がこの魔法使いに似ているの?」
頬の上気はなかなか収まらず、潤んだ瞳でローラは小夜子にコックリと頷く。
絵本の中の魔法使いは純白のローブを纏った黒髪の美しい乙女で、勇者である黒髪の凛々しい青年を助けながら仲間と共に竜を倒し、国を救う。この国が何処とははっきり書かれていないが、山の向こうの竜と魔法の国となると国交のない未知の国、ガルダン王国という認識を子供から大人までがどうやら持っているようだった。
「残念ながら、私は魔法も使える冒険者なだけ。国を救う英雄の仲間じゃないわよ」
「でも、おじさんとお父さんと、私を助けてくれた」
顔の赤みが引かない少女を、小夜子はそっとベッドに寝かしつけた。
「今回は運が良かったわね。この魔法使いと違って、私には出来ない事も沢山あるのよ」
「そうなの?」
「うん。私は料理が苦手。料理が上手なデニスの奥さんや、あなたのお母さんの方がよっぽど魔法使いみたいだわ」
「えーっ?うふふ!」
思わず笑うローラの額に小夜子が手を当てると、やや熱いように感じた。
「ほら、まだちょっと起きるのは早いみたい。もう休んだ方が良いわ」
「サヨコさん、まだここにいる?どこかに行っちゃわない?」
「うん、もうしばらくここに居るわよ。この近くの集落も全部調べたいから」
「よかったぁ・・・」
小夜子がしばらく集落に滞在する事が分かって安心したのか、ローラはすぐに寝入ってしまった。
まだ本調子ではなかったローラはそれから更に二日ほど安静に過ごし、やっと床上げとなった途端に小夜子のコンテナハウスに突撃してきたのだった。
小夜子が山間の集落にやってきて1週間が過ぎていた。
「サヨコさん!おはよう!!」
「・・・おはよう。元気ねぇ、ローラ」
結構な早朝にローラの突撃を小夜子は受けた。
ローラの後ろにはその母親が申し訳なさそうに立っている。両手に握りこぶしを作ってコンテナハウスの玄関に立つローラは、病に倒れた儚げな美少女と言った雰囲気は完全に消え失せて生命力が漲っている。
そしてローラの服がとても可愛い。まるで小さなマトリョーシカが動いているようだ。防寒はしっかりとされていて、頭には花柄の可愛いスカーフが巻かれていた。ちなみにローラの母親の服とスカーフも可愛らしい。男性の服は紺色や茶色ベースが多いが、女性の服は赤地や青地に鮮やかな花の刺繍が施されていたりして華やかだ。
2人の服を褒めると、母子はそっくりな顔で笑った。
ちなみに初めて会った時のカルロスの上着が黄色で鮮やかだった話をデニスにしたら、その黄色は遺体を探す目印に男達が身に付ける物だという話が出てきた。確かに深緑の山の中であの黄色は目立った。豊かな生活につい忘れそうになるが、この集落の人々は過酷な自然の中に身を置いている。カルロスは本当に死ぬ覚悟で薬草を求め、道なき道を辿っていたのだ。
カルロスと小夜子の出会いは奇跡なのか必然なのか、小夜子が女神の手の上で転がされた結果なのか、本当の所はムカつくので知らなくてよい。結果カルロスが助かったのだから、その点だけは絶対に良かったのだ。
「すみません、サヨコさん。どうしてもこちらに行くと言って、きかなくて・・・。ご迷惑でしたら連れて帰りますから」
「今日は特に予定は無いから大丈夫よ。ローラは私に何か用?」
「サヨコさんに、魔法のお礼をしたくて!私のとっておきの場所を教えてあげる!」
「それは、ローラがサヨコさんに見て欲しいだけでしょう。お礼になっていないわよ」
ローラの母親は額を押さえてため息を付いている。
「あはは、ローラはほんとに元気いっぱいねえ」
「お転婆すぎて手を焼いています。山の動物とも距離が近くて、姿が見えないと心配で心配で」
「あらまあ」
小夜子がスカーフの上から頭を撫でると、ローラは嬉しそうに目を細めた。全く母親の話を聞いていないローラの様子に、小夜子もつい笑ってしまう。
「元気なのは良い事だけど、あまりお母さんを心配させたらダメよ。動物は可愛く見えても、近づいたら怪我をする事もあるからね」
「ガーガは友達だもん。危なくないよ!」
おや、と小夜子は思う。
どうやらローラには懇意にしている動物がいるらしい。
「いいわ、今日は1日私がローラを預かる。お昼ご飯も任せて。暗くなる前には家に届けるから」
「そんな、いいんですか?」
申し訳なさと、ありがたさがせめぎ合い、ローラの母親は迷う様子を見せた。
「任せて!責任を持ってローラを預かるわ。家族の看病で冬支度どころじゃなかったでしょう。今日は色んな仕事を片付けたらいいわよ」
最終的に小夜子の申し出をローラの母親はありがたく受けた。ローラの母親が何度も振り返りながら自宅に戻っていくのを、小夜子はローラと手を振り見送る。
「さてと、ガーガを私に紹介してくれる?」
「いいよ!」
ローラの案内で小夜子はガーガに会いに行くことになった。
「へえ、綺麗な湖ね」
集落の奥の細道を10分程度山頂に向かって登れば、小夜子の目の前には大きな美しい湖があらわれた。その湖にはカモの群れが泳いでいる。今日は小夜子が集落に来て初めての快晴で、水色の空が湖面に映り素晴らしい景観だった。
「ガーガ!」
ローラがカモの群れに呼びかけると数羽が驚いて飛び立ったが、1羽ローラに近づいてくる個体が居る。頭部が鮮やかな緑色をしたオスだ。ローラが餌を湖面に投げると、オスのカモの他にも数羽が勢いよく近づいて来て餌をついばみ始める。ローラが片手に握ってきたカモの餌は一瞬で無くなり、オスの個体は湖から上がってきて催促するようにローラのブーツを啄む。とても良く慣れている。ローラはオスのカモの背をしゃがんで撫で始めた。
「ガーガはローラと昔から友達なの?」
「ううん。カモは毎年違うから、ガーガはこの冬だけの友達だよ!」
「なるほど」
ローラと話をしながら小夜子は湖面に浮かぶカモを次々と鑑定していく。そして最後にローラと戯れるカモにも鑑定をかける。結果は、小夜子の予想通り、湖面に浮かぶカモの半数が鳥インフルエンザに罹患していた。ローラと触れ合っているカモもその内の1羽だった。
山道が崩れて人の行き来が無くなった集落で、どこからインフルエンザがやってきたのかと小夜子は不思議だったのだ。
「ねえ、ローラ。ローラは熱を出したわよね。その原因だけど、多分そのガーガだと思うの。ガーガの病気がローラにうつったみたい」
「ええっ!!」
ローラはショックを受け、顔を強張らせた。
「じゃあ、ガーガは食べられないの?!」
「うん?」
ローラの反応は小夜子の予想と違った。
「せっかく慣れさせて、太らせて、そうしたらお家でみんなで食べようと思ってたのに!」
「あっ、あー・・・そう。そうなのね。それなら大丈夫。火をしっかり通せば食べられるわ」
「ほんとう?良かった!!」
ローラは破顔してガーガに抱き着いた。ガーガはローラを嫌がるように数度羽ばたいて、また歩いて湖へと戻っていった。
「食べられるけど、ガーガを手で触った後は手を良く洗って、抱き上げた時は服も着替えた方が良いわ。じゃないとまた熱がでるかもしれないの。その熱がまたお父さんやお母さんにうつったら大変でしょ?」
「わかった!」
ローラはなんともたくましい山の子供だった。
小夜子はローラに一度清浄魔法をかけておく。「魔法!」とローラは喜んでいた。
インフルエンザの感染要因の一つとして、鳥インフルの話もデニスとしなければならないなと小夜子が考えていると、ローラが一メートルほどの木の棒に何やら糸に繋いだ飾りを付けて、それを勢いよく湖面に放り投げていた。
「きた!!サヨコさん、手伝ってー!」
棒を両手に持ったローラは小夜子に助けを求めた。そのローラはじりじりと湖へと引きずり込まれそうになっていた。
「何してるのローラ!!」
「サヨコさん、釣り竿持ってえ!」
小夜子は慌ててローラとローラが握る木の棒を掴み、思い切り後方に飛んだ。ローラが握っている棒に繋がれた糸の先には立派なマスが食らいついており、ローラと一緒に宙を舞った。マスは放物線を描いて小夜子達の横にビタンと落ちた。そのマスは前世の記憶のマスの2倍以上はあり、ローラの身長を優に超える大物だった。
「やったぁ!大きいよ!!」
そのマスに湖へ引きずり込まれそうになっていたローラは、小夜子の体の上で無邪気に喜んでいる。
「ローラ!危ないでしょ!こんな事1人でやってるの?!」
「ううん。1人ではやらないよう。お父さんと一緒の時だけ。今日はサヨコさんが一緒だったから」
「・・・そうなのね」
どうやらローラなりに安全か危険かの判断の上、行動しているらしい。小夜子はローラから、多少の無茶もフォローしてくれる要員として父親と並んで認められたようだ。
「ガーガはまた今度、お父さんと取りにくる。サヨコさん、もっと魚釣りしていい?」
先ほどの様子を見ていると、マスは疑似餌に食いついたというよりは疑似餌の先のローラを狙っていたように思えるのだが、ローラは釣りを続行する気満々だった。
「この大きさが10匹もあったら、みんなにマスの燻製を配れるなあ。とっても美味しいんだよ。ちょっと固いけど、よく噛んだら美味しい味が口いっぱいに」
「よし、釣るか!」
ローラの食レポは小夜子に対して効果抜群だった。
俄然やる気を出した小夜子は、疑似餌と化したローラとタッグを組んで巨大なマスを午前中の間釣りに釣りまくった。
その釣果は目標を大幅に上回り、20匹にも達した。全てが2メートルに届く大物だった。腹が膨れて卵を抱えているものも半数近くあり、ローラがとても喜んでいた。
「さすがに疲れたわね・・・」
山と積まれたマスの横で、小夜子が湖を眺めながら小休憩していると、何やらローラがマスの近くでごそごそと作業している。
「ローラ、何してるの?」
「サヨコさん、ちょっと味見しようよ。マスは塩焼きもとっても美味しいんだよ」
「よし、焼こう!」
ローラは手持ちのナイフで腹身の一部分の鱗を払い、サクサクと4切れ切り身を作った。手近の大きな葉に切り身を並べ、今度は手ごろな枝の皮を削ぎ、4本の串を作る。それから手早くその辺の枯れ木を集めて焚火の準備をする。小夜子がマスを串にさし、塩を振っている間にローラは枯れ木に火をつけた。
「皮と身、どっちから焼くの?」
「皮からだよ!」
ローラ主導の元、マスの塩焼きの準備があっという間に出来た。
ローラを預かると言ったのだが、こうなってはどちらが面倒をみられているのかわからない有様だ。
「もうそろそろ食べれるよ」
ローラのOKが出たので、小夜子は焚火の前から一本串焼きを取り、パリパリの皮目から慎重にかじりついた。
「美味しい!」
「でしょー?」
感動に震える小夜子に笑いながら、ローラも自分の塩焼きにかぶりついた。
快晴の中、湖を眺めながら食べるマスの塩焼きは最高だった。これと一緒にビールも飲みたい所だったが、さすがにローラの監督責任のある小夜子は自重し、マス焼きを食べながら粉末のコーンスープを小鍋で戻し、ロッドから貰ったデニッシュパンと一緒に少し早い昼食を済ませた。
昼に差し掛かった頃には小夜子とローラは早々に集落に帰る事にした。大漁のマスの処理作業があるからだ。集落の広場にマスを山積みにすると、その日は集落の大人総出でマスの燻製作りとなったのだった。
「仕事を増やしちゃったかしら」
「いやなに、冬の蓄えに更に余裕が出来る。かえってありがたいよ。それにサヨコさんの支援が無ければ、集落総出でマスを釣ろうと思っていたんだ」
忙しそうではあるが、大人達の表情は明るかった。
デニスの指揮の元、広場で役割分担しながらマスは効率よく解体されていく。大人達の中にはローラの他に子供も数人交じっていて、子供達も大人顔負けの働きをしている。
「デニス、一つ報告があるんだけど」
作業を見守っているデニスに、小夜子は湖のカモとローラの話をした。
「はあー、カモが熱病の原因とはねえ・・・」
「原因の1つよ。人から人へ感染する事ももちろんあるし。でも今回は山道が崩れていて人の往来が無かったでしょう。多分カモからだと思うのよね。でもカモは良く火を通せば食べても大丈夫。熱病の原因は焼けば死滅するからね。あと、カモや動物を触ったら必ず手を洗う事。熱が出ている人に近づいた時も手を洗う事。手に付いた病気の元が食事の時に口に入ったり、目を擦ったら目に入ったりして熱病になるのよ」
集落の広場の片隅には手洗い場がある。作業中の人々が代わる代わる水場で手を洗っていた。聞けば一年中凍らない湧き水なのだそうだ。
鉄パイプから石造りの洗い場に常時水が出るようになっていて、夏は冷たく、冬はほんのり温かいのだという。小夜子は洗い場の上部に石鹸を置ける窪みを作り、固形石鹸を一つ置く。
「出来れば家に帰る前は必ず手洗いをすればいいんだけど、動物を触ったら必ず手洗いすること。これは絶対よ」
「わかった。皆に言い聞かせておくよ」
真剣に頷くデニスに小夜子は固形石鹸を大箱で渡す。ガルダン王国の石鹸は非常に柔らかく、水場の近くでは溶けてしまいそうなのでここは日本製の物を渡した。石鹸が高価かもしれないので、小夜子の提供分が尽きたら集落で無理のない風邪予防を考えてもらえたら良い。
「サヨコさん、助けてもらってばかりで申し訳ないが、頼みがあるんだ」
改まったデニスが小夜子に切り出した。
デニスからの頼みは2つで、1つは熱病の原因と手洗い奨励を近隣集落に広めたい事。もう1つは、食料の支援をしてくれた集落に物資の返還をしたいという頼みだった。
「カルロスと石像を探す話も聞いているんだが、手洗いの推奨と、一緒に物資の返還も頼めないだろうか」
「いいわよ」
小夜子にとっては苦もない話なので、軽くデニスの頼みを承諾する。あまりに簡単に話を聞き入れる小夜子にデニスは苦笑した。
「普通の人にはまず頼めない事だよ。サヨコさん、あんたはすごいね」
「私だって出来ない事は断るわよ」
「サヨコさんの出来ない事って、いったい何があるんだか」
デニスは大笑いしながら広場の作業に加わった。
今日のローラのお守りはこれで無くなったので、それから小夜子はカルロスと明日以降の集落巡りの打ち合せを済ませて広場を後にした。




